二章 怨嗟と紅眼、あるいは呪いの少女[二]

 鳥山大地という鬼種の思考回路、そして精神性は常人には理解し難いものだった。品はなく素行も荒い。かと思えば殺すつもりだった女のために座布団を買ってきたりもする。馬鹿であることは間違いないのだが、戦闘従事者としての実力、思考は一級のそれであり、たとえ相手が格上であったとしても遅れを取ることはなかった。

 とりわけその精神性は群を抜く。心臓を潰されて死なない鬼種は数おれど、完全な平常心を保っていられる鬼種はそうはいない。

 それは一重に、鳥山大地が積み重ねてきたものの重みが違うからこその結果とも言えた。

 鳥山家は代々、退魔呪術の大家である宮本の守護を司る家系だった。

 そんな鳥山家の次男として生を受けた大地は、どういうわけか極めて虚弱な肉体をもってこの世に産声をあげることとなる。骨は細く、肉も薄い。おおよそ戦闘を担う者の骨格を持ち合わせてはおらず、鳥山の屋敷から出ることさえ許されなかった。

 ただ生きることだけで精一杯、陽の光を浴びて遊ぶことさえ困難だったのだ。

 恵まれなかった肉体とは裏腹に勝ち気で気骨に溢れた性格ではあったのだが、それがまた彼の両親を悩ませることになる。

 よく言えばやんちゃ、悪く言えば自殺行為に自ら向かっていく無謀な性格で、夏に川で遊びたいからと家を抜け出し、道中で暑さにやられて倒れるような子どもだった。

 故に半ば軟禁生活のような、大地にとってしてみればつまらない生活を送ることを余儀なくされていた。

 そんな大地に立つはずのない白羽の矢が立ったのは、大地自身がその道を望んだからでもある。

 正確には、大地自身が、白羽の矢を無理矢理に立たせたのだが。

 どこまで大地が自覚的だったかはわからないにしろ。

 大地は確かに、自身の歩むべき道を、自らの意志で選んだのだった。

 大地が七歳を数えた頃のことである。

 鳥山家長男、鳥山太一が再起不能に陥った。

 鳥山家の男は物心つく頃には宮本家に引き取られ、規定の役目を終えるか死ぬかのどちらかを満たさない限りは、本家に帰ることも許されない。虚弱の大地はその例外であり、だからこそ彼は、実の兄の顔も姿も目にしたことさえなかった。

