二章 怨嗟と紅眼、あるいは呪いの少女[十四]

 不運。不幸。運の尽き。

 とどのつまり、個人ではどうすることも出来ないものに見放されて、劇的でもなんでもなく、人生を振り返る時間さえ許されず、呆気なく命を落とす者がいる。

 横断歩道は絶対の安全を保障するものではないし、黄色い線の内側は想定外の事態から身を守ってはくれない。

 だから、人は常に死と隣り合わせだ。

 つまるところ、たった一人、集団から離れて立ち尽くしていた男が、ある瞬間に突然命を奪われる可能性は0か1である。

 大型トラックのドライバーだった三野修二は、戦いの終わりを見届けてほっと胸を撫で下ろながら深呼吸をしたあと、一歩踏み出した瞬間に絶命した。

 首から下が、液状化するまでに切り刻まれて。

 ドシャリと水の柱じんたいが崩れる音と、ゴトリと、固体とうぶの落ちる音。

 その元凶たる人物は、靴底が血と肉の混じり合ったペーストに汚れることも気にせず、かつて三野と呼ばれた男の首を拾い上げ、ゆっくりと歩行を開始した。

 彼女は人間で。

 魔性災害対策室の中でも特別な者にのみ貸与される、宇曽利山社中特注のパンツスタイルのスーツに身を包んでいた。

 つまり彼女は。

 三野の同僚である。


「三野っ!」

 金ヶ崎が叫ぶが、もはや手遅れだ。彼の命は失われた。

 特戦三課の面々がその銃口を彼女に向ける。

「待てっ!」

 金ヶ崎は確かに優秀な指揮官だった。ここで火蓋を切るわけにはいかない。一人の部下を失ったが、だからといって壊滅の道を選ぶわけにはいかなかった。

 宮本陸らは状況を静観している。その判断はまったくもって正しい。歴戦の強者とはこのことだ。状況を静かに見守りながらも、その身体は戦うために駆動するよう身構えている。

 一歩、また一歩と近づいてくる、人体をペースト状にした人影。

 彼女はその手に三野修二だった者の頭部が収まったヘルメットのストラップを掴み、やがて、前に出た金ヶ崎の前方十メートルの位置で停止した。

「なにこれ。ねぇ、なにこれ」

 女は少女だ。まだ学生として勉学に励む年頃で、部活に青春をかけたり、恋に恋をする年頃である。

 そんな少女が、金ヶ崎に傍に向かって三野の首を投げ捨てた。

 誰も受けない。誰もすくい上げない。無惨に転がるその頭部に駆け寄りたい衝動を、特戦三課の誰もが奥歯を噛み砕くほどの怒りを抑えながら、銃口を彼女に向けていた。

 震える指。引き金にかかったその指を、必死の自制心で押し留めながら。

「応援要請で飛んできてみたら。なんなの、これ? なんであんたたち、そいつらと馴れ合ってんの? 仲良しごっこでおままごとなんて、あんたたち、裏切ったの?」

 少女は酷く苛立っている。肩上で整えられた髪は漲る呪力によって総毛立っており、その顔には隠すことのない侮蔑のそれが浮かんでいた。元が厳しい印象を与える少女の顔立ちが、怒りの感情だけを表すために使われている。

「対象は彼らが排除した。任務中に優先順位の変更が入った。それだけだ」

「はっ、そんなの最初から見てたから知ってるわよ。まあお見事。手際は完璧。そうでなくちゃ張り合いがない。で、終わったんでしょ? その女、人質じゃないの? だったらなんでさ、さっさとあいつらに銃を向けないの?」

 ——最初から? 近くに待機していた、つまりは別働隊か。

「状況は変わった。我々の戦力での作戦遂行は困難だ。引き際は弁えている。ここで全滅しても無意味だ」

「ふぅん。じゃあさ、私が手伝ってあげる。だからその銃、あいつらに向けなさいよ」

 金ヶ崎は表に感情を出さず、心の中で唸る。

 扱いが難しい。どう答えることが正解か。かといって返答を遅らせることも悪手だ。『君一人加わったところで状況は打開出来ない』という事実を、彼女の逆鱗に触れずに伝える術が思い当たらない。

