第48話 帰路
結論から言うと。
めちゃくちゃキスされた。
スーパーの裏にある、ちょっとした路地の中で、僕と真里菜は何度も唇を重ねた。
お互いの呼吸が苦しくなるまで重ねて、外してから呼吸を整えてもう一度、という形で何度もした。僕は今まで彼女というものを作ったことがないけれど、一般的なカップルはこんなにもキスするのだろうか。多分しないと思う。
ずっとそうしてたから、僕の頭はもう蕩けそうなくらいにくらくらだ。多分、今、足元も覚束ない状態だと思う。
何故か真里菜はツヤツヤしていたけれど。
「ありがとうございます、武人」
「え……えっと、何が?」
「いえ……武人は、私の知らないことをたくさん教えてくれます。口付けというものが、これほど心地良いものだとは知りませんでした。これも、武人という恋人を得たからこそ手に入れることができたものでしょう」
「う、うん……」
改めてそう言われると、照れる。
僕だって、幸せを感じていた。女の子と唇を重ねることが、これほど衝撃的なものだとは思わなかった。それを教えてくれたのは、間違いなく真里菜である。
もう、このまま離れたくないと切実に思った。きっと、ドラマや漫画とかでみる「今夜は帰りたくない」と言う女性って、こんな気持ちなのかもしれない。
おかげで、もう夕暮れを越えて夜が差し掛かっている。少なくとも、今から真里菜が帰宅するとなれば夜になってしまうだろう。
さすがに、夜道を女の子一人で歩いて帰らせるわけにはいかない。
「真里菜さんは、家って、どこ?」
「ここから歩いて、二十分ほどのところです。ああ、大丈夫です。一人で帰れますので」
「そういうわけにはいかないよ。夜道を女の子一人では……」
「暴漢が出たとしても、撃退する自信はありますが」
「……」
いや、事実そうなんだと思うけど。
それでも、僕が思ってしまったのだ。真里菜を送っていきたい、と。
夜道を一人で帰らせるのがどうとか、危険だから送るとか、そういうのじゃなくて。
僕は、もっと――少しの時間でも長く、こんな風に真里菜と一緒にいたいんだ。
もう、時刻は六時半を回っている。
常に六時きっかりに始まる千葉家の食卓は、まだ寂しいままだ。少なくとも欠食児童が一人、我が家でひもじい思いをしているに違いない。亜由美には後で謝ることにしよう。
とにかく、僕は真里菜を送っていく。そう決めたのだ。
「でも、送ってく。ほら、行こう」
「ですが……」
「デートは、帰るまでがデートだから。ちゃんと真里菜さんが家に帰らないと、僕も安心できないからね」
「はぁ……」
僕も、自分で何を言っているのか分からない。多分、色々と頭が浮ついているのだと思う。
もう、帰り際に色々ありすぎて、僕の頭もパンクしそうだ。
今、真里菜から「いい壺があるのですが」と言われたら、きっと買っちゃうだろう。それくらいに判断力が低下している自信がある。
「そうですね……では、ご一緒させていただきます」
「うん」
すっ、と自然に、僕と真里菜は手を取る。
夕暮れの残滓が西の空をオレンジに染め、既に東には夜の帳が降りている中で、真里菜と二人で歩く。さすがに夜になると、僅かに肌寒い。そして、お互いの握った手からは体温が伝わってくる。
唇の感触を思い出しながら、ちらりと隣を見た。
「……」
既に暗くなり、街灯もちらほらと点灯を始めている。そんな中でも、分かる。
真里菜は、綺麗だ。
こんなにも綺麗で、こんなにも可愛らしい女の子が、僕の恋人なんだ――そう考えるだけで、頭がくらくらする。
僕は本当に、真里菜に見合った恋人なのだろうか。
どう考えても不釣り合いだと思う。僕、極めて普通の人間である自覚があるし。イケメンでもなければスポーツマンでもなく、頭が良いわけでもなければ目立つグループに所属しているわけでもない。およそ高校生における、モテる男という存在の持つものを何一つ持っていない男だ。
せいぜい得意なことといえば料理にお菓子作りくらいのもので、それはむしろ女の子のモテ要因だろう。ああ、だから女子力高いとか言われるのかな、僕。
「武人」
「え……あ、うん?」
考え事をしていたせいで、真里菜の言葉に返事が遅れてしまった。
いかんいかん、ちょっと自己嫌悪してしまった。別に何があったわけでもないのに。
真里菜は僕の名前を呼んでから、僅かに考えるように首を傾げつつ、顎に手をやる。
「ある森の中におけるゲリラ戦で、哨戒の兵士が戻ってきて報告したそうです。『状況はオールグリーンだ。ついでにオールグリーンだ』と」
「……?」
え。
いや、何を言っているのか分からないのだけれど。
ゲリラ戦と今の状況に何の関係があるのだろう。真里菜の思考回路が分からない。
