第8話 自宅にて
「あー……疲れた」
六時間目を終え、帰宅部の僕はまっすぐ家に帰った。
昨日で委員会の仕事も済ませたし、あとは特に仕事もない。逆にこれから僕に訪れるのは――家事である。
帰宅途中に寄ったスーパーで買ってきた食材を冷蔵庫に詰め、まず行うのは洗濯物の回収。朝一番で干しておいたものは問題なく乾いており、一つ一つを畳んでから部屋の隅に置く。
次に行うのは夕食の準備だ。我が家の食事は基本的に六時から始まる。
もっとも、僕の父は所轄の刑事をしており、滅多に時間が合うことはない。母は僕が六歳の頃に亡くなり、姉も二年前から一人暮らしをしているため、ほとんどの夕食は僕と妹の二人だけで摂ることになる。それでも夕食の時間を六時から変えないのは、昔からそれが我が家のルールだったからだろう。
母が生きていた頃の。
まな板に大ぶりの豚肉を置き、包丁の背で叩く。今日の夕食はとんかつだ。
とんかつを作るにあたり、豚肉を叩くのを「そんなに豚肉を大きく見せたい貧乏性なの?」と忌避する者もいるかもしれないが、実際のところ理由というのは別にある。豚肉に火を通すと縮んで固くなるために、事前に肉を柔らかくするために線維を潰しておくことが目的なのだ。
豚肉に溶き卵、パン粉をつけてトレーに置く。
肉、魚用のまな板を外し、野菜用のまな板の上へキャベツを載せ、千切りにする。やはりとんかつには刻みキャベツだろう。これはボウルに移し、取りやすい位置へ。
と、そこで玄関が開いた。
「たっだいまー」
「おー、お帰り」
ふひー、と言いながら居間の扉を開き、近くのソファに座る少女。
全体的に幼いのは、実際の年齢よりも幼く見える顔立ちと、子供っぽいツインテールという髪型だからか。背の順で並べば圧倒的に前から数えた方が早く、そして既に中学三年生になるというのに、時折小学生にすら間違われる――僕の妹、千葉
部活が終わってそのまま帰ってきたのか、その姿は体操着にブルマーである。多分、多くの好奇の目を浴びながら帰ってきたのだろうな、と簡単に想像できた。
「亜由美。今日は何にする?」
「んー……」
いつも通りの質問。多分、僕と亜由美以外には誰もが「?」となる質問だろう。
だけれど、これをもう五年近く続けている僕たちにとっては、当然の質問だった。
「んっとー。今日はナスがいい」
「了解」
亜由美の言葉を受けると共に、冷蔵庫の野菜室からナスを取り出す。
皮を剥いてくし形に切り、まな板の端へ。
「もう一個は?」
「……んー。あぶらげー」
「了解」
冷蔵庫の端にしまってあった、油揚げを手に取る。
買ったばかりなのだが、亜由美のリクエストだから仕方あるまい。コンロに鍋を二つセットし、水を入れて火をかける。
片方の鍋にナスとだし昆布を入れ、あとは沸騰するのを待つだけだ。
僕が亜由美に聞くもの――それは、味噌汁の具である。
昔から僕が料理を作り続けたからか、亜由美は全く料理ができない。だが味にはうるさく、特に味噌汁については好みにうるさいのだ。
それも「今日の味噌汁は豆腐の気分だったのに」とか文句を言われては、こちらとしても対処の仕様がない。仕方なく僕の取った手段は、亜由美の帰宅に合わせて味噌汁の具を聞き、それから作ることに落ち着いた。
味噌汁を作ってる間に、てんぷら鍋に油を入れて火をかける。
「にーちゃん、今日のゴハンなに?」
「今日はとんかつー」
「マジ? うちのん、ちょい多めにしといてねー」
「はいはい」
うひひー、と喜びながらテレビを点ける亜由美。昔から肉が好きなため、こんな風に肉料理の日は機嫌がいいのだ。
逆に僕は、あまり肉が好きではない。どちらかといえば魚の方が好きなのだが、魚料理だと亜由美の機嫌が悪くなるため、三日に一度くらいしか魚は使っていない。
……美味しいのに。
テレビを見ている亜由美と、料理を作る僕。傍から見ればおかしな構図に思われるかもしれないが、これが千葉家での日常である。
「できたよー」
油から上げたとんかつをキッチンペーパーに乗せ、軽く油を抜いてから皿に盛り、横にキャベツの千切りを加えてから亜由美にそう呼びかける。