 そんな兄が、文字通りの廃人になって本家に帰ってきた。それもまた、ある種の例外だったと言えなくもない。

 自身より三つか四つほどしか歳の離れていない少年が、うわ言のようになにかしらを呟いては怯えているその様は、幼い大地にとってしても異様のそれだった。

 きっかけは些細なことであり、馬鹿馬鹿しいと嘲笑う者もいるだろう。

 太一は陸の目の前で、雀蜂の巣を面白半分に壊して見せたのだ。


 それだけ、だった。


 軒先の巣はどちらにせよ駆除されていたろう。だが、その面白半分を許せなかった者こそが、宮本陸である。

 宮本家に産まれ落ちた、魔性にして天才。

 太一は、稀代の天才たる宮本陸にはどう足掻いても釣り合わなかった。宮本陸の魔性に並び立つほどの器を持ち合わせてはいなかったのだ。

 結果的に——太一と陸の間にどのようなやり取りがあったのか、どのようながあったのかはわからないにしろ——鳥山太一は、再起不能となった。

 顔も見たことがない実の兄など、血が繋がっていようともほとんど赤の他人も同然である。しかし、そんな兄の異様な姿を見て、大地はこう思った。

 こんなことは間違っていると。

 人を、こんな風にしていいわけがない、と。

 幼さ故に、具体的な言葉や意味を伴っていなかったにせよ、確かに大地は、そう感じた。それは正義感というよりも、大地の逆鱗に触れたという方が正しかったかもしれない。


 ぶちのめしてやると。

 思ってしまったのだ。


 だから大地が、宮本陸と相見えるために鳥山の屋敷を抜け出したのは、必然だった。定めだった。

 はたして、陸と対峙した大地は——。

「帰れ。ここは、お前の居場所じゃない」

 そう、言葉を投げかけられた。

 ひどく大人びた、大地から見てもとても同い年とは思えない、冷たく凍えるような声音の少年だった。

 大地は今でも思い出すことがある。

 あの威圧、あの絶対、あの凄絶を。

 生物としての次元が違った。

 木陰に座し、小鳥を肩や指にのせた陸は、大地に居場所すら与えるつもりはなかった。小鳥と戯れているという、そのどこか牧歌的な少年の姿と、言葉にのせられた拒絶の意思の対比に、大地は心臓を握り潰されるかのような悲壮を感じ取った。


 ——なんだこいつ。友達、いねぇのか?


 正確には、人間の友達がいないのか、と。

 そんなことを漠然と思った。

「うるせえ、俺はお前に用があるんだ」

 大地の言葉に陸は、ともう一度、にべもなく告げ、その言葉に含まれた絶対を、魔性を、大地は真正面に受け止めた。

 真っ向から対峙し、受け止めてしまった。

 あまりの痛みに唇を噛み切る大地が、そこにはいた。食いしばった奥歯は砕け、大地の瞳からは滝のように涙が溢れ出していた。

 帰れと命じられた脚が踵を返そうとして、それでも大地は、陸にのだ。

 大地の足元から、骨が砕け、肉が捩じ切れる音が響く。

 くるぶしが、膝が、のだ。

 踵を返そうとする下半身を押さえつけ切れずに、大地の関節は百八十度後ろに捻じ曲がっていた。


「へへっ、ぜんぜっん大したことねぇ、な、お前……」


 それはきっと痩せ我慢だった。

 それでも、鳥山大地という少年は陸を前に引き下がるどころか、関節を自らの意思とは無関係に、しかし、確かに自らの力で捻り潰してなお、のだ。

 それは、七歳の少年が持ち合わせているはずもない精神力であり、そしてきっと、鳥山大地の声は、宮本陸に届いた初めての他人の声だった。

「お前、なんだ……」

 そう問うた陸の表情は、信じられない生き物と遭遇したというような……。呆気に取られたとも、気圧されたとも違う、あるいは泣いているかのような、そんな表情をしていた。

 は、彼の両親を除いて、鳥山大地が初めてだったのだ。

「俺は、鳥山大地だ……」

「なにをしに来た」

「忘れた」

「馬鹿か?」

「馬鹿じゃねぇ!」

 こいつは正真正銘の馬鹿だと陸は思った。人を人と思えず、人に価値を見出せぬ魔性の少年にとって、目の前の馬鹿は馬鹿と定義するに値する馬鹿だった。

 その日初めて、陸は、その良し悪しはどうであれ、他人を評価した。それは陸が初めて他人に興味を持ったと同義であり、初めて視界に〝人〟が映ったと言っても過言ではなかった。

 陸は立ち上がり、大地に歩み寄る。その陸の行為はきっと、それまでの陸しか知らない者から見ればほとんど奇跡のような光景だった。

 帰れと言っただろうと呟きながらも、大地をその場に寝かせ、簡易的な治癒呪術を施す。それは陸が人間に対して初めて見せた、優しさだった。

「お前、なにしに来た」

「何回もおんなじこと聞くなよ、馬鹿が……。そんなことどうでもよくなって忘れちまった……」

 馬鹿に馬鹿と言われて心穏やかにあれるほど、当時の陸は寛容ではなかったが——。

 他人を救うという気持ちが心からすっぽりと零れ落ちていた陸にとってしてみれば、治癒呪術などは習得に値しない、あるいは習得を後回しにしてもよい呪術だった。だがそれでも、陸は全力で大地に対して拙い治癒呪術を施し続けた。

