一章 鬼種の眼[十一]

 鳥山大地にしてみれば、この状況は良い悪いで言うと、悪い方であった。

 それも最悪だ。

 最悪というのは、慣れないはずの由香理が、海苔の一片さえも欠かさずに包装を破いていくからではない。いや、それもある。俺よりうめぇじゃねぇかと、心の底では打ち拉がれている真っ最中だった。

 石楠花由香理を殺すべきだと強く陸に進言したのは、他でもない、大地だった。

 大地は昨夜、陸と恭子とは別れて、退路を確保していた。そこに傷だらけの由香理を抱えた恭子と陸が戻ってきた。

 森に拡がる只ならぬ殺気と火の手の気配に、状況は察しがついていた。なんかヤバイことが起きている、程度には。

 殺すべきだと言い、由香理の首を折ろうと陸の制止を振り切って飛びかかったところを、恭子に組み伏せられた。

 その時点で、大地は引いたのだ。大地がその気になれば、恭子を引き剥がすことなど造作もなかった。

 由香理の今後を憂いてのことでは、けっしてない。優先順位の問題だ。由香理とともに行動すれば、陸に危害が及ぶ可能性が非常に高い。


 ——それだけは、絶対に回避しなけりゃならねぇことだったはずだ。


 恭子だって想いは同じはずで、そこに疑いの余地は、塵の一つもない。

 恭子は陸の指示に絶対に逆らわないだけで。

 あれは、陸に死ねと命じられれば死ぬ女だ。

 その点においては、大地も大して変わらないのだが

 しかし。

 しかしだ‪──‬。


 こんなに楽しい飯の時間は久しぶりだとも思う。

 三人だと、こうはいかない。

 なんだか、昔に戻ったみたいだった。

 恭子は何故だか呆れているようで。

 陸はこちらを気にしつつも、何事か考えているようだった。

 それでもだ。

 空気が違うのだ。

 いつもとは、決定的に。

 パリッと、小気味良い音が響いた。

「どうだ、美味いか?」

「美味しいです。この、つなまよ、というものは初めて食べますが、不思議な味ですね。でも、美味しいです。このお米も、私が食べていたお米と随分違うのですが……」

 加工の段階で塩気が含ませてある上に、化学調味料や防腐剤などにまみれた米だ。由香理がこれまで食べてきた米とは、まったく違う味だろう。

「やはり、お米が違うのでしょうか?」

 その一言に恭子が思わず吹き出してしまった。コンビニのおにぎりにそのような感想を述べる由香理は、確かに、どうしようもなく世間知らずなのだろう。

「ごめんなさい。他意はないのよ」

 見れば、陸の表情も少し綻んでいるように見えた。

 陸のそんな表情を最後に見たのはいつだっただろうと、大地は考える。六年前か、あるいはもっと前だったろうか。

 以来。

 陸の表情からは、痛々しさ以外の変化は消え失せてしまった。

 殺してくれと頼まれれば、それが陸の頼みとあらば、いつでも殺してやると大地は思っている。

 しかし、現実問題として、大地が陸を殺せるかどうかはまったく別の問題でもあった。

 陸に死ぬ気があったとしても、どうにもならないだろう。

 大地には突破出来ない。

 もしも突破出来る者がいるとすれば、それは、きっと鬼神かなにかだろうと、大地は思う。

 陸が背負っている呪いは、そういうものだ。

 だから、宮本陸が死ぬなどという非常識は、万に一つくらいの可能性しか有り得ない。それ故に、大地は由香理の同行を許したのだ。

 それでも拭えない、不穏。

 あるいは、石楠花由香理の鬼眼こそが、その万に一つの可能性ではないのかと。

 そもそも、陸と、大地と恭子は、すでに道を違えているようなものなのだ。

 陸は、自身の滅びを心の奥底では望んでいる。

 二人は、そんな陸であっても護りたいと思っている。

 故に、双方の間に深い溝が存在するのは当然のことだった。終着点がまったく違うのだから。

 陸に死んでほしくないという気持ちは、二人の願望でしかない。

 そして、本来ならば、陸が誰かに護られる理由など、どこにもないのだった。

