青信号じいさん

 自慢じゃないが、赤信号に引っかかったことがない。歩いているときはもちろん、部活帰りの自転車だって、初ボーナスでローンを組んだコンパクトカーだって、一度だって止まらずに目的地へ着く。勉強も、仕事もそうだ。赤点は取ったことがないし、受験もそこそのところにすんなり受かる。父から継いだ工場も、大きな問題もなく息子へと引き継げた。俺の人生はいたってスムーズだ。たった一つ、妻に逃げられたことを除いて。

 「ついていけなくなった」と緑の紙を差し出されたのは定年退職したその日だった。俺はすぐにサインした。こうなってしまえばもう、立ち止まってごねたって、よくなるはずがない。物事には流れがあって、そのまま進むのが一番面倒がないのだ。

 妻が出て行って、息子はとっくに一人立ちしていて、やることのなくなった俺は毎朝散歩を始めた。といっても運動のためなので、通いなれた職場への道を往復するばかりだ。要は体をうごかせればいいのだから、道なんてどうでもいいだろう。時は金なりで、俺の辞書に寄り道のページはなかった。立ち止まったり、迂回したりは苦手だ。すぐ目の前に青信号の横断歩道があったら、ちょっと早足になっても渡るだろ? それと同じだ。

 先代社長が毎日顔を出したら社員を困らせることはさすがに分かるので、工場の一区画前でUターンすることにしている。キンと冷えた冬の道を、俺は今日も腕を振って歩く。十字路まで残り十メートルのところで、目の前の信号が青に変わる。渡り始めようとする直前、黄色い何かが視界をよこぎった。女性の慌てた声と、あぶあぶという喃語が聴こえる。赤信号を待っていたベビーカーから、放り出してしまったアヒルのおもちゃが転がっていく。俺はとっさに迷った。追いかけて拾うか? けどあと少しで、渡るはずの信号は点滅を始めるだろう。車道に出たわけでもないおもちゃは、きっと母親が拾うはすだ。けど、ベビーカーを手放せるのか? 足元はわずかとはいえ、傾いた坂道だ。

 あわてた頭が凍り付いている間に、信号は変わってしまった。赤い光を見て俺はようやく、金縛りが解けた人形みたいにぎこちなくおもちゃを拾う。「ありがとうございます」母親がほっとしたように頭を下げ、赤ん坊はきゃっきゃと笑い声をあげる。青信号になった彼女たちは、手を振って反対側に渡っていった。

 気づけばまた信号は変わってしまっていた。足を止めて立っていると、日差しが肩に溜まって温かい。鼻先を甘い香りがくすぐってはいなくなり、どこか遠くからつたないピアノの音色が聴こえてくる。青く変わった信号を無視して、俺は横断歩道を渡らずに、横道に入った。迷子になったら、潔く道を尋ねよう。青信号は、必ずしも渡らなくたってもいい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る