プッシュ

 ありとあらゆるボタンを押したくなる呪いにかかってしまい、わたしはたいそう苦労する。電気のスイッチだとか、炊飯器の予約だとか、そんなものならいいけれど、電車の非常停止ボタンなんか見かけた日には、大変なことになる。そのくせ、あの子への告白メールの送信ボタンだけは押せないんだから、我ながら情けない。

 目隠しして生活するなんて特殊能力のないわたしは、仕方なく腕組をして日々をすごす。それでも、駅ビルのトイレに入れば非常呼び出しボタンを押し、コンビニに入ればカウンターから手を伸ばしてレジを打ち、家の前を通りがかれば用もないのにインターホンを押す。通報回数が五回を超えて、わたしは治安維持部隊に病院に担ぎ込まれる。さまざまな治療を経て、そのどれも効果のなかったわたしは、閉鎖病棟に押し込められる直前に、黒服たちに救い出される。「一切の生活を保障する代わりに、指示があったとき、確実にこの箱を開けてほしい」渡されたスーツケースは人でも入っているのかというくらい重くて、わたしはビビりながらも箱を抱え、用意された新しい家に向かう。

 ボタン類が一切ない新居はたいへん居心地がよくて、そのうえ食べ物も娯楽もすべてが勝手に用意されてくるからおそろしい。過剰なVIP待遇に気味悪さを感じながらも、わたしは黙々と目玉焼きを食べる。ご丁寧に黄身を潰されたそれは、押し欲を掻き立てることはない。家族も含めて一切の連絡は封じられ、同じ歳ぐらいの人々が映る、産めよ増やせよの結婚式のCMがまるで遠い世界だ。わたしはテレビを見つめながら、監視カメラとの同棲生活を粛々と続ける。

 ついにその日はやってきて、一度も鳴ったことのなかった専用回線から、例の箱を開けるようにとお達しが来る。監視カメラの前で逆らうすべのないわたしは食卓の上にスーツケースを広げる。思った通り現れたおもちゃみたいに真っ赤なボタンが、何を意味しているのか分からないはずもない。外からは空襲警報が絶え間なく鳴り響き、あちこちで不穏な地響きが聴こえてくる。「恐れることなどない」点けっぱなしのラジオから、つばが飛んできそうな叫びが届く。「我が国には、秘密兵器がある!」いつの間にかわたしの名前を冠した爆弾は、なんと世界を浄化するらしい。人に罪をなすりつけるなんて、いい度胸している。わたしがボタンを押せば、大勢の悲鳴と共にそのすべては静かになるのだろう。そう分かっていても指は止まらない。押した瞬間、わたしの名前はきっと、人類最悪の意味を持って刻まれる。そう、きっとあの子にも。気づくと指は止まっていた。予定時刻になっても始まらない殺戮ショーに、焦るだれかの声が聞こえる。鼓膜を引っ掻く警報音と、複数の足音が近づいてくる。わたしは窓を開けて外に出た。メールみたいに光の尾を描いたミサイルが、まっすぐに飛んでくる。

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