藪先生

 藪先生はヤブ医者だ。看板にもそう書いてある。診察室が一つしかない小さな診療所で、わたしたちは今日もテキトウな診察を受ける。「うごかしたら腕がちぎれるからね」と脅されたわたしの右腕は、あとから聞いた話だとわずかにヒビが入った程度で、それでも純粋な子どもだったわたしは、怖くてこわくてギャン泣きした。先生の診療所はいつも子どもの泣き声が響いている。「どうして他の病院いかないの?」恐怖を刻み込まれたわたしは、予防接種のたびに親に泣きついた。「仕方ないでしょ」母はそっけなく答える。「他に病院、ないんだから」

 藪先生は「いやいや、それはないでしょ」って悪い予言ばかりする。「あーこれはもって三日だね」と言い切られた酔っぱらいは、深酒を反省して三年経った今でも元気だし、「この腹じゃ半年後は寝たきりだな」とホーム入居を勧められたメタボなおじいちゃんは、今や立派なマラソンランナーだ。かつては閻魔様のようにも思えた藪先生だけど、大人になるにつれてだんだん分かった。この人、たぶん、ノリで言ってる。どうみても健康そうな青年に「これからの人生ずっと杖生活になる」と呪いを掛けている先生を横目で見ながら、わたしは貰ったばかりの飲み薬をかばんに詰める。

 だから、めずらしく先生がその手の予言をしなかったとき、驚きすぎて反応が遅れた。「とりあえず大学に連絡しといたから」先生の言葉と同時くらいに、白くて赤い車に乗せられる。いやいや、またまた。わたしはなんて手の込んだ冗談だと笑ったけれど、抵抗むなしく大きな病院に担ぎ込まれる。他の病院に迷惑掛けるなんて、たちの悪い。ストレッチャーの上でそう思いながら、わたしはあっさり麻酔に落ちる。

 結論から言うと、わたしは相当ヤバい状況だったらしい。信じたくないけど、大きな病院の何人ものお医者様が言うんだから、そうなんだろう。早期発見でよかったです、と笑顔を向けてくれる看護師さんに見送られながら、キツネにつままれたような気分で菓子折りを藪診療所に持っていく。ありがとうございました、と差し出した菓子折りを、藪先生は受け取らなかった。「あーあ、外した。もう帰ってこないかと思ったのに」この期に及んでまだ憎まれ口を叩く先生をしっしと追い払って、看護師さんたちが集まってくる。「あんなこと言って、オペの結果、ずっと電話の前で待ってたんですよ」ひっそり耳打ちしてから、華麗な動きでわたしの手からクッキー缶をかっさらっていった看護師さんたちの言い分を信じるか否か、わたしは看板を見つめながらしばらく悩む。

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