偽サラリーマンの幸福

 働くも地獄。働かざるとも地獄。ということでぼくは、第三の道を選んだ。朝10時にゆっくりと目覚め、歯を磨き、テレビを見ながら着替えて、昼の12時に公園へ向かう。スーツ姿で自ら作った弁当を食べていれば、見た目は立派なサラリーマンってわけ。スーツってのは便利なもんで、近所のお年寄りたちから貰うおこづかいで生きてるぼくを、それなりの労働者に見せてくれる。

 ビジネス街をすり抜けながら小さな公園に着くと、先客がいた。背中を丸めてコンビニのおにぎりをほおばる青年は、おそらく新入社員だろう。これまでは現場作業員らしき数名が、回転寿司みたいにコロコロ入れ替わっていたこの公園に、ぼく以外に通うヤツができるだなんて思ってもみなかった。ブラックとうわさの近所の会社からは、昼間にも関わらず怒鳴り声が聞こえてくる。ぼくがとなりのベンチに近づくと、目が合った。少し気まずいけれど、顔に出したら負けである。さも一仕事終えたように、ぼくはネクタイをゆるめると、弁当を広げた。作りたての弁当は、まだほかほかと温かい。ふと視線を感じて振り返ると、例の青年がじっと見てくる。「うまそう」とヤツは言った。圧に負けてぼくは卵焼きをひとつ差し出す。

 聞けば彼の労働環境はそうとうやばくて、彼は泣きながら「働くってこんなに辛いんですか」と訴える。なんとも言えないぼくは転職を勧め、するとサポートしてくださいと泣きつかれた。無職に転職サポートを依頼するほど純粋な彼は、よく言えば純粋で、悪く言えばバカだ。なんだか哀れになって、転職を繰り返し今や年収五千万とホラを吹いたぼくは、彼の転職を手伝うことになる。履歴書の書き方なんて教えられないから、とにかくぼくは精神論を語って聞かせた。受講料代わりにおごってもらった飲み放題のビールに酔いながら、あちこちで聞きかじった、意識の高い話を盛って盛って聞かせる。ちいさなノートにメモまでする青年に、心が痛まないこともなかったけれど、ま、これも人生経験だろう。

 驚くべきことに、彼は成功した。ぼくの口先八丁の精神論を心から信じた彼は、毎朝5時半に起きては乾布摩擦を行い、ランニングのあとに写経をして、仕事はホウレンソウを徹底し、退社後1時間以内に寝ることを実行したのだ。転職活動はうまくいき、彼はあっという間に出世して、年収は四桁を超えたらしい。ひと目で仕立ての良さがわかるスーツを着た彼は、ある日ぼくのことをスカウトした。「人事部にこれまでのことを話したら、あなたにぜひ、社員教育アドバイザーになってほしいと」提示された金額は5500万で、ぼくは反射的に飛びつきそうになるのをぐっとこらえ、今の取引先との兼ね合いもあるからと、もったいぶって保留にする。その日のビールはもちろんうまくて、つい飲み過ぎた千鳥足でボロアパートの部屋に戻る。そのまま布団に倒れ込みそうになった直前で、気力を振り絞って弁当箱を取り出した。せめて水につけておかないと、一晩放置したあとの悪臭はなかなかきつい。バンドをはずし、ふたを開けて、油で光るプラスチックに水を張る。水を止めても、ゆれる水面が凪いでいくのを見ていた。死ぬ直前で会社を辞めて、その帰り道に買った弁当箱だった。それまで昼はずっとコンビニで済ませていて、だからはじめて弁当を作ったときは、焦げてるうえに味は薄くて、全然おいしくなんかなかった。それでも夢だった。自分のために弁当をつくる余裕のある生活を、あのころのぼくはずっと、夢見ていた。

 ぼくは今日も弁当を作っては、のんべんだらりと公園に向かう。数か月に一度、わざわざタクシーを使って彼は公園にやってくる。今や一度だって同じスーツを着ていない彼と、いつも同じスーツ姿のぼくは、それでも隣り合って弁当を食べる。最近の彼のお気に入りは、砕いたコーンフレークを衣にしたから揚げだ。仕事ができるだけでなく料理も上手いなんて鼻につくことこの上ないけど、卵焼きだけは頑なに自分で作らずぼくの弁当箱から取っていくから、憎み切れなくて困っている。

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