ええと。
僕はこの言葉に、何をどう返せばいいのだろう。
「……どういうこと?」
「ふむ。いえ、分かりにくいですね。森の中におけるゲリラ戦ですから、周りは木ばかりなのです。ですので報告の際に、『
「……」
「信号機と同じように、緑は安全、黄色は注意、赤は危険というのが軍での隠語です。そのため、グリーンという言葉を『正常』、『緑』という二つの意味に捉えた結果としてのジョークですね」
「……」
いや、そういうことを聞いているわけじゃないんだけど。
というか、何故唐突にそんなアメリカンジョークを始めるのだろう。僕、アメリカンなこと言った覚えないよ。
「ふむ。やはりあまり面白くはなかったですか」
「え、ええっと……どうしたの? ジョークって……」
「ええ。姉に言われまして。『ちょっと会話がなくなったら、小粋なジョークとか挟むといいわよ』と」
「……」
またお前か。
「ですので、私なりに小粋なジョークというものを挟んでみたつもりなのですが」
「うん……解説聞くまでよく分からなかったよ」
「元が英文でのジョークですからね。江藤が一緒にゲームをやっていたジェニファーさんに教わったそうです」
「加奈子何やってんの」
誰だよジェニファーさんって。
というか、世界規模でコミュニケーションとれるゲームやってるのかよ加奈子。
柔道部の練習やってゲームして忙しいな。
「さて……到着しましたね、ここです」
「あ……ここなんだ?」
そんな風に話しているうちに、真里菜の家に到着した。
割とお金がかかっていそうな、和風建築の家だ。瓦屋根のどっしりとした門構えである。建てられてから、それなりに時間が経過しているのだろう。それが逆に、侘び寂びを思わせるものだ。
そして、家の隣に建っているのは道場だろうか。現在も中から「はぁっ」「せいっ」「しゃあっ」と男たちの声が聞こえてくる。
駐車場らしき場所には、赤いスポーツカーが停まっていた。お姉さんは在宅であるらしい。
「それでは武人、また明日、学校で」
「……うん」
「あ……いえ、少々お待ちください。ふむ……よく考えれば……」
「へ?」
「少し、家の中に入ってきます。武人はここでお待ちいただけますか?」
「あ、うん。それはいいけど……」
一体、何があったのだろう。
真里菜は慌てて家の中に入って、それからすぐに出てきた。
何故か、真里菜とよく似た、年上の女性を連れて。
「そういうわけで、よろしくお願いします。姉さん」
「……わたし、無理やり連れてこられただけで何も状況を把握していないんだけど」
「姉妹なのだから分かってください」
「真里菜ちゃんお姉ちゃんに無茶振りしてるの分かってる?」
真里菜よりも僅かに背の高い、整った顔立ちの女性だ。
だが真里菜ほどの完璧な美少女というわけではなく、『ミス◯◯』みたいな何かに選ばれていてもまぁおかしくはないだろう、くらいのものだ。失礼な言い方かもしれないが、比較対象が真里菜なので仕方ない。
髪をやや茶色に染めて、両耳にピアスも開けている。無骨で真面目な真里菜と違って、割と遊んでいそうだ。
「ええ、私は気がついたのです。ああ、紹介します武人。姉の
「ええと……千葉武人くん、かしら? わたし、和泉梨央奈といいます。真里菜の姉です」
「は、初めまして、千葉武人です」
「姉さん、私は気がつきました。武人は非常に女子力が高いのです」
「うん?」
お姉さん――梨央奈さんが、随分と不思議そうな顔で僕を見る。
いや、お姉さんが出てきたことと、僕が女子力高いことには何の関係もないと思うのだけれど。
一体どうして、ここでお姉さんを呼びつけることに――。
「もしも武人が夜道で、誰かに襲われてしまった場合、私は後悔しても足りないでしょう。武人は私よりも弱いですから、暴漢に対しても抵抗することができないと思います」
「……え?」
「ですので、姉さんに車で送っていってもらうことが一番かと思いました。武人の家まで、徒歩で三十分以上はかかります。ですので姉さん、武人を送っていってください。武人の安全のために!」
「……あの?」
どうして僕が誰かに襲われるのさ。
そりゃ多少女顔かもしれないけど、僕を襲うとかかなりの変態さんだと思うよ。
そんな真里菜の提案に、梨央奈さんは小さく嘆息して。
それからきらんっ、と光る車の鍵を、懐から取り出した。
「そういうことなら任せて、真里菜ちゃん。お姉ちゃんが無事に武人くんを送っていくわ」
「ええ、お任せします、姉さん」
「……」
この会話を聞いて思うことは一つ。
ああ、やっぱりこの人、真里菜の姉さんだ。
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