二章 怨嗟と紅眼、あるいは呪いの少女[四]

 怨怨怨ドクン、と。

 おぞましいナニカが身体の奥底で脈打つ音を、大地は聞いた。

「大地っ」

 陸のその叫びがどこか遠い。まるで水の中にいるかのような、あるいは分厚い膜に隔たれているかのような、致命的な距離感。

 そして、焦りの色の濃い陸の声が耳に届くまでもなく、大地は理解した。


 理解、してしまった。


 その鼓動のような音の意味を。

「ぐっ、うがっ……」

 五体が内側から弾け飛ぶ様を幻視する。それは、そう遠くない未来に迎えるであろう、鳥山大地の最期の姿だった。

 断絶、明滅、解離、混濁。

 身体と外界の境界線がぶれて、自身の定義を見失いかける。

 鳥山大地の強固な自我をもってしても、気を抜けば意識を細切れにされかねないほどの悪意に満ちた質量。


 怨怨怨ドクン

 凶兆の音を、自身の内側に聞き——。


 大地の精神を汚染するかのように、

 どす黒い呪詛の血泡がいくつもいくつもいくつも大地の内側から湧き上がり、弾け、呪いの言葉を吐き散らかす。言葉として認識出来ない叫びや呻き、呪詛の声が頭蓋に反響し、それでも、大地は耐えた。

 なんとか、耐えた。


 殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す——。


 鼓動とともに刻まれる、呪いの言葉。

「あがっ……。ぐっ、うぐっうっ……」

 呪詛の鼓動が大地の身体を、そして精神を蝕んでいく。そのあまりの禍々しさに胸を押さえると、再生したばかりの心臓が刻む、確かな鼓動を手のひらに感じた。


 怨怨怨ドクン怨怨怨ドクンと。


 ——馴染んで、やがる。切り離せねぇ……。


 心臓を潰された理由はこれかと、大地は思う。

 再生する心臓に根を張った怨嗟は、絡みつき、もつれ合い、喰らいつき、もはや大地の独力では切除など不可能なほどに肉体の一部となっていた。

 もう一度心臓を潰せばどうなるか。四散するのは大地の五体であり、もちろんそれだけでは終わらないだろう。


 ‪──‬コイツは、外に出しちゃいけねぇ。


 大地は、自身の肉体そのものを魔に対する結界と成す。

 鬼種としての大地の肉体は、あるいはその精神は、今にも外界へと溢れ出そうとする怨嗟をなんとか身体の内に抑え込めてはいるものの、しかしその攻防は、鳥山大地の全力中の全力をもってしてやっとの、劣勢だった。

 必然、生きている心地などは微塵もない。

 大地の独力によるところが大きいとはいえ、宮本家が総力を上げてつくり上げた鬼種。その鳥山大地が、御しきれないモノ。

 それは即ち、宮本家が御し得ないモノであるということと同義だ。

 故に、大地や陸が神域と称した呪術師の技量は、神域を遥かに凌ぐと言わざるを得なかった。

 正真正銘の化物かみさまだ、と。


 ‪──‬を植えつけられて、気づけねぇとは。


 いつからだと考えて、最初からだと、大地は思う。その思考は曖昧だ。その最初というのがなにを指しての思考なのかさえも、今の大地にはうまく掴めないのだから。

 ただわかるのは、これはすべて計算づくされた策であり、それが成ったということだけだった。

 地に膝をつく。

 幼き日、宮本陸を前にしてなおも膝をつかなかった〝不動の大地〟が、いとも容易く破られた瞬間だった。

 由香理の身体からも力が抜けて、前のめりに倒れ込む。

 倒れる由香理の身体を支えたのが恭子ならば、大地の肩を支えたのは陸の方だった。

「ぐっ……。すまねぇ、陸……」

「……喋るな」

 陸は、大地の背中に手を回しながら、ゆっくりと腰を下ろさせる。苦痛に歪む大地の額には、すでに玉のような汗が浮かびあがっており——。

 そんな大地を気遣いながらも、陸は、恭子に支えられている由香理に視線を向けた。

 由香理に憑いた魔の気配は霧散し、影も形もない。

 陸のこめかみを、一筋の汗が滴り落ちていった。


 驚愕、恐れ、焦り、畏怖、そして、畏敬。


 呪術の痕跡が、塵の一つもなく消滅しているという事実。

 そんなことがはたして可能なのかなどとは、問わない。

 現実に起こり得ること、そして起こったこと。そこに疑いを向けてはならないからだ。それがどれだけ不可能に近いことであったとしても、可能とする呪術師が存在しているからこその今である。

