ラベリングウォーズ

 優太郎の夜鳴きがバレて、三日泊まったネカフェを出禁になって、いよいよわたしたちは路頭に迷う。これが若葉のそよぐ初夏なんかならまだよかったけど、枯れ葉が容赦なくぶつかってくる秋の夜はさすがにつらい。どうしようもないから、優太郎の首に顔をうずめながら公園のベンチで丸くなる。そんなわたしの前に現れた神は、老婆の姿をしていた。

 家を継ぐなら住んでいい、と言われて連れてこられた家は、豪邸でもなければ日本家屋でもない、ごくごく普通の平屋だった。巨大ショッピングモールに潰された商店街の裏手にありそうな、壁に括りつけられた室外機がよく似合う、異様に四角いトタンの家。家の中には、顔も年齢もばらばらな人間が四、五人いて、それぞれ冷めかけた味噌汁みたいな、とろんとした目を向けてくる。「かわいー。柴?」ひとりの女性が膝を擦って近寄ってくる。人見知りのくせに女好きな優太郎は、とんがった爪先を受け入れて、簡単にしっぽを振る。

 その家の生活はしずかだった。わたしを連れてきた老婆は、わたしを家に招き入れてはしても、生活には一切手を貸してくれなかった。おはようと同じタイミングで食卓について、自分の分しかコーヒーを持ってこなかったときは面食らって、そして無意識に期待してた自分が恥ずかしくなった。「わかるーあたしもたまに、なんだこれって我に返るもん」優太郎の腹をうりうりと撫でながら、優子さんは言う。「でも、楽だよね」彼女の本当の名前をわたしは知らない。犬連れでひとり迷い込んだ、どう見ても成人してないわたしの過去を、彼女は訊かない。

 二階の窓から、路地裏を行き来する猫を眺める日々は、長くは続かなかった。めずらしくチャイムが鳴った日、わたしは教わったとおりに優太郎を抱えると、急いで屋根裏へともぐり込む。「はあ、女の子」がちゃりと部屋のとびらが開いて、数人の気配が流れ込んでくる。優子さんのとぼけた声が、足元から聞こえる。「いいええ、そんな名前の子、知りませんけど」

 成人を迎えたその日、わたしと優子さんが区役所を出ると、どこから嗅ぎつけたのか、あの人たちが待ち構えていた。わたしを見つけるなり、マシンガンみたいに言葉と唾を飛ばしてくるあの人たちはあまりにも変わってなくて、わたしは不覚にも固まってしまう。そんなわたしを庇うでもなく、優子さんはふらふらその場を離れると、車止めに結んでいた優太郎のリードをのんびりと解いている。ちょっとは助けてくれてもいいのに。そう恨み言をつぶやく前に、毛を逆立てた優太郎は矢のように吹っ飛んで、ぎゃあぎゃあ喚くあの人たちにとびかかっていく。急に始まった大乱闘に、どうしたどうしたと人が集まってくる。本当に厄日だ。そう思うのに、「やれーやっちまえー」と口に手を当てて笑う優子さんの本名をようやく知れたことだけは、ちょっとうれしくてくやしい。

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