蟹人間のあいつはそれを隠すことに人生をささげている。やわらかそうに見える腕も、触ると硬い甲羅なのがばれてしまうから、夏でも絶対長袖だ。そんなやつの、年一の脱皮の瞬間を目撃してしまったわたしは、やつから執拗に命を狙われる。気持ちはわかるけど、工場のロッカールームで脱皮してるほうもどうかと思う。

 死にたくはなかったので、妥協案としてわたしは自分のプライバシーを差し出す。同居を始めてみれば、あいつはそれなりに過ごしやすい相手だった。全身を覆う不織布の白衣なら甲羅の皮膚がバレにくい、なんて理由でこの食品工場に十年勤めているあいつは、持ち帰った白衣にきっちりアイロンをかけるようなやつだった。朝ごはんの食器をシンクに置きっぱなしにして、トラウマになりそうなほど怒られたけど、その分掃除はきっちりしてくれるし、トイレの床はいつもピカピカだ。おかげで随分まともな生活になった。最初はわたしの携帯まで、毎日チェックしていたあいつも、半年が過ぎ一年が終わるころには、ようやくわたしを信用してくれたようだった。駅前のトイレで脱皮した殻が欲しいとねだると、信じられないという顔をしながらも、悪用しないなら、と条件付きでくれるくらいには、仲良くなった。もらった殻はハンガーに吊るして押し入れの縁にひっかけておく。半透明の宇宙服みたいな物体は、どれだけ眺めても飽きない。わたしはあいつでバズるつもりもなかったし、金を稼ぐ気持ちもなかった。言っても信用してくれないだろうから、言ったことはなかったけれど。

 だからある日、家の中がからっぽになっていたとき、しばらく理解ができなかった。ちゃんど自分のものだけ持っていく律儀さが、逆にむかついた。わたしにくれた殻も、処分せずそのまま残っていた。場所をとるくせに悲しいくらい軽い残骸は、急いでいたのか、閉め忘れた窓から吹きこむ風にたよりなくゆれている。

 わたしは追いかけなかった。同じ家で、今日もあいつの殻を眺めている。ときどき無性にさみしくなって、半透明のあいつに抱き着きそうになるけれど、うすく脆い殻は一度抱き着いたら崩れてしまうだろうから、まだ踏ん切りがつかないでいる。

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