 失血に意識が沈みかけている大地を背負い、陸は駆け出す。そのあまりの軽さに、陸は驚愕した。他人を背負ったことなどなかった陸でも、その異常なまでの軽さが普通ではないということくらいは理解出来た。

 戦場に出れば死ぬしかない。そんなか細い少年が、奥歯を噛み砕くほどの痛みに耐えながら魔性の子を単身で打倒したなどと、誰が信じようか——。

 陸はこの時、初めての敗北を味わった。もちろん、戦えば陸が勝つ。だがその敗北はもちろん、そういう意味ではなかった。

 そして陸は、自身を負かした相手を救おうとした。

 その感情の名を焦りと呼ぶことさえこの時の陸は知らず、人間に対して死なせたくないと思ったのは、それが初めてのことだった。自分の言の葉が通じなかった少年を、心の底から死なせたくないと思ったのだ。

 孤独だった。当時の陸は否定するだろう。

 孤独だった。現在の陸は肯定するだろう。

「けどあれだ。あぁ……。お前……」

「喋るな」

「友達……、いないだろ……」

「喋るなと言ってるだろ」

「俺に命令するな……。だから……」



 ——俺が、友達になってやるよ。



 それが二人の出会いだった。その後、奇跡的に目覚めた大地が「俺、そんなこと言ったっけか?」と言って陸を唖然とさせた後日談は省くとしても、である。

 その日から陸は変わった。制御する気のなかった自身の魔性を操る術を得ようと必死にもがき、天才故に治癒呪術をすぐに習得してみせて大地の面倒を見もした。

 それはきっと、初めて出来た友達のためであり。

 そして大地は、友達として陸のそばにあるために、鬼種となる儀式を受けることを選んだ。

 大地が八歳の頃のことである。

 強くあらねば、宮本陸のそばにはいられない。

 だが、虚弱の大地が鬼を降ろす儀式に耐えられるはずがなかった。

 宮本陸に打ち勝った鋼の精神力を持ってすれば、というささやかな期待も、なくはなかったが。

 実際のところ望みなどは塵の一つも有りはせず、だからその期待は文字通りの万に一つだった。

 鬼を抑えつけるための呪を施した包帯を全身に巻かれて、一度ならず何度も、大地は死んだ。その度に大地は息を吹き返し、脳髄が針のむしろにされるような激痛に絶叫する。

 大地の肉体を奪おうとする鬼の意識が、大地の肉を荒ぶらせて内側から皮膚を裂く。肉体が壊れぬよう、鬼は大地に超人的な再生能力を与え、同時に死を体験させる。そうやって大地の心を砕き、受肉を図ろうとする。

 その地獄のような苦痛を、死を、何度も何度も何度も何度も繰り返させるのだ。

 多くの者は、鬼が与える再生能力では庇い切れず肉体的に死ぬ。その段階を通り越せたとしても、繰り返される死に精神が摩耗し、自我を失って、鬼が受肉する前に見届け人によって処分される。

 故に、儀式からの生還率は、体力気力ともに並々ならぬ強靭であったとしても、著しく低い。相手は人でなく鬼である。人が独力で鬼に打ち勝つということはつまりそういうことであり、その地獄そのものの苦痛を乗り越え、鬼の精神を支配出来た者だけが鬼種となれるのだった。

 あまりにも狭すぎる門——。

 だが、大地は耐えた。

 それも三度も。

 大地が陸に並び立つためには、三度の儀式が必要だったのだ。

 最も大地の肉体に馴染み、大地の生命力の源となっている鬼、通称を〝巨躯〟。

 肉体の変性、特に大地は硬化に用いているが、本来は自らの血液を、毒や、毒に対する抗体に変性させることに特化した鬼、〝灼毒童子〟。

 そして、鬼であるが故に人を喰らうは道理。喰らった人の肉を呪力に変換する人喰いにして暴食、〝貪食鬼〟。

 二度までの成功例は、確かに存在した。しかしそれは、右と左、表と裏といった区切りをつけてのことだ。

 鬼を降ろすという憑依呪術に限らず、区切りは非常に大切な条件になる。明確な始点と終点、此処から何処まで、彼方から此方まで。条件を設定することにより術式はその強度を増すのだ。

