二章 怨嗟と紅眼、あるいは呪いの少女[十三]

 臆することなく地を蹴り、ソレの前方、斜め上の空間に躍り出た恭子は、この状況においてもソレが陸から視線を外さないことに憤っていた。

 抱え難い怨嗟を宿した人の形は、あくまで観測者。

 造形者はソレに、復讐の機会を与えていない。

 陸を護ることが恭子の役目であっても、その現実はひどく悲しく、残酷で、あまりにも惨たらしい結末に思えた。

 だからといって手心などは加えない。

 ソレがここで、確実に倒すべきものであるという事実は変わらない。

 故に、恭子は躊躇いなく刺股を突き込んだ。

 狙うは胸部。中身ごと吹き飛ばす勢いで突き込まれた刺股は、その直前で勢いを完璧に殺される。又部がその胸部に触れた瞬間、恭子の皮膚感覚が、ソレの身体の強度を感じ取ったからだ。


 ——思っているより硬い。まだ完全に腐ってはいない感じ。


 突き込む速度は高速、触れた瞬間に停止。又の左はソレの右脇下。又の右は、ソレの左肩。たすき掛けのように又を胸部に渡し、そして手首を捻る。

 精緻にして妙技。脇と肩を起点に、又でソレを挟み込む。ほんの少しでも力加減を間違えれば、ソレの肉体は軽々と捻り切れるだろう。

 人間離れした感覚器官。ソレがたとえ刺股の間で暴れたとしても、恭子の感覚は刹那の単位で力加減を変えてソレを捕らえて逃がさない。

 そして背後には、大きく尻を振ってこちらに突っ込んでくる大型トラックのコンテナが、トラックごと裏返って宙を滑り、陸の直上を抜けつつ搬入面をこちらに晒している。


 ——そういう感じっ!


 意図はわかった。大地は百舌の動きを察している。ならば恭子はそれに合わせるだけだ。

 百舌は後方に飛びながら、義手の弦を爪弾き、さらに左手で握っていた番傘を右手に持ち替えていた。

 百舌の身体は宙を数十メートル後方に舞う。トラックの上を抜けながら、しかし、ほとんど停止に近い形で一気に減速した。

 掲げられた百舌の義手から伸びる五本の弦が、トラックの車体に結びついている。

 伊勢乃神座の制作する弦ともなれば、一本で自家用車を軽々と持ち上げてもまだ余裕があるほどの強度を誇るもの。車体後方をセンターラインの左側に振ったトラックは弦によって引っ張られ、運転席側から巻き上げられるように裏返ったのだ。

 いや、文字通り巻き上げらている。百舌の呪力を得た義手か駆動音を響かせ、結果的に車体前方と後方の位置関係はひっくり返った。

 義手は百舌の肩で接合されている。もちろん、その肩が悲鳴を上げないわけもないが、引き千切れるほどではない。


 ——その魂に救いあれ。

 ——その魂、曇ることなかれ。

 ——ただしその弦、人血に濡らすことなかれ。


 に得られる義手には、神楽舞の加護が宿っている。十トントラック如きの物理的重さが、神域を目指す伊勢乃神座の加護を破るはずもない。

 その加護は、の怨嗟の塊に対抗するために創り出された至高の工芸品に宿るもの。

 相手が怨嗟の塊であり、ソレを倒すために振るわれるならば、その加護は十全に発揮されて然るべきなのだ。

 はたして。センターラインを割った車体は見事に裏返った。

 あとは、コンテナにソレを投げ込むだけでことは終わる。

 それこそが恭子の仕事だ。


 絶技とは、今生において、たった一人を指して使われるもの。


 だが、ここから始まる肉体美の極地は、まさに絶技と言って差し支えないものだった。

 それは力任せに行われる金魚すくいに似て、非なるもの。ポイ網を蝿叩きの如く扱えば薄紙は破れるが道理。

 ソレの肉体は完全に腐っていないとはいえ、普通の人体とは違う。寸分の力加減の狂いが簡単にソレの肉体を引き千切るだろう。

 すべてはほんの一瞬の出来事だ。

 恭子の肉体は宙にあり、まだ自由落下をはじめてさえいない。

 当然、足元にはなにもない。踏ん張りなど利くはずもない。

 それがなんだというのか。

 寸分の違いが生死を別つなど考えもしない。

 ただ一つ。陸の覚悟に応えることだけが、彼女の肉体の入力された数値だった。

 握った刺股を振るう。

 ソレが持ち上がる。


 ——ここだなっ!


