一章 鬼眼の眼[九]
見晴らしが良いとは言えなかったけれど、外気に触れるというのはとても気持ちのいいものだと、由香理は思う。
なにより、見知った緑が見えることが由香理には嬉しかった。
石楠花の屋敷を囲う森とは違うとわかっていても、森の匂いが、ひどく懐かしく感じられる。
きっとあれは昨日の出来事で、だから昨日まで、森に囲まれて暮らしていたのに。
それなのに、ひどく懐かしくて、また涙が溢れそうになる。
「冷たいけど、いい風ね」
確かに冷たい風ではあったけれど、強くもなく弱くもなくて、涙で腫れた瞼にはむしろ心地がよかった。
「今夜は雨かしら?」
空を見上げれば、西と思われる空に雨雲が見える。屋敷はまだ燃えているのだろうか。だとすれば、この雨が屋敷に静けさを取り戻してくれるだろうかと、そんなことを考えた。
燃え盛る炎はもう見たくなかったけれど、雨に濡れて鎮まったあの場所になら寄り添える気がした。
父や母や、皆を弔ってあげなければならない。
——もちろん、私が殺してしまった人たちも。
きっと安らかな気持ちにはなれないだろうけれど。それでも、その気持ちは偽善ではなく本心だった。
これからなにをどうすればいいのかわからない、そんな私にもやりたいことが出来たと思うだけで、ほんの少しだけ気持ちが楽になる気がした。
父や母が願ったように、生きようと思う。
けれども、生きていていいのだろうかという不安が拭えない。
だから、尋ねようと思ったのだ。
——私のことを。
「江波様、ですよね」
「そ。江波恭子。でも江波様ってのはよしてほしいかな。恭子って呼んでくれる? 呼びにくかったらさん付けでもいいわよ」
「では、恭子さん、と……」
人の呼び方を訂正されたのは、今日だけで二度目だと思った。
「うんうん、上出来上出来。で、なにか聞きたいことがあるのよね?」
恭子が屋上の手すりにもたれかかる。
なにもかもお見通しなんだと思いながらも、尋ねやすい状況を作ってくれたことに感謝した。
ふと。
私は、彼の名前を一度も呼んでいないと、思った。
「? どうしたの?」
「いえ、なんでもありません」
真っ直ぐに、恭子の眼を見た。
「私にはきっと、難しいことはわかりません。だからたとえ説明不足だとしても、端的に、必要だと思うことだけを答えてほしいと思います」
「わかったわ。正しい判断ね」
「私は、なんですか?」
「鬼種よ。鬼と書いて、種類の種」
「鬼種とは、なんですか?」
「身体に鬼を宿す者」
「私の場合は、眼ですか?」
「間違いなく、ね」
「この眼は、私の家族よりも価値のあるものですか?」
「でしょうね。きっと国だって買えるわ」
——国。
それが共同体の単位であることはわかっても、外の世界を知らない由香理にとっては、ただただ絶句するしかない、途方もない大きさだった。
「この眼はよくないものですか?」
「よくないものね。ちなみに、あなたのお父様はその眼のことを蒐集の鬼眼と呼んでいたわ」
──蒐集の、鬼眼。
「あれは……。昨日の出来事ですか?」
「そうよ」
蹴りつけられた腹部をさする。感じる空腹。そして、傷がほとんど完治しているという異常。
「怪我が治っているのは、私が鬼種だからですか?」
「それは、多分ね、としか答えられないわ」
「私は人間ですか?」
「厳密には違うわね」
「そうですか……」
「そうよ」
由香理の言葉が途切れた。
「由香理と呼んでいいわよね?」
「はい……」
「ありがと。じゃあ由香理。あなたはそれでもきっと人間だわ」
「どうして、ですか?」
「分類なんてどうでもいいじゃない。それに、鳥だっていろんな種類がいるでしょ。だから、人間の中にあなたみたいな人がいても、私はいいと思う。私、おかしなこと言ってる?」
「わかりません……。でも、信じてみたい、とは思います」
「信じていいと思うよ。私はもっとずっと人間じゃない奴をたくさん見てきたから」
「その人たちは、どうなったのですか?」
「死んだ奴もいるし、生きてる奴もいる。いつか街を案内するわ。人の面だけ被ったクズがうじゃうじゃいるから」
「それは……。少し楽しみなような、怖いような」
「無理にとは言わないわ」
「ありがとうございます」
それも一つ、今後の目標にしようと思った。
「いい人も悪い人も、人は、たくさんいるのですか?」
「いるわね。こんな場所でもない限り、人人人、人だらけ。ざっと七十億人くらいはいるんじゃないかしら?」
