月を飼う人
月8万のワンルームの真ん中に、満月が浮いている。やさしい黄色に発光する、バランスボールよりもひとまわり大きい球体は、触れるとほんのり冷えている。コンビニの弁当を食べながら、わたしは時々それをながめる。腰の高さくらいにたゆたう月の調子は、それなりによさそうだ。
月はものを食べない。代わりに話しかけると元気になる。放置すると赤く昏く沈んでいくし、歌を歌うと白く明るく高く浮かぶ。赤黒い月が部屋の隅に転がっているのは不気味なので、わたしは定期的に話しかけては、月の機嫌を保っている。
「月は傷だらけの背中を決して見せない」なんて話を聞いてから、どちらかと言えば月は嫌いだ。月が好きなのは、おばあちゃん。「月が見たいわねえ」ベッドの上でわたしに体を拭かれながら、おばあちゃんは繰り返す。「月を見に出かけることさえできないなんて、死んでいるのと同じだわ」
おばあちゃんの家から帰る道には、本当の月が浮かんでいる。手を伸ばしても到底届かない場所にある月は、ひさしの長いおばあちゃんの部屋からは見えない。でも、この月であれば。わたしは濡れた髪のまま、部屋の中央で立ち尽くす。仕事からの介護を終えて、あと数時間後には出勤なのに、一秒でも早く布団に入らなくちゃいけないのに、うごけない。昔、おばあちゃんから教わった子守歌を歌うほど、月はこわいくらいに輝きを増す。そっと伸ばした指先で、わたしは月をくるりと回した。本当の月とちがって自分で光れるこの月は、たしかにでこぼこだらけの裏側も、隠すことなく見せてくれる。
ひょんなことから、わたしが月を飼っていることがおばあちゃんにバレてしまう。「さぞかしきれいなんだろうね」おばあちゃんは息の多く混ざった声でつぶやく。しなびた体をくるりとめくって、わたしは固く絞った布で背中を拭く。「それがねえ、逃げちゃったの」おばあちゃんの背中は月のように冷たく乾いていて、けれどキズは見当たらない。「わたしにはきっと、不釣り合いだったんだね」
玄関を開けるとほのかに明るい。月はかわらず、とろりと丸く浮いている。ひんやりとした表面にふれたら、おばあちゃんはさぞ喜ぶだろう。もう何年も見ていない笑顔を、浮かべてくれさえするかもしれない。それでも。
わたしだけの月は、せまい部屋のなかでいつまでも、冴え冴えとうつくしい。
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