 鳥山大地が、背部コンテナの搬入口を開いた。


 ——いいタイミング!


 そして、振るった腕に精緻にして微細な力を込める。

 本来ならば、鳥山大地は真っ直ぐ直進し、陸と百舌がトラックを避けるのを見てコンテナを開口、運転席は不浄に突っ込み、熱したフライパンの上を滑るバターのようにタイヤから溶けるだろうが、足場としては問題なく機能する。それを足場にして恭子は飛び、搬入口にソレを叩き込めば状況は終了だ。

 鳥山大地は間一髪で脱出し、コンテナを掴んで力任せに引き戻す。鬼毒に犯されているとはいえ、不浄に突っ込むコンテナを引き戻すことくらいならば容易だ。体力の消耗は可能な限り控えるべきではあるが、大地はその危惧を頭の片隅にも浮かべない。この方法の場合、万全を期すならば、恭子がソレを直上に掲げなければならないことの方が問題だった。

 恭子は失敗などしない。だがそれでも、もしも腐汁が直上から滴り落ちたならば。

 だから、陸が避けず、百舌がこちらに向かって飛んできた時点で察したのだ。

 百舌が俺の負担を肩代わりする、と。

 加えて、センターラインを割って斜めの車体がそのままひっくり返るならば、恭子はソレを直上に掲げなくても良い。

 大地は、この世界でもっとも信頼する肉体の背中を見た。

 大地は剛力ではあるが、繊細さは望めない。この場に限らず、この世界で繊細さを請け負うならばそれは江波恭子をおいて他にいないだろう。

 大地はもちろん、死ぬほどの苦行を抜けて今に至るが。

 江波恭子は死ねない身体で今に至っているのだ。

 信頼など、もはや当然である。

 対する恭子は。

 ——軽いのに、重い。

 持ち上げたソレの物理的な軽さに無念を想う。溶け落ちた臓腑のためか、ソレの中身はほとんど空っぽなのだろう。宙を斜めに運ばれながら、その顔は自分の終わりを予見することもなく、ただじっと、陸を見つめている。その事実が、恭子にはひどく虚しく、重いものに感じられた。

 大地が運転席から飛び出したのを視界の隅に見届けて、百舌は、陸に対する殺気を切る。

『————ァァァァァアアア…………』

 名残惜しいと封印呪が鳴いた。あるいは、泣いた。

 回した腕の中に収まる首が名残惜しい、と。

 少女のカタチは最初からなかったように消え失せ、世界を掻き毟る怨嗟の音はかき消えた。。

 ソレからは再び瘴気が漏れ出すが、もう遅い。

 刺股が金属音を響かせ、搬入口の枠にぶつけられる。その瞬間だけ、力を込める。刺股によって拘束されたソレは、刺股の柄と搬入口がぶつかった瞬間、股の部分で胴体を切り裂かれながら、二度とは出て来られない浄化空間に投げ込まれ——。


 対象の格納を確認したコンテナが、隔絶の音を響かせながら、無慈悲にも、閉じた。


 閉塞に巻き込まれた刺股は跳ね上がり、扉に挟み込まれて捻じ切れる。その反動で恭子は宙に飛び、不浄に足を着くことなく離脱した。

 響き渡る破砕音。

 百舌が巻き上げるコンテナが車体から剥ぎ取られる音だ。銀色の棺は重さを感じさせぬほどに軽々と宙を舞い、そして、車体は強引にコンテナを剥ぎ取られた反動で錐揉み状態のまま不浄に突っ込んでいく。

