二章 怨嗟と紅眼、あるいは呪いの少女[三]
人間は弱い。
心があるから、弱い。
そして、心がないモノは強い。
無作為に無差別に無慈悲に殺して殺して殺し尽くす。そういうモノの強さを、陸は何度となく味わってきた。
退魔呪術の大家、その次期当主として祓った悪鬼は数知れず——。
敵にはなり得なかったモノもいれば、敵になり得たモノも、もちろんいた。心があるモノも、心のないモノもいた。
とりわけ心のないモノの強さは群を抜く。手段を選ばず、躊躇わず、過たず、機能としての殺戮のみに特化したモノの強さは、強弱に関わらず目を見張るものがあった。
純粋で洗練された、無駄の一つもない機能。
そこに悪はあったのだろうかと、陸は思ってしまう。
人の世に害を成す。ただそれだけで狩られる存在。
蜂は生きるために巣を作る。そこに悪意はない。だが、人はそれを悪と定義する。
それを理不尽と思わずにはいられなかった。
そんなことは間違っている、と。
存在するだけで多くの命を無慈悲に奪い続けるものを悪と定義するならば、人の営みこそが災厄ではないか、と——。
人の理屈など、どうでもいい。
だから、決めたのだ。
人の世を滅ぼすと。
あの日。
人の世を終わらせると決めた、あの日。
そのためだけの機能であることを自身に課した時、陸は人であることをやめたのだ。
大地からもらった心さえをも捨てると決めて、多くの命を無作為に無差別に無慈悲に奪った。敵を殺し、仲間を殺し、道行く人々の日常を容赦なく非日常へと突き落とし、殺した。
しかし——。
結果的に、陸は届きかけた人の世の終わりを手放した。
人の心を取り戻したなどと、生優しいことを言うつもりは陸にはない。
殺した数など、文字通りに数えてなどいないのだから。
大切だったはずの人を失って、初めて気づいた。
今は自身の内にいる彼女を失って。
自分はあまりにも多くの誰かの大切を奪ったのだ、と。
あるいは、ずっと気づかない振りをして目を逸らし続けてきた現実に向き合うことになったのだ、と。
その自覚とともに、身勝手にも、陸の心は粉々に砕け散った。
心があるから、人は弱い。
ずっと、そう思っていた。
違う。
弱かったのは、宮本陸という存在そのものだった。
人であるにも関わらず人であることを放棄出来たつもりになり、心があるにも関わらず心がないように振る舞い、そうやって強くあろうとすればするほどに、その心は硝子のように脆くなっていった。強くあろうとしなければ弱さが露呈してしまうことを、心の奥底では理解していたのだ。
陸は、立ち上がった大地の背中を見る。
あれこそ、人の心の強さの象徴だった。
その強さに、陸は敗北した。
鳥山大地という名の心に初めて出会った日、敗北したのだ。
そして今も、そんな心の強さに護られている。
鳥山大地と、江波恭子の背に、護られている。
護られる価値なんて本当はもうないのだと、陸はそう思いながらも二人の背中越しに由香理を見た。
「………………っ」
また、奪った。
石楠花由香理から、奪ってしまった。
大地はもちろん、恭子も気づいている。石楠花由香理が敵の手に落ちていた以上——。
——狙いは、俺だ。
石楠花はこの状況のためだけに手折られ、由香理はこの状況のために生かされたのだ。
では、なぜ由香理が選ばれたのか。
わからない。
その眼があまりに特殊だからだろうか。
きっとそうだろうと、陸は思う。
そこに、なにかしらの意味があるのだろうと推察する。
だとしても、陸の中には拭えない違和感があった。
石楠花由香理は選ばれたのではない。
石楠花由香理でなければならなかった理由があるはずなのだ。
この襲撃もまた、一見無意味に見えて、意味があるはずだった。
——やろうと思えば、大地の頭を潰すことだって出来たはずだ。
大地は心臓を失ったくらいでは死なない。そして、由香理に憑いている魔は大地や恭子の敵ではない。
意味があるとは到底思えない。それは、石楠花由香理が呪術師の配下を各個撃破せしめた奇跡を目の当たりにした時にも感じたことだった。
——なにが目的だ?