 陸の中に封印された、宮本陸を殺させんとする、自らの意志を持った防衛機構。それは、陸に降りかかるすべての災厄から陸を守るだろう。

 守り切る、だろう。

 だから、二人の今の存在意義は、その防衛機構を働かせないことに集約されているといっても過言ではない。

 陸の背負った呪いは、陸の心を酷く掻き乱す。擦り減らし、砕き割る。

 故に、大地が護り、恭子が戦う。

 もしも石楠花由香理の眼が陸の滅びたり得るならば、陸の中の呪いは全力をもって由香理を滅ぼそうとするだろう。戦いの余波がいったいどれほどの呪いや悲しみを生み出すかは、想像さえ出来ない。

 しかしそれは、あくまでも、石楠花由香理の力が陸の背負った呪いに比肩しうるものであったならば、という話だ。

 由香理の力が足りなければ、由香理一人が無慈悲に死ぬだけだ。

 それは陸にとって、今度こそ致命的な傷となる。そうなれば、陸は自ら呪いを解放し、災厄をもたらすかもしれない。

 それは、周囲どころか人の世さえ巻き込むだろう究極の自殺であり、止めなければならない大災害だ。


 自分を滅ぼせる可能性があるから、生かしたのか。

 生かしてしまったからこそ、その可能性を無視出来ないのか。


 前提がどちらにあるにしろ、である。

 もしも陸が、由香理にそんなものを背負わせようとしているのであれば、命に代えても主の間違いを正すことこそ、真の忠義ではないかと大地は思っていた。


 それはかつて、鳥山大地が成し得なかったことであり——。

 止められなかった。

 破滅へと向かう陸を。

 後悔は、海の底よりも尚、深い。


 もちろん、陸が自身の滅びたり得るという理由を一番に置いて由香理を助けたのではないということは、理解している。

 しかし。

 いつか陸が、自身の滅びを由香理に託そうとするのであれば。

 そんな可能性があるとするならば、いっそ──‬。

 

 ‪──‬こんな細っこい首。


 米が違うのかと言った由香理の、首をちらと見る。

 しかし、見るだけだ。

 こうして話してみるとわかる。

 恭子が由香理の同行に賛成した意味が。

 伝え聞くに、石楠花由香理にとってあの屋敷の惨状は、まさに地獄だったはずだ。

 その地獄を生き残った。


 ‪──‬馬鹿だからな、俺は。


 陸のことになると頭が回るくせに、肝心なところを見落としてしまう。

 この、見るからに弱そうな女は。

 気丈で、痛々しくて、きっと心の中では今も泣いているのに‪──‬。


 とても、強い。

 悲しくなるくらいに。


「ははっ!」

 大地は吹っ切れたかのように笑ってみせた。

 由香理が首を傾げるが、構いはしない。

「そうだぜ! なんたって米が違うんだ。魚沼産のコシヒカリだぞ? 知ってるか?」

「い、いえ、すみませんが存じ上げません……」

「なにも謝るこたぁないさ! 知らねぇならこれから知って行けばいいだけだ! なぁ陸!」

 その言葉に、陸は驚いているようだった。いつも能面みたい顔をしている陸がだ。

 こうして、変化はすでにあるのだ。

「……そうだな」

 と、陸は答えて、

「これから、知っていけばいいさ」

 そう、付け足した。

 今後の方向性は、少なくともこちら側の方向性は、これで決まったのだろうと、大地は思う。

 この先どんなことがあろうともケツは俺が拭くと、心に誓いながら。

 あとは由香理がどうしたいか、だ。

「だよなぁだよなぁ!」

 大地が心底嬉しそうにおにぎりにかぶりついて。

「げほっ!」

 そして咽せた。

「だっ、大丈夫ですか!?」

 由香理が大地の背中に手を当て、介抱しようとする。

「げほっ! 茶はっ、ごほっ! 茶はねぇのか!?」

「やっぱり馬鹿なのね。おにぎりしか買って来なかったのはあんたでしょうに」


 そして、瞬きの間に。

 由香理の手が、大地の胸を貫いた。

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