香水

 香水が苦手だった。甘ったるい香りが無遠慮に、鼻から肺へ、そして脳へと浸透してくるのが気持ち悪かった。「逆に考えなさいよ」姉さんは言った。「いますれ違った女の子の香り、いくらすると思う? 何千円、何万円の香りをタダで嗅げるなんて、お得じゃない」

 ハイブランドのコスメに、アウトソールの真っ赤なピンヒールなんて格好をしているくせに、姉さんはところどころ庶民感覚が抜けてなくて、そういうところが素敵だ。この間もフリマアプリのコツを教えてもらったとみんなに自慢したら、なんだか哀れな目を向けられたからまずったなと悟った。この店のナンバーワンである姉さんには、敵も多い。すぐに姉さんに謝ったら、笑い飛ばされた。「あたしが貧乏人なんて今さらだし」外国のリンゴみたいにてらてら赤い指先でくちびるを撫でながら、姉さんはおもしろがる。「むしろ、そこを売りにしてトップ張ってるんだから、いい宣伝になったわ」頭を撫でてくれる手はやさしくて好きだけど、姉さんの甘ったるい香水の香りだけは、やっぱりどうしても好きになれない。

 そんなある日、店に現れた姉さんからいつもと違う香りがした。香水を変えたんだ。わたしはすぐに気づいて、姉さんに伝えた。「香水変えました? この香り、わたし好きです」姉さんはほんの一瞬、顔をこわばらせてから、すぐにいつもの笑顔にもどった。「そう? よかった」

 姉さんが店を辞めたのは次の日だった。秘密裏につき合っていたホストと、どこかへ消えてしまったらしい。わたしは必死で、どこかにメッセージが残ってないか探した。スマホにも、SNSにも、店のロッカーにも靴箱にも、どこにもわたしへのメッセージはなかった。なんとかもう一度会いたくって、姉さんの好きだったチェーンの牛丼屋も、愛用していたドラッグストアも回ったけど、どこにも手がかりはなかった。香水のにおいみたいに、夢みたいに、姉さんは消えてしまった。

 姉さんが愛用していた香水のナンバーは知っていた。フリマアプリにたまたま出ていた、誰かの使いかけの香水を値段も見ずに買って、わたしはおそるおそる瓶を開ける。脳にしみこむ甘い香りが、鼻を、肺を、部屋を満たす。気分が悪くなってきて、わたしはそれでも蓋を閉めることができない。きれいにカットされた、宝石みたいな瓶の蓋には、外国のリンゴみたいに赤いネイルの破片が、ほんの少しこびりついている。

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【2分小説】つまみ小説2 湾野 @wnn

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