 由香理に施された呪が解呪されたのは、その呪が目的を達したからに他ならない。

 由香理の身体に埋め込まれた呪具など、最初から存在しなかった。

 回りくどいやり方は、大地を無力化せしめる呪術が成るまでの時間稼ぎにすぎなかったのだ。

 こちらに対策のしようがなかったとしても、ありとあらゆる可能性を排除するための、時間稼ぎだ。

 毒であろうと異物であろうと、大地の鬼種の肉体は、自身に害を成すものであればそのすべてを排除する。

 例外があるとすればそれは、大地の肉体と同質のものに他ならない。

 鬼毒、と呼ばれるものだ。

 怨嗟の塊とも呼ばれる、憎悪の結晶‪──‬。

 あるいは、九尾の狐が遺したものに因み、殺生石と呼ぶ者もいる。

 大地の膝を折るほどのモノ、ということは、それが大地の中から解放されれば、周辺一帯の森が瞬時に枯死するほどのものだ。

 大地が掌握した三鬼では拮抗し切れていない。それ故に、大地は地に膝をついたのだ。


 ——大地の胸を貫いた、あの一瞬で。


 石楠花由香理の中に隠されていた鬼毒が大地の中へと伝播した。いや、器の役割が由香理から大地へと移し替えられたという方が正しいだろう。

 魔除けの護符を、まったく反応させずに、だ。

 この場合、陸たちは命拾いしたとも言える。鬼毒の一片でも護符に弾かれていたならば——。


 ——全滅していたかもしれない。


 そんなモノが、由香理の身体のどこに、瘴気の一変すらも漏らさず隠されていたのか‪‬。

 陸は大地と同様の結論に至る。いや、呪術師としての理解が、大地以上の実感を伴って敵の技量に対する畏怖を抱かせていた。

 神域とは神の領域に至った者を言うが、こんな芸当は、もはや神域とも呼べない。

 まるで、神そのものだ。

 採算が合わない。

 もちろん、この結果が招くであろう未来を、陸は理解している。しかし、だからこそ採算が合わない。

 神の一手とは、無慈悲にして絶対だ。その一手が、一匹の蚊を殺すでもなく、ただ無力化するためだけに打たれたのだから。

 勝ち目などはない。この呪術師にその気があれば、ここにいる全員、自らの死を意識する暇もなく霧散するだろう。

「クソが……。身体に力が入らねぇ……」

「無理をするな、大地……」

 陸が相貌は歪める。その表情は、今にも泣きそうな、ともすれば大地よりも苦し気にすら見える、悲痛の色をしていた。

 大地が意識を保ち続ける限り、鬼種の肉体は鬼毒から宿主を守る。しかし、その状態も長くは続かない。

 鬼毒は大地の身体を徐々に蝕み、熱、悪寒、目眩、吐き気、出血、壊死、潰瘍、糜爛、想像を絶する痛みや気が狂うほどの痒み、ありとあらゆる病の苦痛を大地に与え、その命を奪う‪──‬。

 まだ誰も死んでいないという意味では、最悪の事態ではない。

 だが、最悪の事態を考慮に入れないわけにはいかない。

 鬼毒はやがて大地の精神を喰い破る。

 陸の見立てでは、大地の命は保って三日だ。

 完全に読まれている。陸が由香理を生かすことも、こちらの練度も、そこから生まれる思考も戦略も、思考に費やされる二十七秒という時間さえをも。

 由香理は術の反動でしばらく目覚めない。

 大地は戦闘はおろか、息をするだけでも壮絶な苦痛を伴うはずだ。

 故に、陸は大地を支え、恭子は由香理を担がなければならない。

 機動力が完全に奪われた。

 鬼毒を植えつける対象者が恭子ではなく大地だったのは、恭子では鬼毒に耐えられないからだ。あるいは、恭子の瞬発力であれば、由香理の初撃が避けられる可能性も考慮に入れられていたと考えるべきだろうが──‬。

