第47話 閑話:暗躍する父
「お待たせしました、テツさん」
「おう、久しぶりだな。
郊外にある、小さな喫茶店。
表通りから通りを二つほど挟んだそこは、決して人通りの多い立地ではない。休日の昼間でさえ、ろくに客入りはない喫茶店である。だが雰囲気は良いし、珈琲の味も悪くない。
千葉哲治は、そんな小さな喫茶店――『オルガンの園』をこれまで何度となく利用してきた。
哲治は、麻薬取締官である。
警察とは一線を画するその仕事は、あくまで公安という形で認識されているものだ。だがその権限は、あくまで麻薬関連の事件であれば警察と変わりないものである。
そして、麻薬という本来裏の世界でしか取引されていないものに関する情報を得るためには、少なからず裏の世界と繋がる必要性がある。情報屋だったり別の公安だったり、表立って会うことのできない相手というのは存在するのだ。特に、仕事上唯一『おとり捜査』が認められており、近所の住人にすら暴力団の一員だと思われていなければならない哲治であったとしても。
ゆえに、哲治はそんな風に、表立って会うことのできない相手と密会をする場所として、この『オルガンの園』を利用している。
その理由は単純で、この『オルガンの園』を経営しているのが、哲治の元上司で既に麻薬取締官の職を辞した男であり、密会に良い奥の個室を案内してくれるからである。
「よく来てくれたな」
「テツさんの呼び出しなら、すぐに来ますよ。今日はどんなネタをいただけるんで?」
「まぁ、座れ。コーヒーでいいだろ?」
「ええ」
そんな哲治が待ち合わせていた男――宇佐美
それなりに有名な出版社であり、主にゴシップ関連の雑誌を担当している。◯◯砲、とよくマスコミで揶揄されるそこは、全ての者が誰よりも早くスクープを得ようと、独立して行動しているのだ。怪しいと察した芸能人を追いかけ、その潜伏に対して待機を行うなども日常茶飯事である。
彼は哲治の一個下の後輩であり、元は同じ柔道部に所属していた者だ。哲治の本当の職業を知る、少ない人間の一人である。
宇佐美はスクープを得るために、哲治の情報を得るため。哲治は現在、マスコミが掴んでいる情報を確認するため。その上で、新しい被疑者が浮かび上がっていないか――そんな、出版社ならではの独立した情報を獲得するために、こんな風に定期的に会っているのだ。
運ばれたきたコーヒーを一口啜って、哲治は煙草に火を灯す。
家ではほとんど吸っていないが、哲治は喫煙者だ。自宅で吸うと息子である武人がいい顔をしないし、娘の亜由美からは「たばこくさい」と逃げられるのである。
ふぅっ、と白煙を吐き出すと共に哲治は、にやりと唇を歪めた。
「ちょっと聞きてぇんだけどな」
「ええ」
「お前、北村正輝って知ってるか」
「あー……元オリンピック金メダリストですよね。シドニーだか北京だか忘れましたけど。今は高校の柔道部でコーチをしてるとか聞きましたよ。たまーにテレビにも出てますね」
宇佐美の頭の中に並べられている情報に、思わず舌を巻く。
普通、人名をただ言われただけで、それだけの情報は出てこないだろう。どこまで勉強をしているのだ、この男は。
だが、話は早い。
「元メダリスト、覚醒剤疑惑ですか? そりゃスクープになりますよ。今、麻取の方で追ってるんです?」
「あー……今回はヤク関連じゃねぇよ。プライベートだ」
「は? どういうことですか?」
「その北村正輝って元メダリストがコーチをやってる学校に、うちの倅が通っていてな」
「へぇ。確か、栄玉学園でしたっけ」
「ああ」
哲治は教えたこともないというのに、即座に学校名まで当ててくる。
どれだけの情報を持って、取材を行っているのだろう。実に凄まじいと思う。
「まぁ……身内のこういう話を言うのも恥ずかしいもんだが、うちの倅に恋人ができたんだよ」
「はぁ」
「その恋人ってのが、柔道部に所属しているそうだ。んで、うちの倅はその北村から別れろと言われた」
「なるほど、職権乱用ですか」
「そういうこった。弱いか?」
