ネイルサロン「おんがえし」
せまい店内には、ちいさな机とイスが一脚。天井から机の上の手首まで降りた白い布のむこうで、ぼんやりとした影がみじろぎする。唯一、布の目隠しのむこうに預けた両手のつめに、ゆっくりと刷毛が乗る。じわりとにじむ手汗が気になって、のどが渇いてしかたない。ネイルをされている。三十年間、これからもずっと、縁がないだろうと思っていた場所にいることがうれしくて、怖い。
ネイルサロン「おんがえし」は、童話のツルのように、施術者を見ることはない。けれど、それは客への配慮なのだと思う。わたしの指をつまむ誰かの指先は、どう考えても女性の細さだ。膜の向こうにいるネイリストが、どんな思いで硬く平たいつめを塗ろうなんて思い立ったのか分からないけれど、完全予約制の小さなサロンはそれなりに流行っているようで、3か月待ってようやく来られた。会話はできません。布を開けたら通報いたします。支払いはキャッシュレスのみ、と書かれたお品書きには、大輪のバラのような豪華なデザインから、フェミニン、かわいい系、シンプル、爪のケアのみと、多彩な見本が並んでいる。手の甲を二回叩かれた。うすい桜色に染まったつめ先に、わたしはほっとした。ずっと裸だった体に、ようやく服を掛けてもらえたような心地だった。
3か月に一度のペースで、わたしはサロンに通い続けた。仕事のため、金曜に施したネイルは、日曜の夜には落とさなければならなかった。それでも幸せだった。つやつや光るつめを見るたびに、呪いが解けたような気がした。
その日もサロンに向かう途中だった。人目をさける路地裏にあるサロンの曲がり角で、小柄な人影が数人に囲まれているのが見えた。わたしは悩んだ。力に自信はないし、ケンカだってしたことがない。だから、助けたのは本当に気まぐれだ。ムダに高い身長と、ゴツイ肩幅が幸いし、声をかけただけで、不埒な輩はぱっと散っていった。絡まれていた老人は、しわがれた声でありがとうと頭を下げたあと、曲がった腰に手を添えながらどこかへ消えていった。
いつものように両手を机の上にのせ、布越しに施術を待つ。二時間の沈黙が、今日はなぜだか息苦しい。そっと、きれいな反物を包むような手つきで戻された指先は、今日も胸が痛くなるほどうつくしい。骨の太い指にはおそろしく似合わない、彩られたつめ先で、わたしは初めて、ネイリストの手をにぎった。血管が浮き深いしわの刻まれた、ちいさな手だった。
飛び去るツルを失わないためには、自分もツルになればいい。わたしは仕事を辞めた。無口な師匠は、なにも教えてくれないけれど、いつかそのつめを染めるのが今の夢だ。
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