 その条件を無視し、つまりは全身という区切りをもって三鬼もの鬼を降ろした鳥山大地は、人の身でありながら、非常識の塊であった。一度目の儀式で強靭な肉体を持つ〝巨躯〟を降ろしたからと言って、それが理由にもなりはしなかった。

 本来、ごく一部の例外を除いて、鬼は群れない。そんなモノを身体の内に三鬼も宿すということは、即ち、悪臭漂うヘドロを何度ぶち撒けられようともけっして染まらぬ純白の精神を意味していた。


 他者からの影響を受けない、確固たる自我。

 そして、同居する矛盾を許容する心の有り様。


 殺すと決めた女に、座布団を買って来る。

 殴り込みに行った相手と、友達になろうとする。

 殺すと決めた気持ちはそのままに優しさを見せ、兄に振われた仕打ちを許さずに友達になろうとする。

 そんなあやふやで真逆でけっして相入れない感情が共存する心こそが、鬼という名の強大な自我を一纏めにしてしまうという奇跡を起こさせたのかもしれない。

 もちろん、鋼の精神力あってのことではあるのだが。

 かくして大地は、その身に三鬼もの鬼を宿すという、他に例のない、類い稀な鬼種となった。

 その肉体に鬼を完璧に馴染ませた上で、大地が本格的な鍛錬を積み始めたのは、九歳の頃である。

 まだまだ幼い大地がまず行ったことは、自らの手で心臓を握り潰すという、狂気の沙汰としか思えない所業だった。

「死んでも死なないだけなら、意味がねぇ」

 鬼種となるための儀式を受けることを望んだことに次いで、やはり、九歳の少年が選択する道とは到底思えないものだった。

 痛みに耐えること。

 平常心を保つこと。

 そして、可能な限り速やかに戦闘に復帰すること。

「心臓を潰してから再生するまでは三十七秒だな。加えて心臓を再生させるには相当な体力を消耗する。戦闘への復帰は三分かかるだろうし、たぶんそれ以上の短縮も難しいだろうな」

「なら三十秒を目指すだけだな。にしても三分ってのは致命的じゃねぇか?」

「普通に考えればそれでも異常だぞ、大地。それよりも心臓を潰された状態で何時間生きていられるかも試しておいた方がいいかもしれないな」

「なるほどな。なら今から試すか」

 そんな二人の会話が、宮本の屋敷の日常だった。

「あんたたち、ちょっと頭おかしくない?」

 そんなことを指摘しながらも止めはしない少女の声。

 それは、大地と同じく宮本の屋敷に迎えられていた、江波恭子の声だった。

 そんな三人の会話に宮本の使用人たちは畏怖を感じずにはいられなかったが、少なくとも陸は、孤独ではなくなっていた。

 主と従者という間柄ではあったが。

 かけがえのない友達が出来たのだから‪。

 はたして、〝不動〟と呼ばれる至った大地は、陸の予想を遥かに上回る力を身につけた。

 心臓の再生能力は三十秒を切り、心臓を失っても三時間は生きていられる強靭な生命力を手に入れた上で、その鬼種としての力は未だに進化し続けている。

 故に、〝不動〟は揺るがない。揺らぐはずがない。

 戦いがあれば、誰もが自身の死を心のどこかでは覚悟している。

 だが、鳥山大地が死すことがあろうとも、彼が膝を折ることはない。そんな可能性は万に一つもありはしない。


 ——そう、誰もが信じていた。

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