 しかしこの場合、大地が鬼毒に耐えることこそが重要なのだ。

 大地はまだ死んでいないという現実にこそ、意味がある。

 この後に訪れるであろう何者かこそが大地の中にある鬼毒を取り除く手掛かりを握っていると‪──‬。

 その可能性の前に、陸は逃げも隠れも出来ないということだ。

 つまりそれは、陸がこの状況においても誰一人として見捨てられないことまで読まれている、ということに他ならない。

「すまない、大地……」

「謝るこたぁ、ねぇ……。油断しちまった俺が悪いんだ……」

 油断した。由香理の性質、あるいは性格がそうさせた。大地の性格も、由香理の性格も、すべて見抜かれ、策に組み込まれている。

 さらに言えば、石楠花の屋敷で相見えたあの男の目だ。

 男の目には、確かに遠見のかたはしが見て取れた。


 今の陸に、使


 それでも陸に見破れない呪術はないと、無意識化に自信を植えつけられていたのだ。

 完璧に隠せるということは、裏を返せば、緻密な呪力操作によって巧妙に露見を演出することも可能である、ということに他ならなかった。

 偶然ではない。あの男もまた、この一連の流れの駒だと陸は思う。

 油断を誘う、という次元ではないのは明らかだ。

 意図的に作られた、油断。

 もしもこれを油断というならば、大地の油断だけではない。

 むしろこれは、責任の問題だった。

 石楠花由香理を生かすと決めた、陸の責任だ。

 由香理を生かしさえしなければ、こんな状況に陥ってなどいないのだから。


 ——見事という他は、ないな‪。


 敵の技量を賞賛することは憚られたが、それでも素直に認めるしかなかった。

 鬼毒の総量は、大地が独力で耐えられる瀬戸際で構築されていると、陸は判断する。

 もしも大地が鬼毒に耐えられなかった場合、溢れた鬼毒は由香理や恭子、さえをも飲み込んで、未曾有の大災害を引き起こしただろう。

 なにもかもが荒唐無稽に桁違いである。誤差から生まれる結果の危険性が大きすぎるからだ。

 だがこれは、けっして綱渡りの一か八かの所業ではない。すべてを制御し得る技量に裏打ちされた結果であることは明らかだった。

 たったの二十七秒の出来事と言うには、あまりにも密度が濃すぎた。

 結果的に、鳥山大地という名の精神は、現在進行形で世界を救っていると言っても過言ではない。

 普通ならば、戦意を喪失するに十分すぎる材料が揃っている。

 だがしかし——。


 ——俺は。


 たとえその技量に比肩し得なくとも、光明を見るに足る力があるならば話は別だった。

 その光明がほんのわずかの、針の穴を通すような頼りない可能性であったとして。

 陸は大地をゆっくりと寝かせ、拳を握り込む。

 由香理を救った責任。

 そして、大地を死地に立たせてしまった責任。

 神の如き技量を有する呪術師が相手であったとしても、止まることは許されない。

 許されない状況に、立たされてしまった。

 由香理を生かし、大地を救う。その二つを成すまでは。


 ——見事な策だ。


 呪術師だけではない。この状況の裏には策士が潜んでいる。

 目的のためならば手段を選ばず、損害を顧みず、人道などとは無縁の外道の策士が。

 その策士の名を、陸は知っていた。

 確証はないが、確信はしている。

 策にこびりついた、外道の匂いを感じるのだ。

 一筋縄でいく相手ではない。呪術師と策士が手を組んでいるであれば尚更だった。


 ——————。


 陸は、自身の思考が薄氷を踏み抜いて極寒の水の底に沈んでいくのを感じる。

 そこに光はなく、暗闇さえもない。あるのは、目的のためにどんな引き金も引くことが出来る、絶対零度の指向性だけだ。

 敵が何者であるかを認識した以上、戦うことを放棄した自分では勝ち目がない。

 いや、を取り戻したところで勝機があるかどうかも怪しいのだ。

 あるいは、これは勝ち負けの問題なのだろうかと、陸は思う。敵の思惑が見えない以上は最悪の状況を想定するべきではあるのだが、はたして陸が敵であると認識した呪術師と策士は、本当に敵なのか、と。