状況が見えない。だが、なにかが着実に成りつつある、そんな予感がある。
陸が由香理を救うと判断されていたからこその現状ならば、大地の負傷は確実に陸の責任だった。陸が由香理を見捨てていれば、こんな状況にはならなかったのだから。
陸は自身の動機を思う。
大切と言える間柄でもない彼女を、どうして生かしたのか。
憐みからだろうか。
それとも自身の滅びの可能性だからだろうか。
あるいは、由唯の意志を汲んでのことだろうか。
——わからない。俺はもう、そんな人間じゃない。
だか、一つだけわかっていることがある。
石楠花由香理はまだ失われてはいない、という事実だ。
石楠花由唯が望んだ未来を、まだ、掬い取れる可能性が残されているとするならば。
由香理から大切なものを奪った罪が消えることはないだろう。
それでも、なんらかの未来がまだ彼女には残されているのだとしたら、大地が立った理由としては、それで十分だったのだろう。
それとは別に、大地の怒りはもちろん陸のためのものだ。
陸に辛い思いをさせたという、怒りからだ。
そんな怒りは本来、お門違いなのだと陸は思う。
裁かれるべき立場の人間が傷つくことを憂うなど、それこそ、おかしな話なのだ。
──全部、俺のせいなんだ。
生きているだけで、誰かの命を奪う。
死んでいないから、誰かの幸せを奪う。
だったら、いっそ死んでしまえばいいのではないか。
死ねば、これ以上誰かの命を奪うこともない。
しかし、それが出来ない。
陸が死ねば、陸の中に封印された彼女が解放される。
そうなれば、陸が生きているよりも多くの命が奪われる。
それは、それだけは回避しなければならない。
心の底から、そう思っている。
であれば、追手から逃れるのをやめてしまえばいいのではないか。
陸を、陸の内に潜む彼女ごと滅ぼすことは不可能でも、封印することは可能だろう。陸の意志とは無関係に彼女がそれを許さないとしても、多くの犠牲の果てに、封印は成功する。
必ず。
それだけの戦力を、才能を、陸は知っている。
そして、彼女ごとその身を滅せる誰かが現れるまで、その時が来るまで、眠り続ける。
あるいは、永遠に。
もうそれでいいじゃないかと、陸は思う。
どうして逃げ続けるのか。
生きていていい理由は見当たらず、望まれているものは死だけなのだから。
陸の死を望む者たちにとって、現実は残酷で無慈悲だ。陸に大切な誰かを奪われた者たちは、陸が背負った少女の呪いがあるが故に、その復讐を果たすことも許されない。
個人の復讐を最優先に考えられるほどに、解放された彼女がもたらす災厄は甘くはないのだ。
だったら封印を受け入れればいい。たとえ陸に復讐心を燃やす者たちが納得出来ずとも、だ。そうすれば、陸が逃げ続けるよりも多くの命が救われる。
それだけは間違いない。
間違いない、のだ。
——あんな約束は、もう、忘れてしまえば。
忘れてしまえば、楽になれるのに——。
楽になるなど、望んでいいわけがないとしても。
だが陸は。
今だけはそんな現実から無理矢理に、目を背けた。
責任は、あるのだ。
石楠花由香理を生かした責任が。
石楠花由香理からすべてを奪った罪が。
気づいてしまったからには見過ごせない。
石楠花が手折られた、その原因を。
石楠花由香理に施された呪術が彼女の心を掌握するものだったならばと、仮定する。その仮定であれば、蒐集の鬼眼を手に入れた上で、こちらを抹殺することも出来たはずなのだ。
しかしそうはせず、こちら側に害を成す程度の呪術行使に留まっているということはつまり、敵の本命は由香理の眼にはないということである。
掌握する必要がないのか、掌握出来ないのか。
どちらにせよ、石楠花由香理はこの状況をつくり出すための駒にすぎないということだ。
石楠花の根絶やし、という過程を必然として——。
石楠花由唯が望んだことも結果だけ見れば同じだったとはいえ、これではまるで意味が違ってくる。
定まり、収束した運命は変わらなかったとしても。
石楠花由香理に、すべてを伝えなければならない。
それがどんな残酷な結果を招こうとも、生かした責任を背負わなければならない。
故に、陸は思考する。
感情を冷却し、自らの機能を限定し、集中力と言うにはあまりにも生ぬるい思考の光を高速に迸らせ、状況を分析し、精査する。
大地が由香理と距離を取った判断は正しい。
大地のそれはほとんど特異体質、あるいは突然変異のようなものだ。
魔を宿しやすい、体質。
あるいは、器。
破裂するはずだった風船が、許容量を遥かに超える空気を受け入れるために、自らの材質を、あるいは許容量を変化させた。
弾けない風船。
だが、〝巨躯〟を含む三鬼をねじ伏せたのは紛うことなく大地の独力であり、そして、大地の器にはまだ余裕がある。
