第1話 謎のお願い

「こんばんは。千葉武人君」


 僕の所属している私立栄玉さかえだま学園高等部二年三組において、最も有名な人物を問われればそれは和泉真里菜以外には存在しないだろう。


 まず、美少女である。

切り揃えられたショートカットの黒髪は鴉の濡れ羽を想像させるように艶々と輝き、その下に存在する化粧気のない肌は白魚のように透き通っている。眼差しは氷のように冷たく美しく、すらりと通った鼻筋に控えめな口元、顎のラインに至るまで、神が究極の造形美を想定して生み出した存在である、と言っても差し支えないだろう。

 そんな、途轍もなく尋常もない、美少女である。


 しかし彼女の凄い点は、美少女というそれだけで人生の勝者となれるだけの造形美を持ちながらにして、とんでもなく有名な柔道家だということだ。

 中学は別の学校であり、スポーツ推薦で入学した彼女は、中学二年生、三年生と二年連続で全中柔道大会で優勝を果たしている。加えて、高校一年生の時こそ準決勝で敗北したために全国三位となったが、二年生にして全国大会優勝。さらに団体戦においてもチームのエースとして、栄玉学園を優勝に導いたとされている。

 マスコミからも『天才柔道少女』という名目で多くの取材を受けており、とある雑誌では特集まで組まれるほどだ。

 残念ながらストイックな性格であり柔道一筋である彼女をテレビ媒体の中で見たことはないけれど、どのような芸能人よりも映えるのではないか、とさえ思える。


 所属している部活は、当然柔道部。三年生も受験に集中するために引退した九月の現在において、彼女は主将を務めている。代々、最も強い最上級生が主将となる慣わしである栄玉学園柔道部において、彼女以外に主将を務める生徒は存在しないだろう。

 噂によると、三年後に行われる予定のオリンピックにおいて、既にその出場が内定しているとか。噂というのも当てにならないものだが、彼女に限っては本当の話に思えてしまう不思議である。

 別段、僕は彼女のストーカーというわけではない。この情報の全ては、僕の愛すべき友人にして隣の席に座っている江藤加奈子が彼女と同じく柔道部であり、主将である和泉真里菜の補佐を勤める副主将であるがゆえだ。

 聞いてもいないのに個人情報を勝手に話してくるだけであり、僕から興味を持って聞いたわけではない。僕が同じクラスになって半年経て、幾度か事務的な会話しか交わしたことがないといえ、知っているのはそういう理由だ。


 和泉真里菜は天上人。

 その認識は、クラスメイトの共通項である。

 高嶺の花ですらない。


 だからこそ、ただのクラスにおける地味系男子の一人である僕が和泉真里菜のことを知っていたとしても、それは芸能人の誰々を知っている、という程度の認識だと思ってくれて構わない。

 少なくとも恋の相手に選ぶにはハードルが激しく高く、ファンクラブなんて非生産的な行為に付き合う時間もお金もないのだから。


 重ねて言おう。

 和泉真里菜は天上人。

 そんな彼女と僕が、何故こうやって夜の学校を出る前の校門前で、出会っているのでしょうか?


「……? こんばんは」


 僕が聞こえなかったと思ったのか、和泉真里菜はそうもう一度繰り返す。

 今日は所属している委員会の会議があり、会議後に作る書類があったために少しだけ居残りをして、気付けば八時を超えてしまっていた。

 当然ながら先生方もほとんどが帰っており、守衛さんに教室の鍵を渡して帰路につく――そんな矢先に、校門の前から鈴の鳴るような声で、呼びかけられたのだ。


「……和泉、さん?」


「はい。随分と遅いお帰りですね。随分待ちました」


「……僕を?」


 一瞬、周囲を見回す。

 和泉真里菜が、何の変哲もないただの一学生である僕を待っているなんて、そんなことはあり得ない。あり得るとするならば、手の込んだ悪戯か僕の夢かのいずれかだ。

 そして僕はわざわざ夢の中で委員会の仕事をしたいほどワーカーホリックでもないため、消去法として誰かの悪戯だろう、と決め付ける。

 しかし周囲には誰の姿もなく、ドッキリカメラらしきものも見当たらない。テレビの企画ならば超小型カメラでも用意するのだろうけれど、生憎だが芸能人でもない僕へドッキリを仕掛けるのに、そこまでの真似はしないだろう。

 大体そんなドッキリを仕掛ける者として、同じ部活に所属しているとある男子な女子が思い浮かぶのだが、彼女にそれほど金をかけてまで僕を嵌める理由はあるまい。

 しかし和泉真里菜は、そんな僕の仕草に首を傾げた。


「どうかしましたか?」


「いや……え? 本当に?」


「何がですか?」


「……和泉さん、僕を待ってたの?」


 そんな僕の立場を弁えない質問に、しかし彼女は頷いた。

 どうやら手の込んだ悪戯でない以上、本当であるか僕の夢であるらしい。夢ならば、少し頑張った委員会の資料作成も全部夢だったことになるため、できれば現実であってほしいものだと切実に思う。

 試しに肘の皮を思い切り引っ張ってみた。全く痛くない。

 やっぱ夢か。


「はい。実を言いますと、千葉君にお願いがあって待っていました。今日は私も部活の練習でしたし、千葉君も委員会だと聞きましたので、ここで待っていれば会えるかと思いまして。教室内でお願いを話すのは、千葉君に迷惑がかかると思いましたので……お願いする立場としましては、待つべきと思いました」


 お願い。

 完璧超人であり天上人である和泉真里菜からのお願い。

 今なら、蓬莱の玉の枝や火鼠の皮衣を持ってこい、と言われても容易く納得しそうだ。

 だけれど彼女は、少しだけ言いにくそうにこほん、と咳払いをして。


「……千葉君」


 ゆっくりと、その桜色の唇を開いて。

 鈴が鳴るような声音で。

 意味の分からないことを、言った。


「私に、女子力を教えてください」


「……はい?」

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