 こと呪術師に限って言えば、その存在自体に違和感を覚えるほどだった。


 ——アレは、このような形で俗世に関わるような存在ではない。


 その違和感は無視出来ないように陸は思う。

 さらに、策士はかつての陸の——。

 そこまで考えて、陸はその思考に区切りをつけた。甘い。そんな甘さを徹底的に、容赦なく、微塵も残さず切り捨てられるようでなければ万全とは言えない。

 戦える。力もある。あとはその力を無慈悲に無感動に振るえる冷え切った心を用意するだけだ。

 その墜落なしに大地は救えない。そう、思ってしまう。

 宮本陸という弱い人間は、どうしようもなくその結論に至ってしまう。

 自身の弱さに蓋をして、見て見ぬふりをして。

 その瞳からは次第に心の色が失われていき。


 失われた命を取り戻すことなど出来ないと。

 そんな当たり前のことを、知ってしまったから。

 だから、もうこれ以上は、失いたくはないと——。


 多くを失わせた。

 この世界から、失わせた。

 自身が、いかに身勝手な願い抱こうとしているかを、理解している。

 宮本陸に、喪失を回避する願いなど許されるはずもない。

 それでも——。

 大地を失うことを恐れる気持ちから、宮本陸は、逃れられない。

 冷たい水底に足が届く。空気が張り詰め、静かに凍りつき、陸のもっとも恐ろしい側面が現出しかけて——。


「陸……。てめぇはもう、そうじゃねぇ、だろ……」


 陸の心に届く声があった。

 初めて二人が出会った、あの日のように。

「……大地」

 大地は陸の顔を見上げ、恭子もまた、伏せられた陸の顔を真っ直ぐと見つめていた。


「………………」

「………………」

「………………」


 三者が三様の緊迫感をもってその沈黙を紡ぐ。

「…………あぁ」

 どれほど重苦しい静寂が室内を支配したか。やがてそう答えた陸に、大地は安堵の頷きを返した。

「それで、いいんだ……。陸……、てめぇはもう、十分戦った。十分傷ついた……。この世の誰も、お前の罪を許さないとしても、だ。俺たちは、俺たちだけはちゃんと知ってるんだ……」

 だから、俺なんかのために戦わなくてもいいんだと、大地はその言葉を飲み込みつつ、自身の運命を口にする。


「俺は、死ぬ」


 その言葉に恭子が歯噛みし、陸の拳が震えた。

 他でもない、大地自身が一番に理解していることである。

 それはもちろん、その身に抑え込んでいるモノの狂気を誰よりも感じ取っているからに他ならない。

 その鬼毒が解放されれば、いったいどれほどの被害が出るか。大地には想像することさえ出来なかった。


 殺す、殺す、殺す、殺す、殺す。

 殺す、殺す、宮本、陸を、殺す、必ず、殺す。


 頭蓋に響く呪詛。

 それは、宮本陸を殺すモノだった。


 ——黙っておいた方が、いいな。


 情報の共有は重要だ。陸ならばその可能性にも辿り着いているだろうと考えながらも、大地はあえて、その鬼毒の正体を隠すと決めた。覚悟を決められる大地の心は、まだ折れてはいない。


