第3話 lim[n→∞]1/n=0

 休み時間を終えて、午後の授業が始まる。

 特に部活に所属しているわけではない僕にとって、午後の授業が終わればそのまま家に帰るのがいつものことだ。だけれど、今日については放課後から委員会の会議があると伝えられ、順番制で回ってくる書記の役割に僕がついているということも同時に伝えられた。面倒なことこの上ないけれど、それも委員会に参加している限りは仕方のないことだろう。

 クラスの委員長だとか、風紀委員会だとか、そういう偉い役回りというわけではない。ただの文化祭実行委員だ。それも自ら志願したわけではなく、その実行委員を決める日に偶然風邪を引いて休んでしまったために押し付けられただけの役割である。

 だからこそ、別にやる気があるわけではない。むしろ、できることならば誰かと全力で交代したいものだ。

 かといって己に与えられた役割をボイコットするわけにもいかない。そのあたり、僕も日本人らしく優柔不断だということだろう。


「ある種の数学的対象をひとまとまりに並べて考えたものについてのものを、極限と呼ぶ。このように数の列がある値に限りなく近づくとき、その値のことを数列の極限あるいは極限値といい……」


 眠くなりそうな数学の授業を、どうでもいい思考に耽りながら過ごす。

 食後という眠気を誘う時間に加え、午後という日差しの良い時間を乗せ、さらに数学というわけの分からない授業内容というトリプルパンチが功を奏して、僕の眠気は既に最高潮だ。数学なんてこの世からなくなっても、誰も困らないものだと思う。

 人生を生きてゆくにあたって、足し算引き算掛け算割り算ができればそれで十分ではなかろうか。それを微分積分タンジェントとかよく分からない言葉で修飾しないでほしいものである。


「例えばこの1/nという分数において、nの値に何が入るのか。それは1かもしれないし、100かもしれない。もっと多いかもしれない。これが無限大、つまり∞だとすれば、これは最終的にはゼロの近似値になると考えられる。そのため……」


 数学の先生が、饒舌に喋りながら黒板を白く染めてゆく。

 ちなみに、どのような授業を行っているのか僕には分からない。既に数学という科目に対しての理解を放棄した僕にとって、先生の言っていることはそのほとんどが呪文のような何かだ。頭の出来はあまり良くないので仕方ない。

 そもそももっと頭の出来が良ければ、こんな風に滑り止めの私立高校になど入っていないわけだが。

 普段は何か別のことを思考を寄せたり、どうでもいいことをノートに書きなぐっていたりするのだけれど、何故か今日の僕はそうする気になれなかった。

 ただぼうっと、先生の言葉を右から左に流し続けているだけである。


「この場合はlim、リミット――限界という言葉の略だな。lim 1/n=0となる場合、このnの値を定義しなければならない。だがゼロの近似値というのは存在しない。ならば、どうすればゼロに近付けるか……」


 ゼロは独立した数字だ。

 何を掛けてもゼロであり、何を足してもゼロだ。つまりそれは、存在しないことと同じである。

 そして数字というのは存在するものであり、存在しないものの近似値はないということ――そのあたりの説明を先生はしているのだろうけれど、僕にはさっぱり分からないし興味もない。


「そしてこのnの位置に入るのは、つまり∞ということだ。結果、lim[n→∞]1/n=0と定義することができる。これが数学上におけるゼロの近似値という扱いになる。限りなくゼロに近いけれど、決してゼロではない。何故なら、1/無量大数であっても、同じく無量大数を掛ければその数字は1になるからだ。結局、ゼロにすることはできないわけだな」


 よく分からない、というのが本音である。

 何故わざわざ、数列をゼロに近付ける必要があるのだろう。それほどゼロが必要ならば、同じ数を引いてゼロにする方がどれほど分かりやすいことか。

 先生がさらに続ける。


「ちなみに余談だが、一、十、百、千、万、億、兆と大きい数字があるけれど、それ以上もさらに続くんだ。聞いたことがあるかもしれないが、兆の次はけいがいじょじょうこうかんせいさいごくと続く」


 黒板に書き連ねられる、漢字の数々。

 その上に、十の何乗と書かれているけれど、もう考えたくもない数字だった。もう存在しない数と考えていいのではないか、と思えるくらいに。


「ここからが面白いんだが、極の次は恒河沙ごうがしゃ。つまりガンジス川の砂の数くらいという意味だな。さらに阿僧祇あそうぎ那由他なゆた不可思議ふかしぎ無量大数むりょうたいすうと続く。ちなみに、この無量大数で十の七十一乗だ。一般的に知られているのはここまでだが、さらに洛叉らくしゃと続く。この先まではさすがに先生も覚えていないけれどな。あ、テストには出ないから覚えなくてもいいぞー」


 ははっ、と先生が笑うけれど、誰一人笑わない。

 恐らく先生としてはジョークのつもりで言ったのだろうけれど、そのジョークが高尚過ぎて全く理解できないのだ。そもそも、このクラスで真剣に数学の授業を聞いている者などそうそういないだろうし。

 なぜなら私立栄玉学園は、成績よりもスポーツの方で全国に名を轟かせている学園だからだ。

 クラスメイトも半数以上はスポーツ特待生、もしくはスポーツ推薦で入った者ばかりだ。卒業生の中には、現役のJリーグで活躍している選手だったり、幕内力士だったり、五輪のメダリストだったり様々である。

 そして、そんな栄玉学園において運動系の部活動に入っていない、つまり僕のような人間は須らく落ちこぼれだ。

 別に自虐しているわけじゃない。事実だし。


「で、次にこの問題だが……今日は三日だな。では、出席番号三番……」


 先生が黒板へと新しい問題を書き、それから出席簿に目を通す。

 そして、出席番号三番――その番号が、このクラスにおいては触れてはならないそれに気付き、眉根を寄せる。

 うほんっ、と先生が軽く咳払いをして。


「……は、やめて。三の二倍で六番、加藤。答えなさい」


「はいー」


 栄玉学園二年三組、出席番号三番。

 それが、和泉真里菜の番号だからだ。


 ちらりと、そのように出席番号を呼ばれながらにして全く反応することなく、机に突っ伏して眠っている姿を見る。

 スポーツ特待生であり、次の五輪における金メダル候補――天才柔道少女、和泉真里菜。

 僕とは違う世界に生きる、ただ同じクラスにいるというだけの大天才だ。これまでも、そしてこれからも僕の人生において、彼女と関わり合いになることはないだろう。

 強いて言うならば、僕の隣で同じく突っ伏して眠っている江藤加奈子――彼女も同じ柔道部だという、蜘蛛の糸よりも細い繋がりはなきにしもあらずだけれど。

 そこで、余談が過ぎたためか授業終了を示す鐘が鳴った。


「っと……では授業はここまで」


「起立、礼!」


 号令として全員が立ち、先生におざなりな礼をするという慣習。

 だけれど、それでも起きることなく、ただ眠り続ける和泉真里菜。

 だというのに、誰も何も注意することはない。それは――彼女が特別である、と知っているから。


 生きる世界の違うクラスメイト、和泉真里菜。


 このとき僕は――彼女と関わり合いになるなんて、全く思いもしなかった。

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