夏眠

 海を破って出てきたあいつの目が一瞬あおく見えて、ぎょっとする。犬みたいに頭を振って、波を蹴りながら砂浜に上がってきたあいつは、いつもの焦げ茶な瞳をゆがめて、ニッと笑った。

 宿題のプレッシャーに四十日間も追われる夏休みを、俺はあまり好きじゃない。「さっさと終わらせればいいのに」って真面目なあいつは言うだろうから、ぜったい口にはしないけど。「早く終わんねえかなあ」とっくに食べ終えたアイスの棒をくわえたまま、俺は覆いかぶさってくるような入道雲を見る。となりであいつも、おんなじ空を見ている。「花火しようよ」虫取りも海遊びも川釣りもやりつくしていた俺に、あいつはまた新しい夢をくれる。「のった」くわえていた棒をへし折ると、断面がするどく尖った。ホームセンターの凍りそうな冷房に二の腕をさすりながら、ああでもないこうでもないと花火を吟味する。手持ち花火のファミリーパックと打ち上げ花火三本が小遣い的に限界で、重たいバケツに水を溜めて、ろうそくに火をつけようとしたその瞬間、辺りが白くなった。

「おはようございます」電動ベッドに背中を押されるまま目を開けると、同じように起きたばかりの人間が、カプセルに下半身をつっこんだままぼんやりと頭を振っていた。地下特有のひんやりとした空気を、集合環境維持装置の地響きのような稼働音が震わせている。「お加減はいかがですか?」音もなく近寄ってきた介護ロボットを無視して、俺はあちこちのコードを引きちぎると、となりのカプセルをのぞき込む。ぴたりと閉じた窓の向こうに、白い顔をしたまま眠り続けるあいつがいる。「今年も覚醒シグナルは検出されませんでした」報告を聞きながら、俺はひんやりする外壁に手を添わせる。暑すぎる夏を眠ってやり過ごす習慣は、いつから始まったのだろう。こいつが起きなくなって、もう何年経ったっけ。気づけば少年を終えてしまった自分の手は、今年もあいつに届かない。宿題なんてとっくに片付けているはずなのに、終わらない夏から、あいつは今年も出てこない。

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