第40話 自覚した想い

「それでは武人、私は練習に向かいますので、ここで」


「あ、ああ……うん」


 結局、北村に反論の余地は全くなく、僕たちは帰っても良いことになった。

 ちなみに、その許可をくれたのは高橋先生だ。「もう帰ってもいいぞ。あとはやっておくから」とだけ言ってくれたけれど、一体何をしてくれるのだろう。理事長への報告とかだろうか。

 なんだか、全部を真里菜に任せてしまったような気分だ。僕、何もしてない。


「あのさ、真里菜さん」


「はい?」


「その……どうして、柔道部を辞めるとか、そんなこと、言ったの?」


 真里菜は、柔道を心から愛している。それは、僕にも分かることだ。

 そして柔道家として、インターハイという場は間違いなく自分の全力をぶつける場所だと思うし、いくら指定強化選手という扱いであっても、そんな風に簡単に辞めていい場所ではないはずだ。少なくとも、北村の経歴にも傷がつくだろうけれど、真里菜の経歴にもまた傷がつくはずである。

 だというのに、そんなことを宣言してまで――真里菜は、僕を助けてくれた。


「別段、辞めても問題ないと考えたからです」


「でも……柔道は、やりたいんだよね?」


「それはその通りですが、それ以上に……そうですね、多少、冷静さを欠いていたとは思います」


 ふふっ、と真里菜が笑みを浮かべた。

 その笑顔もまた、綺麗で、美しい。

 こんなにも綺麗な女の子が、僕の恋人――そう考えるだけで、まるで夢を見ているかのように感じられる。


「私は、武人の恋人です」


「う、う……うん」


「恋愛関係というものにはまだ疎い私ですが、それを無理に止められることに対しては、ひどく不快感を覚えました。そのようなことを言ってくるような指導者には、もう指導を受ける必要もないと思えるほどに」


「……」


 ただの不快感だった、ということなのだろうか。

 別にそれでも問題はないんだけど。でも、少しだけ残念な気持ちになる。

 僕のことが好きだからとか、そういう理由だったら――。


「あとは……そうですね。純粋に嫌だったのです」


「何が?」


「武人と離れることが、です。北村コーチは、二度と私に近付くなとか、そういうことを言っていたでしょう? 武人が良くても、私が嫌なのです。私は、武人と共にいたい。そのためならば、柔道部を退部することも辞さない覚悟でした」


「え……」


 かーっ、と僕の顔に、熱が走ってゆくのが分かる。

 いや、ちょ、ちょっと待って。なんだか、冷静に凄いこと言ってない?

 僕と一緒にいるためなら、柔道部だって辞める覚悟とか――。


「では武人、私は練習に戻りますので」


「え、あ、うん……」


「では、また明日」


 凛と背筋を伸ばして、颯爽と柔道着を揺らしながら武道場へと向かう真里菜。

 僕はその背中を見送りながら、なんとなく、胸に手をやった。

 煩いくらいに、鼓動が高鳴っている。きっと僕の顔は真っ赤だし、思い出すだけでなんとなく口元が緩むのが分かる。


 ああ、そうか。

 僕はもう、こんなにも真里菜のことが好きだったんだ。














「ただいま」


「おう、遅かったな」


「にーちゃんおかえりー。おなかへったー」


「はいはい。今からご飯作るから」


 普段は六時を五分以上早まりも遅まりもしない千葉家の食卓だが、今日に限っては少々事情が異なることになった。

 いつも学校が終わってすぐに帰る僕は、帰宅の途中でスーパーに寄り、そのまま家で夕食を作るのだ。だけれど、今日は北村に生徒指導室に連れていかれ、無駄な時間を過ごしてしまったせいで、既に時刻は五時半である。

 今からご飯となると、凝ったものは作れない。それこそ、親子丼みたいな簡単な食事になってしまうだろう。


「武人」


「うん?」


「何かあったのか?」


 キッチンに向かう僕へと、父さんがそう話しかけてくるのが分かった。

 普段通りにしていたはずなんだけど、父さんは職業柄、人の変化に敏感なのだ。僕の、少しばかり打ちひしがれている気持ちも見抜いたのかもしれない。

 ちなみに亜由美は、そんな僕の様子などどうでもいい、とばかりにゲームをしていた。


「……ちょっと、呼び出しがあってさ」


「ほう? まぁ、俺の息子だ。悪いことはしてねぇよな」


「別れろって言われたんだよ。真里菜さんと」


「……誰にだ?」


「まぁ、気にしないでよ。もう解決したから」


 解決したといっても、真里菜が力技で解決してくれたようなものだけれど。

 だけれどそんな僕に、父さんは眉根を寄せた。


「解決って、どういうことだ?」


「僕の存在は真里菜さんには迷惑だから別れろ、って柔道部の指導者に言われたんだよ。北村って名前の、元メダリストの柔道家。嫌な奴だったよ。真里菜さんが矢面に立ってくれて、どうにか許してくれたけどね」


「……ほー」


 にやり、と父さんが笑みを浮かべた。

 僕知ってる。大抵、こういうときの父さんは、ろくなことを考えてない。

 父さんは、そのまま僕の胸ポケットを指して。


「お前に、ボイスレコーダー渡してたよな?」


「あ、うん」


 あ、そういえば今も録音しっ放しだ。存在を忘れてた。

 父さんはそんな僕の胸からボイスレコーダーを抜き取って、そのまま録音を停止した。


「ふーん……」


「どうしたのさ」


「いいや」


 父さんはニヒルに笑みを浮かべて、そのまま僕に向けて親指を立てた。

 一体何なんだろう。僕がやり込められている音源を聞いて、何をするつもりなのさ。


「あとは父さんに任せておけ。なぁに、悪いようにはしねぇよ」


「……?」


 ま、いいか。

 何をするつもりなのかは知らないけど、父さんが言うなら悪いようにはならないんだろうし。

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