 返答を間違えれば金ヶ崎の首が飛ぶ。いや、それだけならいい。部下の命をこれ以上無駄に散らせるわけにはいかないのだ。

 金ヶ崎は子どもの扱いには慣れていない。家庭を持ったこともなく、当然、反抗期真っ盛りとも言える年齢の少女にかけるべき言葉など思いもつかない。かといって引き金を引くわけにもいかない。仇討ちを大義名分にするとしても、悲しいほどに現実的な理性がそれを良しとはしない。

 ——どうする。

 しかし、そこで動いた者がいた。

 肩で息をし、死に体の身体を引き摺るよう前に出た者がいる。

「てめぇ……。なんで殺した?」

 鳥山大地が、今にも頭蓋から脳漿をぶちまけんばかりの怒りを燃え上がらせて、前に出たのだ。

「はっ? だから言ったでしょ。裏切ったのかと思ったからよ」

 恭子が動こうとするのを、陸が手で静止する。

 その陸の背が、これは鳥山大地にとって大切なことだと語っていた。

「裏切ってねぇよ。そんなもん、見りゃわかるだろボケナスが。てめぇはそんなことわかり切って殺したんだ。だからあえて聞いてやってんだよ、てめぇはなんであいつを殺したのかってな!」

 前に出る。少女は臆することなく、鳥山大地の前進を許す。

 今の大地を切り刻むなど少女には容易いことだ。だが同時に、それをやってしまったら後がないことも理解している。

 それは少女にとって屈辱ではあったが、保身という理性を失っていない証拠でもあった。

 あとほんの少しの理性が少女にあったならば、首だけになってしまった男はきっと、五体満足で仲間たちと合流していただろう。

「ウザいよ、お前。わかってんなら聞かないでよ。あれはただの見せしめよ。腑抜けた使い捨てが使い捨てとしても使えなくなってるから殺してやったのよ。バッカじゃないの。うちらは命懸けなのよ、わかる? 命懸けだから、その命を懸けられなくなった用済みを殺しただけでしょ。それのなにが悪いっていうわけ? っていうか、殺す殺さないの話、なんであんたが言うの? そんな資格あると思ってんの? やめてよね、ホント。耳が腐るわ」

「知らねぇな。俺は今の話をしてんた。てめぇ、耳だけじゃなく頭の中身まで腐ってんのか?」

 大地が少女の前に立った。

 怒りに煮えたぎる眼光。

 見下ろす先の少女は、それでも気圧されない。

 睨み合いは一触即発のそれで、しかし、両者ともに戦いの火蓋は切らない。

「てめぇ、名前はなんだ」

「お前みたいなやつに教えてやる名前なんてないわよ。知りたきゃ金ヶ崎にでも聞けば? もう仲良しなんでしょ?」

「そうかい。それはそれでいい。だが覚えとけ」

「はっ、なにを? 自己紹介でもしてくれんの? 俺は鳥山大地、見ての通り死にかけてますって?」

「てめぇは俺がぶちのめすっつてんだ」

「なにそれ、ウケるっ! 覚えとけってそれ、今戦えば殺されるってわかってるのと一緒じゃん。っていうか、お前に次なんかないでしょ。死ぬでしょ。死んでよ」

「死なねぇよ、ボケナス。てめぇは俺がぶっ倒す。それまではゼッテー死なねぇ」

「死んでよ、カス。うちは、お前らがしたことを忘れない。だから死んでよ」

「俺は死なねぇっつてんだろ」

「死ねよ」

「ぶちのめす」

「死ねよ!」

「ぶちのめす!」

 繰り返されるやり取り。十回目辺りで恭子が呆れ出してこめかみに手を置くが、一触即発だった空気が消え失せたのも事実である。

 ——陸にはこうなることがわかっていたのかしら?