「弱いですね。せめてセクハラ指導でもしてくれてなきゃ、誌面に載せられませんよ」
哲治の質問に、渋面で返す宇佐美。
確かに、この程度で誌面に載せられるとは思っていない。だからこそ、哲治はわざわざ宇佐美を呼びつけたのだ。
その確たる証拠を、提出するために。
すっ、と哲治はその懐からUSBメモリを取り出し、テーブルの上に置く。
「こいつが、その音源だ。うちの倅に、北村が言ったこと全てのな」
「ふむ……後ほど聞かせてもらいますよ」
「ああ。んで、俺が倅の代わりに被害届を提出した。こいつも……北村からうちの倅に行われた脅迫、恫喝の音源も加えて。まぁ、少なくとも強要罪には値すると考えてな」
「……まぁ、起訴まではいかないでしょうね。事件性は少ないですし、あくまで一個人間のトラブルですから。息子さんが殴られたとかならまだいけると思いますけど、言葉での脅迫だけじゃねぇ……」
「不起訴にはなるだろうな。だが……起訴された事実は残る。それは間違いねぇ」
くくっ、と哲治が笑みを浮かべる。
哲治とて、この程度で警察が動くとは思っていない。加えて、検察が公訴を行うわけがないのだ。せいぜい、学校に対して注意を行う、くらいの措置で終わるだろう。
だが、それでは哲治の怒りが収まらない。
「んで、だ」
「はいはい。まぁ、一応編集長には掛け合ってみますよ。あんまり大したヤマじゃ……」
「和泉真里菜のことは知ってるな?」
ぴくり、と宇佐美の眉が動く。
「現役最強の女子高生柔道家ですね。ただでさえ柔道が強いってのに、あれだけの美少女なら誰だって食いつきますよ。芸能事務所もかなり注目してるって聞きますからね。うちの誌面でも、特集を組ませてもらったことあります。ああ、そういえばあの娘、栄玉学園でしたね。北村正輝に指導されているんですよね?」
「ああ」
北村正輝は、正直に言えば大した旨味のない相手だ。
それこそ性的な嫌がらせを行った事実だとか、選手を殺めたとか、そんなレベルでなければ注目されることなどあるまい。
だが、和泉真里菜は違う。
現在、日本で最も注目されている柔道選手だとさえ言っていい。次回のオリンピックでは金メダルを確実視されている逸材だ。それに加えて、並の芸能人など足元にも及ばないルックスを持つ彼女は、マスコミにとって価値の高い存在である。
「うちの倅が、その恋人だ」
「――っ!」
「この音源の中にも、間違いなくそのやり取りがある。面白ぇと思わねぇか? 和泉真里菜の恋人が、そのコーチから脅迫を受けて別れることを迫られた……これは間違いねぇスクープだろ?」
「……テツさん、その事実は」
「勿論、誰にも言ってねぇよ。嘘だと思うなら、その音源聞いてみろ」
にやっ、と宇佐美が唇を歪める。
国民的アイドル柔道家、和泉真里菜の恋人――その情報は、宇佐美しか知らないことなのだ。
その事実に、胸踊っているのが分かる。
「ちょっと、音源聞かせてもらってから判断します。一旦社の方に戻って、編集長に掛け合いますよ」
「ああ、頼む」
「ありがとうございます、テツさん。ここの払いは俺が」
急いで会社へと戻ってゆく、宇佐美の背中を見送る。
これで、もう北村に逃げ場はないだろう。和泉真里菜の恋人というスクープと共に、北村がその恋路を邪魔したという事実が報道されるはずだ。そして、どれほど将来有望な選手であったとしても、その私事にまでコーチが関与していいものではない。
明るみに出たその事実から、彼がどのような道を辿るのか。どれほど、マスコミが炎上してくれることか。
それを期待して、哲治は笑みを浮かべる。
「安心しろ、武人」
くくっ、と煙草の先端を灰皿で揉み消して、哲治は呟く。
「お前の受けた屈辱は、きっちり制裁で返してやるからな」
宇佐美にも言ったことだが、あくまでこれはプライベートなことだ。
だが、それでも。
父親として、息子を貶めた奴にはきっちり制裁を受けてもらうこととしよう。
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