恐ろしいことに、大地は理論上、無限に強くなる可能性を秘めている。容量限界のないハードなど空想の産物でしかない。現状で勝てないモノが相手ならば、その相手に勝てるモノを肉体に宿せば良いという破格の理屈が、彼の肉体には許されてしまったのだ。
故に、鳥山大地という存在は究極の牽制として成立する。
大地よりも強いモノは、大地をより強くする可能性を孕んでいる。
その可能性は、容易に無視出来るものではない。
しかし、その裏に潜む危険性を、陸はもちろん、大地も理解していた。
魔を宿しやすい体質。
宮本家が祓い切れずに封印するしかなかった鬼。
そんな鬼を三鬼も宿している大地が敵の手に落ちれば、少々では済まされないほど厄介なことになる。
そこが狙いだったかと陸は考えて、その思考は瞬時に破棄した。大地の精神力は、魔に易々と身体を明け渡すほどやわではない。
加えて、大地の肉体には、その体質を逆手に取られぬよう、特殊な護符が仕込まれている。
魔を宿しやすいが故に、肉体や精神、あるいは魂を掌握することに特化した魔が存在したならば致命的だ。
そのような事態に陥らないための魔除けが、大地の身体に同化させる形で馴染ませてある。
だから、大地そのものが敵の狙いだったとは考えにくい。
鳥山大地という鬼種は、退魔呪術の大家である宮本の総力が結集していると言っても過言ではないのだ。
その上で。
考えるまでもなく、由香理は救える。陸の思考はそこに至った上で、そちらの対処は大地と恭子に委ねた。由香理の腕が治癒した瞬間が勝負だ。
指示など必要ない。二人ならば必ず成し遂げるだろう。
だから考えるのは、敵のことと、この先のことだ。
全員で生き残るための思考だ。
この状況は、いつから仕組まれていたのか。
由唯と接触したのは、たったの四日前だ。由唯と接触する前から仕組まれていたのだとしたら、かの暗殺者さえも操られていた可能性がある。そんなことが可能かと問われれば、今はもう、容易に可能だと答える他はなかった。
完璧に隠蔽された呪術が、その証左だ。
宮本家の次期当主、その歴史上もっとも優れた呪術師となるだろうと目された才をして、この呪術師の技量は、異常だと言わざるを得ない。
神域、などという言葉は軽々しく使ってはならないが、それ以外の言葉が見当たらなかった。
その思考に、陸は、額に汗を滲ませる。
呪術師の極地。
神域の呪術師に、陸は心当たりがあるのだ。
しかし、だからこそ不可解だった。
大地がその思考に至ったのと同じく、陸もまた同じ疑問を抱いていた。どうしてこのような回りくどい呪術を行使する必要があるのだろうか、と。
狙いが陸なのであれば、陸を直接攻撃することも可能だったはずだ。
陸を呪術で縛る。あるいは、殺す。
陸の中で眠る彼女がこの世界をどうしようとも、そんなことは関係がないと考える敵、あるいは復讐者がいても、なんらおかしくはない。
万単位の死者が出ようとも、それは人類の滅亡ではないと考える為政者もいるだろう。
思考に沈む意識の隅で、陸は由香理の腕を見た。
その腕が、完全に復元されようとしている。常軌を逸した治癒能力だ。
呪術が発現した条件は、由香理から他者への接触で間違いない。
だがしかし、そんな偶発的な条件であれば、発現の時期はいつでも良かったということになる。
だからそれは、違う、と陸は思う。
かつて呪術師であった陸の感が囁いている。
これは、なんらかの意味がある呪術だ。
もっと条件があるはずだ。
——由香理から他者にではなく、由香理から大地への接触。
であれば、発現の時期はいつでもよかったのだろう。それが今ではなくとも、だ。
あるいは、すでに状況は整っていると取るべきか。大地の性格を思えばごくごく近い未来に、力こぶでも作って由香理に触らせていたはずだ。
由香理から大地への接触が発現の条件だとするならば、狙いは大地の無力化ということになる。
しかし、大地は心臓を潰されたくらいで完全に無力化出来るような存在ではない。この呪術師ならば、それくらいのことは重々承知しているはずなのだ。
しばらくの間は行動に制限が出るだろうが、致命的な結果になるとは──。
そこで、思い至る。
二十七秒。
それは、大地が心臓の再生に要する時間だった。
陸は、大地と共にある以上、戦略的なものも込みで、その時間を無意識下で測れるくらいには把握し、熟知している。
改めて陸は由香理の腕を見た。腕が完全に完治する時間の目算は、大地の心臓が完全に再生する瞬間と見事に一致する。
そんな偶然があるだろうか。
鬼種である大地の無力化が目的ならば。
そんな方法がもしも存在すると仮定するならば。
大地の中には、まだ魔を宿すだけの余裕がある。
——まさか、この呪術の目的は。
「大地っ」
二十七秒の思考の果てに発せられた陸の叫びは、しかし。
どうしようもなく手遅れを意味していた。
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