影送り

 写真を撮るのも、撮られるのも苦手だと、夫は常々よく言った。だから、何かといただきがちな写真立ては全部バザーに出したし、三十年一緒に生きてきてツーショットは一枚もない。少し寂しいけれど、わたしもプリクラ好きな方ではなかったし、そんなもんかと納得していた。夫の入院支度を調えている最中に、見知らぬカメラを見つけるまでは。

 クローゼットの奥底から出てきたカメラは、黒く重たく見るからに年代物で、それでも一目でいいものだと分かった。夫が使っているところなんて、見たことない。なんだかイヤな予感がして、わたしはそれを布にくるむと、クローゼットの暗がりに押し戻す。知らないものは無いのと同じ。ボストンバッグをつかみ、わたしは何くわぬ顔で病室に入る。「世話をかけるね」おだやかに明るい白い部屋で、夫はやさしく微笑んでいる。

 忘れようと努力した。けど、重石のようなカメラをかかえてゆっくり沈んでいく夢を見て、わたしはついに観念した。現像された写真は、一枚をのぞいてすべて物の写真だった。きちんと折り畳まれたタオルや、なつかしい形の携帯にまじって写る若い女性の満面の笑みを、わたしはひとり部屋の真ん中で見つめる。

 結婚する前の日付の写真を、今さら、酸素マスク姿の夫に問いただす気はしなかった。見舞いのりんごを剥きながら、昔の話だ、もう終わったことでしょと自分自身に言い聞かす。それでも、知らない誰かがもしかしてこの部屋に来たんじゃないかと、気づけば気配を探してしまう。見慣れない花が生けられたサイドボードをみつけた日、夫はいつもと変わらない笑顔で、カメラを持ってきて欲しいと言った。「クローゼットの奥に、古いヤツがあるはずだから」

 棺桶に横たわる夫の顔は、相変わらず穏やかだ。病棟仲間だった写真家さんから、たまにお花を分けてもらっていたのだと看護師さんから聞いてお礼に向かうと、写真家さんはたいそう残念がって、たくさんのお花を届けてくれた。きれいな花たちに囲まれて、夫はどことなく嬉しそうにすら見える。まったく、まぎらわしいんだから。すんと鼻をすすりながら、現像したたくさんの写真を、わたしはひとつひとつ重ならないように、体の周りに置いていく。その中には、やっぱりわたしの写真はない。「こうすると未練が残らないから」と病衣の夫からはじめて向けられたレンズに、誰が写ってやるというのだろう。わたしを清算しようとする夫を、結局わたしは許せなかった。未練を抱えて、それでもあっさり天国へいってしまった夫は腹立たしいけど、すっきりさっぱり逝かれてもそれはそれでむかつくから、これでいい。最後の一枚は、彼女の写真だ。わたしはちょっとだけ悩んでから、足の小指にほんの少し、かかるくらいの場所にそっと置く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る