 どこか遠くで、形を失った怨嗟が飛散する、最期の破裂音ほうこうが聞こえた。


 そして、轟音とともにアスファルトに突き立ったコンテナはいったい誰の墓標だろう——。


 法面に着地した恭子と、道路を転がる大地と。

 ただ一人、最初から一歩も動かなかった陸と。

 搬入口を夜空に向けて突き立つコンテナの上に降り立った、外道。

 誰かの怨嗟は、その怨みを晴らすこともなく、冷たい箱の中に格納された。

 これで、終わり。

「百舌、そこから降りろ」

「かしこまりましてございます、陸様」

 墓標に背を向けた陸の声音は、いつも通りだった。

 今にも崩れ落ちそうに、いつも通りだった。


   ◆


 百舌文隆が地に降りる。

 トラックの疾走から始まった一部始終は、いったい何秒の出来事だったか。

 金ヶ崎を含めた特戦三課の面々は、呼吸をすることさえ忘れていた。

 なにもかもが出鱈目で。

 本来ならば入念な準備が必要だった災害の打倒を。

 ここにあるものだけで、あっさりと、なんの歓声もなく、ただ静かに終わらせた。

 ——次元が、違いすぎる。

 百舌の仮初の殺意は、仮初であったことが信じられないほどに真に迫っていた。ただの一歩も動くことはなかった宮本陸は、確証はないものの解放された封印呪を抑え込んでいたように見え、鳥山大地は百舌の動きからその意図を読み取り、見事に大型トラックを操作した。

 江波恭子は——。


 ——あれは、同じ人間なのか?


 砂粒の山崩しなど、空想のそれだ。仮にあったとしても、そこからたった一粒の抜き取るなど不可能である。

 遅くても、早くても駄目なのだ。その上で目にも止まらぬほど速やかでなければならない。

 それだけのことを、江波恭子はあの一瞬でやってのけたのだ。

 素人目にはその絶技は理解出来ないだろう。おおよそ人間技とは思えない。恭子が行ったことは、ただ、ソレを刺股で拘束してコンテナに投げ込んだだけ、ではあるが。

 もちろん、それは違う。

 シャボン玉を高速で動くベルトコンベアに落とせばどうなるか。接触か風圧か。どちらにしろシャボン玉は外界に対してあまりにも脆い。液体としての質量は変わらずとも、形状の維持は難しいものだ。

 つまりは、培って来た経験値が違いすぎる。いや、それほどまでの技術を得るに至る経験のみを選んできたのか。

 江波恭子には、なかったのだ。


 ——いや、あるいは。


 江波恭子は、まだ、と取るべきか。

 金ヶ崎たちの戦意は、ある意味では削がれている。勝てる道理はなく、もはやあの肉体を沈黙させることは不可能に近い。

 しかし、その戦意喪失は、まったく別の意味を持っているのも事実だった。

 祝杯もなく喝采もなく、感激の声もなく終わった戦い。


 ——彼らは本当に、我々の敵なのか?