 ——陸は誰にも殺させはしねぇ。コイツは、俺が連れて行く。


 魔除けの護符が機能しない、精神汚染を孕んだ鬼毒。

 大地の肉体が鬼毒に屈した時、その肉体は粉々に砕け散るだろう。

 あるいは、大地の精神が鬼毒の汚染に沈んだ時、大地は陸を殺すモノになるだろう。

 そして大地は、陸と、陸の中に封じられた彼女によって葬られる。

 その情景を頭に浮かべ、大地は身震いした。


 ——あぁ、怖ぇって思ったのは、久しぶりだな。


 だからその身震いは。

 陸にそんなものを背負わせるわけにはいかないという、恐怖からだった。


 ——死に場所を探すにしても、だ。どこで死んでも、こいつぁ俺一人の死では終わらねぇ。


 陸も理解している。大地を救うことを考えるよりも、大地をどこで死なせるかを考えた方が建設的だ、と。

 希望があるとすればそれは、大地の中に植えつけられた鬼毒が陸の足止めのために使われたものと考えられること、だけだ。

 陸は思う。


 ——そうであれば、条件次第では大地は救えるはずなんだ。


 その条件が自身の封印だったとしても、躊躇う理由にはならない。

 そうやって、二人の想いは交錯することもなく、近づくこともなく、どうしようもないほどにすれ違ってしまう。

 恭子は、そんな二人の無言のやり取りを見守りながら、由香理をゆっくりと、まるで壊れ物を扱うかのように優しく、横たえさせた。

 巻き込まれた石楠花の愛娘の不幸を思い、完全に復元された由香理の腕に言い知れぬ不穏を感じながらも、乱れた髪を整えてやる。

 綺麗な、本当に綺麗な髪だった。

 それはきっと、愛情の表れなのだと、恭子は思う。その髪に櫛を通す誰かがきっと、いたのだ。


 今はもう、いないのだとしても。

 きっと、いたのだ——。


 そして、恭子は再び陸に視線を向ける。

 嗚咽もなく、涙もなく、ただ静かに、陸は泣いていた。その表情に浮かぶ悲壮を、多くの者は当然の報いだと罵るだろう。

 ——陸。

 そこにいるのは、弱くて脆い、ただの人間だった。人の世を滅ぼそうとして立ち、多くを無慈悲に奪ったありし日の姿は影も形もない。


 ——あなたはそれでいい。引けない引き金を無理に引く必要なんて、もうないの。


 たとえ、それなしには太刀打ち出来ないような、途方もない相手であったとしても。

 本当にが再臨したならば、一歩間違えれば、大地と由香理はここで切り捨てられかねない。

 きっとそんな結果にはならないだろうと、恭子は思う。だが、陸の暴君としての側面は、その可能性を確かに孕んでいるのだ。


 唯一にして絶対。

 

