金木犀

 窓を開けたら甘い香りがして驚く。下をのぞき込んで原因がわかった。マンションをぐるりと囲う生け垣に、オレンジのこまかな花が咲いている。

 金木犀の香りは正直あんまり好きじゃない。トイレの消臭剤みたいだし、強烈に香るくせに、気づいた瞬間、消えてしまったりするし。窓を閉めると、足元でネコが鳴いた。視線の先のシンクの上から、風もないのにビニール袋が落ちる。引っ越して三ヶ月もたてば、この家に「なにか」いることくらい気づく。わたしは黙って袋をゴミ箱に捨てた。ネコが悲しげに鳴く。その視線は宙に固定されて動かない。

 自宅の心霊現象について話すと、十も年下のバイトメンバーには「怖くないんですか?」ときかれた。全然まったく怖くない。生きてる人間の方が断然こわい。ピンポンと鳴るインターフォンに飛び上がる。映っていたのは配達業者だったけど、わたしはつい居留守をしてしまう。最初からコンビニ受け取りにできないシステムは、致命的だからホントに早くなんとかしてほしい。びびるわたしをよそに、ネコは何もないところで腹を出してうねっている。同居の幽霊は、どう考えてもネコ好きで、何なら飼い主のわたしよりネコの扱いがうまい。ほんのちょっと嫉妬する。

 認識したとたん気づけなくなる金木犀の香りみたいに、幽霊はぜんぜん出ていく気配がない。まあ、実害はないし、ネコも懐いているし、引っ越すお金もないし。どっさり届いた書類にげんなりしながら、わたしはのろのろとサインを始める。貯金をはたいて評判のいい弁護士を雇ったのだから、もとはとらなきゃ。離婚届に署名してポストへ投げ込んだ日、バイトから帰るとなにやら業者がマンションを取り囲んでいた。抜かれたばかりの金木犀がトラックに積み込まれていくのを、なんとなく眺めているうちに、かつての夫を思い出した。まだ仲のよかったころ、咲き誇るちいさな花をみて、くさいと言ったのは彼だった。顔をしかめる彼に、感じたまま「いい匂い」だと言ってしまわなくてよかった、と胸をなで下ろしたかつての自分のことが、まるで他人のようにムカついてしかたない。待って、と言う前に去ってしまったトラックを見つめながら、わたしはこぶしをにぎった。

 ふんぱつして買った焼き物の花瓶に、一枝のオレンジの小花を挿す。ネコが不思議そうにながめ、まるい手を伸ばす。倒されたらかなわない、と慌てて抱きあげて下ろした時、ふんわりと金木犀が香った。ちいさな花が一輪落ちて、それきり幽霊は姿を見せない。

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