「あーい」
亜由美が立ち上がり、向かうのは炊飯器。全く料理のできない亜由美がやるのは、茶碗にご飯を盛ることと皿を運ぶくらいのものだ。ふんふんふーん、と鼻歌混じりに大分形の崩れたツインテールを揺らしながら、亜由美がご飯を用意する。
いつも通り、やや大盛りが僕の席へ。かなり大盛りが亜由美の席へ。
「いただきます」
「いただきまーす」
二人しかいない食卓で、いつも通りに始まる夕食。時刻は六時五分前。いつも通り、六時を五分以上前後しないのが我が家のルールである。
それに合わせて作る僕の身にもなってもらいたいものだが。
「にーちゃん、来年からどうすんの? 就職すんの?」
「あー、うん。そうだね」
「とーちゃん、にーちゃん一人くらいなら大学に行かせてやる、って言ってた」
「……父さんといつ会ったのさ」
最近、僕は全く父に会っていないというのに。
刑事とはそれほど忙しいのか、と思わないでもないけれど、朝起きる頃には既にいないし、寝るまで帰ってこない。それなのに、父のために残しておいた夕食だけはきっちり全部食べている。
もぎゅもぎゅ、と夕食を食べながら、亜由美は嬉しそうに笑った。
「夜中にトイレ行ったときにとーちゃんがいた。うち、高校は県立に行くからー、って言ったら子供は心配しなくていいぞー、て。にーちゃんも大学に行かせてやれるくらいは蓄えあるって」
「ふーん……僕は大学に興味ないからな」
それでも進学させてくれるなら、専門学校でも考えてみようか。
将来はパティシエになるのが目標だし。
あとは働きながら夜間学校とかも視野に入れておこうかな。
「それより、少しは家事を覚えてほしいんだけどね。将来、嫁の貰い手がないぞ」
「んー……それはさー、いーじゃん?」
あははー、とバツが悪そうに頬を掻く亜由美。
こういった仕草は可愛いのだけれど、亜由美は徹底的に女子として色々欠けている。
「ほら、アヤ姉ぇだって全然やってなかったけど、今は主婦してるしさ。うちも将来的にはなんかやるって」
アヤ姉ぇというのは、父方の従兄弟だ。
僕の父が三人兄弟の末っ子で晩婚だったため、やや年齢に開きがあり、現在は二十六歳だったと思う。昨年の春に結婚して、今では子供もいるはずだ。
だが。
「……少なくとも、アヤ姉ぇの部屋は足の踏み場があったぞ」
「……てへ」
我が家は基本的に、清潔に保っている。僕が毎朝早起きして、家中を掃除しているからだ。
だが、そんな僕が掃除をしない部屋が一つだけある。
亜由美の部屋だ。
「いつも通り、土曜に掃除するから鍵閉めるなよ」
「あーい」
どうして一週間でこれほど散らかるんだ、と疑問に思えるほど、亜由美の部屋は汚い。ゴミが落ちているというより、乱雑に物を置きすぎなのだ。
彼氏ができても、絶対に部屋に呼べない――そんなレベルである。
だから仕方なく週に一度、土曜日だけ僕が一気に掃除するのだ。
「にーちゃん、変なもん見んなよー?」
「……僕に何を見ろって言うんだ」
「んーと、下着とか?」
「そういう言葉は、下着をその辺に放るクセを直してから言え」
そもそも、下着が必要なほど起伏もないくせに――と言ったらケンカになるので、言わない。
毎週の掃除で、いつも放ったらかしにされている下着や服を回収して、一気に洗濯するのも僕の仕事である。
「なにー? にーちゃん、妹のでも興奮すんのー?」
「全くしない」
断言した。
誰が汚い部屋に放置された皺まみれの下着に興奮するか。
「大体な、亜由美、お前がちゃんと片付ければな」
「あーあー、聞こえない聞こえないきーこーえーなーいー」
僕が亜由美の部屋を掃除している理由はただ一つ。
僕が掃除しなければ、誰もやらないからだ。
そして掃除をしなければ、いつまでも汚れっぱなし。そして汚れっぱなしの部屋には、えてして現れる。やつ等はそういったところに沸くのだ。
僕の天敵。
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