 敵だ。それだけは明確に、間違いなく。

 彼らはかつて、人の世を滅ぼしかけた。多くの命を無慈悲に奪い、金ヶ崎も多くの仲間を失った。

 彼らが奪った人命の数は、実にはくだらない。

 だがしかし。

 かたや、弱いものたちのために人の世を滅ぼすと謳った暴君。

 かたや、で済んでよかったと嘲笑った高官たち。

 はたしてどちらが邪悪であったか——。

 そして彼らは、それがたとえ自身の行いの結果だとしても、今、金ヶ崎の目の前で災害を打倒して見せた。

 ——あの時もそうだった。

 とある地方都市が壊滅といっていい被害を被った戦い。

 十万の人命が藻屑と消えたあの戦いの被害者たちは、そのほとんどがこちらが投入した戦力によって巻き添えを喰らっただけだった。

 その被害をすべて暴君に押しつけたことを、他でもない、国が正当化しているという事実。

 その結果の果てが、たかだか十三万程度、だ。

 それでも、三万という人命が、暴君の名の下に失われた事実は変わらない。

 その数は看過することなど出来るはずもない被害だ。

 だが、と金ヶ崎は思う。

 あの時、金ヶ崎はその戦場に居合わせた。

 暴君は確かに戦っていたが。

 その姿勢は、自らに降りかかる災害を打倒するというよりも、逃げ惑う人々の、助けを求める声を聞き届けて戦場に立っていたように、金ヶ崎には見えた。

 結果的に、陸たちの奮戦がなければ被害はさらに最悪の方向へと膨れ上がっていただろう。

『あの男は、いざとなれば人を守る。そこを突けばよい』

 その考え方は外道の策士のそれに近く、その命令を下した作戦指揮官は、後に、何者かによって殺害された。

 空間が断裂するほどの通り風によって、引き千切れて殺害された。

 ——彼は、彼らは、いったいどちら側なのか。

 地に降り立った百舌に、陸がゆっくりと歩み寄る。

 静寂を取り戻した公道に乾いた音が響き渡った。

「わざと、だな?」

「えぇ、えぇ、もちろんわざとにございますれば、陸様」

 陸が、百舌の頬を打った音だった。

 陸の眼は笑っておらず、百舌の眼は邪な光を宿して嗤っている。

 ——コンテナに降り立ったことか?

 金ヶ崎は天に向かって突き立つコンテナを見上げる。

 ——違う、な。

 思案し、ああ、なるほど、と納得する。

 百舌にその気があったならば、おそらくは車体本体ごと不浄から巻き上げることも出来たのだろう。

 その上で、百舌はあえて、コンテナだけを掬いあげたのだ。

 金ヶ崎たちは移動手段を失い、そして、あのコンテナをわけにもいかない。

 つまり、ソレの造形者がここへやって来る可能性が高いと踏んだ上で、金ヶ崎たちがこの場から動けない状況を作ったのだ。

 金ヶ崎たちを囮にする、という選択肢。

「次はない」

「かしこまりました」

 百舌が恭しく頭を下げる姿は、どこか薄っぺらいものに金ヶ崎には見えた。

 言葉はそれきりだった。陸は百舌から視線を切る。

 そして彼らは歩き出した。その行く先は金ヶ崎の方に向かって歩んでるように見えるが、同時に、その先を見ているような——。

 事実、江波恭子との戦いは終わった。こちらが玉砕覚悟で挑んだところでどうにもならないという変え難い現実を、突きつけられた。

 先頭を進む宮本陸のその表情は、鳥山大地を差し置いて四人の中でもっとも疲弊しているように見える。あとに続く江波恭子と鳥山大地は、そんな陸に対して明らかに気遣うような視線を送っていた。

 ——二十一だったか。

 金ヶ崎から見れば、彼らはまだ子どもだ。

 長生きしすぎたと思える金ヶ崎の戦いの人生の中でも、特別な子どもたちだ。

 その挙兵はたったの十五歳だった少年の決意から始まり、彼らの行動は、確かに世界を動かした。

 消費文明に対する反逆。人の手で自然との共存を目指すのではなく、そもそも人を排除するという道を選んだ少年たち。

 金ヶ崎自身、考えたことがないわけでは、なかった。

 人の成れの果てと戦い続けて来たからこそ、その思考は当然なのだった。

 こんなモノが生まれてしまうなら、と。

 こんなモノに成り果ててしまう存在が人間なのか、こんなモノに成り果ててしまうから人間なのか。どちらにしろ——。

 人など、この世界の異物でしかないのではと考えた、あるいは考えてしまったことなど、一度や二度ではない。

 そこに結論をつけることを恐れた。

 それに結論を出してしまった少年がいた。

 その結論をもって、はじめて、金ヶ崎は考えた。

 向き合った。

 結果、人の側に立つと、決めたのだ——。

「すまない。弁償は出来ないが、アレが摂理を穢すことは、もうない」

「あ、あぁ……」

 その墓標を、金ヶ崎は再び見上げた。

 確かに終わったのだ。

 宮本陸の視線が金ヶ崎から逸れる。その顔が一瞬、訝しむように陰ったのは気のせいだろうか。

 その視線の先には、法面に背を預ける石楠花由香理の姿があった。

「ありがとう」

「いや、当然のことをしたまでだ」

 金ヶ崎はその女の名も知らない。だが保護対象であることには変わりがなく、イヤーマフを使用しない理由もない。

 ここからどうするか。状況は終わったが、作戦目標は達成されていない。撤退は妥当で、今ならまだ、誰の命も奪われていない。

 敗北ではあっても、無血であれば、それはある種の勝利だ。

 それもあくまで、次の状況が始まらなければ、の話だが。


 水の崩れる音がする。

 ゴトリと、不吉な音が響く。

 それは、確かに、彼らの日常だった。


 命の失われる音が、静まり返った公道に響き渡った。

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