 おそらく、少女と陸とは初対面のはずだ。それでもこの展開が見えていたのだとしたら大した観察眼である。

 陸は昔から、誰に誰を相対させるか。その采配を過たなかった。

「その辺にしておけ。まるで、子どもの喧嘩だ」

「「あっ!?」」

 声が重なったのは、偶然ではないだろう。おそらく二人は気が合っている。しかし少女は少女で少女であるが故に子ども扱いされることが気に食わないだけで、この場合、大人げないのは大地の方だった。

 実際、その少女はそこいらの大人よりもある一点においては優れている。故のスーツ姿だ。それはまさしく、魔性災害対策室・特殊戦略部第四課の制服なのだから。

 少女は、子どもの喧嘩と言い放った陸に対して視線を逸らさない。

 まさか、陸の暴君としての側面を知らないわけではないだろう。

 恭子は敵として少女を値踏みする。

 一瞬で人体は解体する、を通り越して液状化せしめた能力。佇まいは自然体に見えて隙はなく、また、胆力もある。些か感情的ではあるが、少女は、をきちんと理解し、それを超えなかった。

 ——一線級、それも場数を踏んだ、きっちり生き残れるタイプの無軌道系。厄介ね。

 大地を知っているからこそ言えることである。厄介なのだ。

 それはつまり、実力が伴っていることを意味している。

「……まあ、いいわ」

 溜飲を先に下げたのは少女であり、その分、少女の方が大地よりも大人だった。

 悲しいことに。

 そして、少女が無防備な背中を大地に向ける。それは挑発ではなく余裕の表れであり、現状を正しく把握していることの証左だった。。この場で戦闘は起こりようがないと、きっちり理解している。

「まあ実際? あんたら全員敵に回して? うちの一人勝ち? なんてあり得ないわけだし。金ヶ崎も撤退したけりゃどうぞご勝手に。冷めたわ」

 歩く。この場にもう用はないと立ち去る。

「ぶちのめす」

 その背に、大地は怒りを込めてもう一度語りかけた。

「死ねよ。……まあでも、そんな身体でもしも死ななかったら、その時はうちが殺してあげる」

「でもやっぱり、死ね」

 その言葉を最後に、少女は消え——。


 再びの静寂。

 先程のものとは違う、重い静寂が山間の公道を支配し、金ヶ崎は静かに、戦友の、あまりにも小さくなった亡骸を腕にすくい上げた。


   ◆


 大地は歩く。肩で息をしながら、それでも確かな足取りで。

 その後に金ヶ崎たちが、そして陸らが続いた。

 金ヶ崎の腕の中には、かつて三野修二と呼ばれた男の頭部が収まったヘルメットがある。瞼を閉じられたその表情は、きっと、自分が死んだことさえ意識していなかったであろうものだった。

