第33話 閑話:隣の席の彼女

 栄玉学園は、柔道においてかなりの強豪校である。

 全国大会に出場するのは当たり前で、昨年のインターハイでは総合優勝を果たしたほどである。団体戦のみならず、個人戦でも軒並みトップランカーに名を連ねているほどだ。昨年、一年生でありながら軽量級の優勝を果たした和泉真里菜を筆頭に、かなりの練度を誇るものと言えるだろう。

 だがそれだけ、日々の練習量も過酷だ。何の経験もなく入部して、二年生まで保つ者が皆無と言われるほどに激しい練習量を誇る。朝練は五時から始業ギリギリまで行われ、放課後は授業が終わってから七時まできっちり行われるのである。


 ぜぇ、と自分の汗をタオルで拭いながら、江藤加奈子は大きく溜息を吐いた。

 いつも通りの過酷な練習は終わり、ようやく家に帰れる。汗だくの柔道着を無造作にカバンに入れて、加奈子は下着姿のままでベンチに腰掛けた。玉のように噴き出てくる汗は、涼しい更衣室内でもそう簡単に消えるものではない。こんな風に、柔道着を脱ぎ捨てて暫く涼んでから帰るのが加奈子の日常である。


「お疲れ様です、江藤」


「あー……うん、いずみん」


 そして、軒並み同じ柔道部の面々は帰宅した。

 加奈子のように残って涼んで帰る者は他におらず、一人で最後まで練習をしていた和泉真里菜が更衣室に入ってくる。自然と、無駄に広い更衣室の中に二人きりになった。

 だけれど、会話はない。そもそも、それほど親しい間柄というわけではないのだ。一緒に昼食を摂っているのも、武人が一緒にいるからだし。


「江藤」


「うん?」


「今日は随分と、練習に身が入っていなかったようですが」


「……そう?」


 肩をすくめて、とぼけてみせる。

 だけれど、自覚はある。普段通りの動きは全くできていなかった。加奈子はこれでも、中学の頃には県大会代表として全国大会に出場したこともある、柔道強豪校の出身だ。この栄玉学園に入ったのも、スポーツ推薦入学である。

 もっとも、自分よりも遥かにレベルの高い周りの連中に、心が折れそうではあるけれど。


 特に、この和泉真里菜には、圧倒的なレベルの差を思い知らされた。


 どんな技を仕掛けても全く効果がなく、まるで旋風のように懐へと入ってくる一本背負いは、最早竜巻の具現であるかのような代物だ。加奈子も何度となく防ごうとしたけれど、一度たりとも見えたためしがない。

 一時は、本気で退部しようと思ったほどに絶望した。


「まぁ、別にいーじゃん。たまには、あたしだって調子の悪い日があるし」


「体調が悪いのですか?」


「ううん、超元気」


「でしたら、何故練習に身が入らないのですか? コーチも心配していましたよ」


「……あー」


 ははっ、と思わず笑みが漏れる。

 コーチにまで心配されているなんて、困ったものだ。別に大したことがあったわけではないというのに。

 少々、心に傷を負ったくらいのものだ。


 でも。

 それでも。


「……あんたが、それを聞くかよ」


「? 何か言いました?」


「いんや。んじゃ、あたしは帰る。明日からはちゃんとやるから」


「ええ。今年の江藤はレギュラー候補ですからね。是非とも、全国大会で共に戦いましょう」


「……うん、頑張るよ」


 手早く着替えて、更衣室を出る。

 もうちょっと涼んでいたい、というのが本音だったけれど、これ以上一緒にいたくなかった。

 真里菜のことが嫌いなわけではない。純粋にいい娘だと思っているし、友人としては信頼もしている。同じ柔道家としては、尊敬しているほどだ。

 だけれど――今だけは、会いたくない。


「はー……失恋かぁ」


 既に夜の帳が下りた帰り道で、小さくそう呟く。

 好きです付き合ってください、ごめんなさい、みたいなやり取りをしたわけではない。ただ、想い人に恋人ができたというだけの話だ。


 千葉武人。

 ずっと、好きだったのに。


――何? 加奈子、僕のこと好きなの?


 今日、武人から投げかけられた言葉だ。

 うん、と。そう答えたかった。だけれど、答えることができなかった。

 武人は誠実な男だ。真里菜と恋人関係になった以上、武人が彼女を裏切ることはないだろう。

 それが天然と誤解から生じたものであっても、それでも守るはずだ。少なくとも、そういう男だから好きになった。

 だから、慌てて嘘を吐いてしまった――。


「……考えたら、分かると思うんだけどなぁ」


 加奈子に恋人はいない。

 だからこそ、加奈子にとって最も近い異性というのは武人だった。

 同性のように接して、親愛なる友人として接して、距離を詰めてきた。一緒に昼食を摂ることに抵抗がなくなるくらいに、加奈子と武人の距離は限りなく近かった。


 だからこそ――いきなり、横から掠め取られたかのように感じる。

 加奈子が育んできた想いも、加奈子が詰めてきた距離も、全部を全部、真里菜に奪われたような。


「……はー」


 だけれど。

 素直に、武人に想いを告げることも、また怖かった。

 自分も武人のことが好きだと言えば、今の心地よい関係ですら、壊れてしまうと思ったから。


「なんだあたし、案外女子してんじゃん……」


 ぽろりと。

 涙が、頰を伝う。頭の中はぐるぐる回り続けて、嫌なことばかり考えてしまった。もっと行動していれば、武人と真里菜が結ばれることはなかったのだろうか。真里菜に女子力高い相手として武人の名前を言わなければ、二人がこんな関係になることはなかったのだろうか。そんな風に。

 結果、練習にも身が入らなかった。失恋という心の痛手は、体にも少なくない鈍さを与えてしまうらしい。


「さぁ……明日からは、気持ち切り替えていかなきゃね」


 でも。

 まだ諦めはしない。


 武人にとって、真里菜は最初の恋人だ。

 そして統計的に、最初の恋人とそのまま最後まで結ばれるということは、全くないと考えていいだろう。最初の恋人とそのまま結婚するという過程に至ることは、ほぼないと考えていい。

 だから、そのときを、待つ。


 武人と真里菜が別れたときに、最も近い女子であり続ける――それが、加奈子にできることなのだから。


 流れる涙を乱暴に拭って、加奈子は家路を急いだ。

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