迷子タクシー

 「乗客が本当に必要としている場所へ連れて行ってくれるタクシー」という都市伝説の五葉のタクシーは、そこらのタクシーとなんら変わらない脱臭炭のニオイがした。唯一違うのは、人のよさそうな運転手が行き先を尋ねないことで、「シートベルトをお締めください」と言ったきり、社内は深夜ラジオだけが響いている。

 タクシーはシャッターの降りた商店街を抜け、高速をぐんぐん走る。つるつる流れていくオレンジの街灯を、対向車のヘッドライトを、それらを反射するガラス窓の縁の光を、延々と眺めていた。わたしはどこへ連れていかれるのだろう。廃墟の遊園地で夜を明かしたという人もいれば、名もない岬で朝焼けを見たという人もいた。異世界に連れていかれたという人もいれば、今でもタクシーから出られないと書かれた記事もあった。ネットにあふれる体験記を、まるごと信じたわけじゃなかったけれど、それでもこうして現にタクシーを捕まえられたのだから、どこかには連れて行ってくれるはずだ。わたしの人生を、くだらない28年を、リセットしてくれるような、そんなどこかへ。

 ラジオ番組が二度変わり、お尻が痛くなってきてもまだ、タクシーは止まらなかった。こんなに長く走って、貯金はすべて降ろしてきたけど、運賃足りるだろうか。ちょっと不安になって、メーターをのぞき込む。驚くことに、メーターは付いていなかった。「トイレ大丈夫ですか?」勘違いした運転手が、やさしくたずねてくれる。あわてて首を振って、わたしは席に戻った。やっぱり、うわさは本当なんだ。ようやく現実感が湧いてきて、もう長く死んだようだった鼓動を、本当に久しぶりに感じた。窓の外に視線を向ける。空は青さを薄めて、夜明けは近い。

 やがて高速を降りた車がようやく止まったのは、海辺に建つ四角く白い建物の前だった。自動ドアが勝手に開き、わたしはおそるおそる車外に出る。「受付開始は9時からですので、散歩でもしてお待ちください」運転手はそれだけ言って車を出そうとしたので、わたしはあわてて窓を叩いた。「ここ、どこですか?」不思議そうな顔をした運転手は、窓からぬっと腕をつき出し、看板を指さした。「精神科」と書かれた看板は半分くらい蔦に覆われていて、まるで不安しかない。「あの、わたし別に、ここに来たかったわけじゃ」「ええ?」運転手は困ったように首をひねる。「救急車って知らずに乗ったんですか?」「なにが?」「この車」知らなかった。呆然とするわたしに、運転手は笑いかける。「ま、ついでだし、寄ってってみてくださいよ。待合のお茶、おいしいですよ」

 そんなこんなでわたしは今、救急車の運転手をしている。乗せる患者は、性別も年もさまざまだ。迷子タクシーの都市伝説はまだまだ健在で、みんな病院前でそろって呆然とする。経験者として気持ちはよくわかるけど、このだまし討ちみたいなドライブも案外悪くないから、まずは待合に入ってみてほしい。徹夜明けの温かい緑茶は、茶葉がそれなりでも十分おいしい。

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