 それをせめてもの救いと呼ぶべきなのか。

 誰にもわからない。

 彼らの歩みは葬列そのものであり、百舌だけ参列には加わらず、姿を消した。

 この場所に長く留まることそのものが悪手である。

 しかし、大地の歩みは止まらなかった。

「……あいつ、三野って名前だったんだな。家族はいるのか?」

 金ヶ崎はいないと答えて、私たちが家族だと続けた。

「……彼女の名前を、知りたいか?」

 金ヶ崎は問い返し、俺がもっぺん聞く、と大地が答える。

「お前らの仲間なんだよな、あいつ。まあでも、関係ねぇ」

 金ヶ崎はなにも答えない。

「あの子は孤児だ。意味は、わかるな?」

 大地もなにも答えなかった。

 葬列の最後尾で、由香理を抱きかかえた恭子が、おそらくは彼女だけが、陸の表情の陰りに気がついた。

 この場の誰も、陸を責めてなどいなかった。

 責めたい気持ちはあっても、そんなことをしてもなんの意味もないことを、この場の誰もが理解していた。

 虚しいだけだ。

 戦場に出れば誰もが死ぬ覚悟を持つ。それが、魔性災害対策室の日常だった。

 だが、今回ばかりはなにかが決定的に違った。

 元凶が陸であっても、理性が、これは違うのだと理解している。

 彼らの間に生まれた奇妙な連帯感。それが、敵同士であるが故に次の瞬間には消え失せるかもしれないものであったとしても。

 その葬列は続いた。

「三野は、お前を尊敬していた」

「あぁ、聞いたよ。まあなんだ、聞こえちまったってのが正解なんだがな」

 大地が歩みを止める。彼の前には、それがかつて人体を構成していたとは思えぬほどの、惨たらしい遺体があった。

「俺が、殺しちまったんだな……」

「……違うと言っても、お前は受け入れないか」

「あいつは俺をカッコいいとか抜かしやがった」

「三野は最高のドライバーだった。撤退においては右に出る者がいなかった。皆が、救われた。何度も、な」

「そっちはお前らが弔ってやってくれ。けどよ、こっちは、俺が連れて行く」

「……わかった。連れて行ってやってくれ」

「わがまま言ってすまねぇな」

 そう言って、大地はその場に跪いた。その右手を、ぬらりとした、ほとんど人一人分の遺体に置いて——。


「喰らえよ、貪食鬼。出来るだけ、上品にな」


 告げて、その変化は静かに、しかし、確かに現れた。

 血とも肉ともつかぬその色が消えていく。啜りあげられていく。大地の右手に吸い寄せられるように、一片の液溜まりも残さず喰われていく。

 貪食鬼。

 それは飢える鬼だ。底無しの食欲。人の骨肉を、臓腑を喰らい、呪力へと変換して自らの力とする飢餓の鬼。

 その鬼の腹は満たされることがない。

 何故ならば、その鬼は喰らった人肉を呪力に変えてしまうからだ。いくら喰らっても胃に肉は溜まらず、食欲は消えず、力だけが増していき、あまりにも人を喰いすぎたが故に存在が露見し、三代前の宮本家当主によって封じられた。

 それはほとんど自滅のようなもので、しかし、倒すことが不可能であるほどに強大だった。

 その鬼が今は大地の中におり、三野修二の遺体を啜りあげ、呪力へと変換し、大地の身体に力を駆け巡らせる。

 問題の先延ばしではあったが。鬼毒によって犯された大地の肉体は、それで幾分かは持ち直した。

 もしも大地が喰うために人を殺す鬼種だったならば、膨大な数の人間の命を代償にして生き長らえ続けることも不可能ではない。

 もっとも。

 そんなことをするくらいならば死んだ方がマシだと思っているのが鳥山大地だ。

「三野。お前の肉はもらった。だからよ、あいつは俺がぜってぇに、ぶっ飛ばす」

 轟音。地響き。

 アスファルトの地面を砕く勢いで振り下ろされた拳は、震えていた。

 それこそが、

 その背後で、三課の誰もが、大地の背中に向けて敬礼をしている。

 もちろん、彼の中に巡る、三野だった者に対して。

 これにて、ようやく。

 状況は、一旦の終了を見た。


   ◆


 ——その存在に、金ヶ崎たちは気づかなかった。


 あるいは彼らが気づいていたならば、は彼らにとって抹殺対象となっていたかもしれず、それが叶わぬ圧倒的な脅威と認識され——。


 そのモノに殺気はなく。

 そのモノは息を殺している。


 故にそのモノは、この時ばかりは人の知覚からズレていた。

 陸たちとソレの戦闘の最中。

 法面に背を預け、一番後方に、守られるように位置していた由香理の瞼はうっすらと開かれており、やがて、ひっそりと閉じられた。

 その瞳に宿った人外の紅は、誰に気づかれることもなく、石楠花由香理の意識の底に再び沈んでいく。

 少女のカタチが、怨嗟の金切声で世界を掻きむしる姿をただじっと見届けて——。


 ——アレは、見苦しい。


 その呪音は、誰の耳にも届くことは、なかった。

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