 凄絶の——。


 その、かつての暴君をして太刀打ち出来ないであろう、モノ。

 神域の極地に立つ、呪術師——。

 どうしてこんなことになってしまったのかと恭子は考え、こんなことにしかならない理由が多すぎる、と思いなおす。


 ——私たちは、それだけのことをしたのだ。


 生を望まれていない。

 死んでくれていた方がいい。

 生きていてもいいという身勝手な自由はあれど、その自由を否定されるに足る過ちを犯したのだ。

 その結果が今であるならば、受け入れるしかない。

 ただ、その上で最後まで足掻くだけであり、足掻き方を間違えてはいけないだけだ。

 今や由香理はもちろん、大地さえも信用出来ない。由香理にまだなにかが施されている可能性も、大地に植えつけられたものが鬼毒だけであるという保証もないのだ。

 完璧な隠蔽呪術。

 大地を支えることさえ、陸にとっては危険なのだ。

 完全な形で暴君が再臨すれば、二人が切り捨てられる理由としては十分だった。

 故に、先手の対処を諦めるしかない。


 大地と由香理が陸に牙を剥くというのであれば、その時は——。


 だが、疑心暗鬼になってはいけないと、恭子は思う。

 疑うことと、覚悟することを一緒にしてはいけないのだ。

 それこそ敵の思う壺、抜け出せない袋小路に足を踏み入れかねない。すべてが罠であり、状況は敵の術中にあり、かくして〝不動の大地〟は破られたのだから。

 これから先もなにが待っているか、わかったものではない。内輪揉めで混乱を招いて得なことはなにもないだろう。

 状況はまだ終わってはおらず、大地は生きている。

 ならば、出来ることがまだあるはずなのだ。


 ——まあでも、今の私たちに出来ることはお迎えを待つってことくらいなんだけど。


 手がかりもなく闇雲に探して見つかる相手でもないだろう。情報を収集するにしても時間がなさすぎる上に、頼れる相手も少ないのが現状だ。

 まさか、ここまで用意周到に、手段を選ばずこちらの足を砕いておいて、このまま野放しにされるなんてこともないだろうと、恭子は思う。

 すべてを手に入れるための、完璧な筋書きだ。

 そして、陸の心を砕くという意味でも。

 宮本陸というたった一人を、捕らえるために‪──‬。

 そのためだけに石楠花は手折られた。その事実が消えることはけっしてない。

 ——ただ、この状況で〝凄絶の暴君〟を目覚めさせるつもりだったのだとしたら、失敗したわね、百舌。

 恭子は心の中でその名を口にする。

 外道の策士の名を。


 ——わかりやすいくらいに、嫌な策だわ。


 そうして恭子は、せっかく寝かせた由香理を抱きかかえて立ち上がると、陸と大地の元へと歩み寄った。

「……ぐっ。泣くなよ、陸。いや、泣いてはねぇ、か? まあ、なんだ……。そういうのはまだ早ぇみたいだ、ぜ?」

「……ああ、そうみたいだ」

 陸は立ち上がり、恭子は壁越しに気配を探っている。

「なんでもありね、これ。囲まれてるわ」

 結界を抜けられた感覚はなかった。知覚出来る範囲まで近づかれて、ようやく気づいた。

 結界を解くのではなく、結界に侵入者を悟らせない隠蔽呪術。


 ——石楠花由唯の気配殺しに匹敵する結界潜り。数は二十? 二十一? 接敵されて知覚出来たにしろ、数が正確に把握出来ない時点で練度は相当ね。しかも統率されてる。


 警戒に値する障害だ。

 恭子は、すでに片膝をついて起き上がっている大地の横に、由香理を寝かせた。

「頼んだわよ」

「任せろ、なんて言える状態でも、ないん、だが……。任せろ」

 恭子は笑みで答えつつ、「変なことしちゃダメよ」と釘を刺す。

「へっ……。てめぇこそヘマすんじゃねごがっ!!」

 大地が恭子の尻を引っ叩こうとして、しかしその手は届かず、代わりに大地の脳天に恭子の踵が振り下ろされていた。

「あとで殺す」

「いや……。ぐっ。……今にも死にそうなんだが……」

 そんな緊張感のなさに陸は思わず——。

 大地と恭子は陸のその表情を見逃さなかった。

 それを不謹慎とは思わない。そもそも不謹慎なのは二人の方なのだから。

「大地」

 陸がちらと由香理の顔を見ながらも、大地に声をかける。安らかにとは言い難い眠りではあるだろう。それでも、浅く上下する由香理の胸元には落ち着きがあった。

「助ける。

 陸が告げる。

 それは宣言であり、その絶対に含まれているのが大地だけではないことも、二人は理解した。

 だから大地は。

 痩せ我慢ながらも口角をあげ、溌剌な笑顔で応える。

 言葉は不要だった。

 親友に対してならば、それくらいが丁度いいと言わんばかりに。

 恭子はほんの少しの寂しさを感じつつも、口元をほころばせる。

 どのようなきっかけであれ、陸は立った。

 陸が使して戦う段階は遠いとしても。

「さてと、じゃ、やりますか」

 恭子が伸びをする。身体はしなやかに。されど心を引き締めて。

 敵襲だ。


   ◆


「ふふふ」

 呪術師は不敵に笑う。

 神域を超えた先に座す呪術師に、明確な名はない。

 彼には様々な名があり、そのすべてに意味などないのだ。

 生者でもなく、死者でもない。

 おおよそ考えうる限り人間的で生物的なもののすべてを、彼は遥か時の彼方に捨て去った。

 彼が立つ異界は、本来は結界と呼ばれるものが現世から切り離されて、一つの世界へと成り変わったものである。

 その異界は暗く、明るく、死であり生であり、何処でもなく何処でもあり、閉ざされているが開かれている。そこにはすべての矛盾が存在し、すべての矛盾が諍うことなく共存していた。

 ありとあらゆる呪具。ありとあらゆる狂気。ありとあらゆる呪詛。ありとあらゆる災厄と、ありとあらゆる吉報。ありとあらゆる可能性が渦巻く、彼が創り出した、呪術異界。

 その異界に、今は来客があった。

 呪術師の背を見つめるその男は、人が扱うには長すぎる、たった一本の得物を抱えて座している。

 その視線の意味を、呪術師は心地いいと感じていた。

 間断なく注がれ続ける、殺気‪──‬。

「ふふふ」

 と、呪術師は再び不敵に笑う。

 次の一手は、と‪──‬。

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