汚れた前掛け

 居酒屋の制服がこれほど似合わない人もいるのか、というほどに、彼は店のロゴが入ったオレンジのTシャツと、まだ汚れてない紺の前掛けが似合わなかった。新人バイトとして紹介されたその人に、ぱちぱちと控えめな拍手を送った誰もがきっと思っていた。きっちりした七三に、ぶ厚いメガネは顔の半分を覆っていて、居酒屋バイトよりよっぽど、銀行員の肩書きがよく似合う。「もっと直接的に人に感謝されたくて」なんて、トイレのカベに貼ってあるような志望動機を口にした彼は、実際のところ本当に銀行員で、そしてリストラされたらしい。オーナーはそういうお涙頂戴モノに弱いから、面接でうっかりほだされ採用したんだろう。いくら人手不足だっていっても、ねえ。視線を交わし合ったわたしたちは、彼がいつ辞めるか賭けをする。

 予想通りというかなんというか、やっぱり彼はだんどりが悪くて、見ていていたたまれなくなる。オーダーを間違え、酔っぱらいに怒鳴られ、ビールをひっくり返し、焼き鳥を燃やす。「もっとテキトーでいいんだよ」バイトリーダーだったわたしは、泥酔した客の軽口に律儀につき合っていた彼につい口を出す。「どうせだれも、バイトなんて覚えてないんだし」彼はすこし口ごもって、もごもご何かを言うばかりだ。

 大学卒業と同時にわたしはバイトを辞め、ほどほどの企業で働き始めた。硬いスーツの着心地はよくなかったけど、小中高と制服に慣らされた体は、どんな格好もしっくりとなじむ。でもそれって、つまりはマネキンと同じかもしれないな。同じような格好ばかりの満員電車に揺られながら、もしいま幽体離脱したら、はたしてわたしは自分を見つけられるだろうか。

 半年が経ってはじめて使った有給で、わたしは久しぶりにバイト先の店へ行った。いらっしゃいませ。かすれた小さな声は彼のものだ。「まだ働いてたんだ」驚くわたしに、相変わらず似合わない格好で、彼はそれでも黒ずんだ前掛けで手を拭きながらかすかに笑った。「覚えててくれる人もいますから」

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