「なっ、七十……億?」
「想像できないでしょ」
「はい」
「ちょっと殺したくらいじゃ減らないから安心してね」
「そんな風に言われると、とても困るのですが……」
「気にしないでいいってことよ」
なんだかとても軽いが、どうやら私は気遣われているらしい。
「……私は、生きていてもいいのでしょうか?」
「それは、あなた自身が決めることね。でも……」
「でも?」
「陸は、あなたを守り通すつもりだわ」
そうして、恭子が指で手すりの外を指した。
手すりに近づき、指された方を見下ろす。
そこに、彼が立っていた。その背中をただただじっと見つめる。
「…………っっっ」
次の瞬間、背筋が凍りつくような悪寒が走り、その場にへたり込んでしまった。
「大丈夫?」
恭子は由香理に手を差し伸べ、由香理もその手を取った。
「ありがとうございます」
「いいのいいの、気にしないで」
「……さっきのは、なんですか?」
立ち上がった由香理は、おそるおそる手すりを握り、森に向かって立ち尽くしている陸を見た。
「言ったでしょ。陸はあなたを守るつもりなのよ」
「だから、よくないモノを追い払った。それだけ。あなたの眼を狙っているのは、なにもあの男だけじゃないってことね」
——あの男だけでは、ない。
すべてを奪った、きっと、張本人。
手すりを掴む手のひらに、力がこもる。
——人並みの幸せを望めないと、陸さん言いました。
それはつまり、見知らぬ誰かから狙われる人生を送らねばならない、ということだった。
それもまた、由香理が恭子に尋ねたかったことの一つだった。
私は、これからいったい誰を信じ、どのようなものから身を守れば良いのだろうかということ。
よくないモノというのは、きっと、眼には見えない者たちのことだろうと、由香理は思う。死に寄り添ってきた由香理は、その存在を、悪意としてではなかったにしろ、確かに感じたことがあった。
守られていたのだろうかと考え、きっとそうなのだろうと思う。
由香理には知る由もなかったが、石楠花の屋敷は、悪意あるモノを近づけさせないような、特殊な場所だったのだ。
「これから、私はどうすれば……」
「守ってくれるわ、これからもずっと。陸が、ね」
その言葉に驚いて、由香理は恭子の顔を見た。
「そんなに驚くことかしら?」
恭子が首を傾げる。
「私が知っている陸ならそうする。それだけのことよ」
そう言い切る恭子の表情に、由香理は違和感を覚える。誇らしさと、悲しみに似た寂しさのような、そんな感情がない混ぜになったものの上から、無理やり微笑んでいる。
この人は──。
由香理はなにも言えず、再び陸の背中を見た。
「……陸さんは、なぜ私を殺さないのですかという問いに答えてくれませんでした。だから私は、迷っているのだと、取りました」
「迷っているとは思うよ。だって、陸があなたを守ることと、あなたの幸せはけっして同義とは言えないから。でも、陸はきっとあなたを守る」
「絶対にね」
絶対。恭子の心情を思えば、それは重すぎる言葉だ。
この人は、陸さんのことが好きなのだろうと、そう思った。
由香理の世界は小さかったから、恋愛の機微についてはあまり大きなことを言えなかったのだが。
——お父様とお母様は、通じ合っていました。
それを思うと、世界が滲みかける感覚を覚えて、咄嗟に涙を堰き止める。そして、誤魔化すかのように思考を別の方向へと向けた。
生かしてしまったと、陸は由香理に言った。
私のこれからの人生は、昨日までのそれとは違う、ということだ。
戦いのある人生。
また殺さなければならない、かもしれない。
いや、きっとそうなるだろう。
その果てに、やっぱりあの時、殺してくれたらよかったのにと、言葉にしてしまうかもしれない。
その言葉は、きっと彼をひどく傷つけるだろう。
彼は──。
なんと伝えればいいのだろうかと考えて、ありのままの言葉で伝えようと決めた。
「……陸さんは、なにかに傷ついている、のですか?」
「そうね」
肯定だけだった。なにに、ということを知ることがあれば、それはきっと、彼の口から聞くべきことなのだろう。
彼自身の言葉で。
「それは、戦えないほどにですか?」
「そうよ。でもきっと、陸はあなたのためならば戦うわ」
重い。
「私もね、陸には戦ってほしいと思ってる。自分のためにではなく、あなたのために、ね」
重すぎると、思った。
どうして、とも思う。
すべてを失った。
そんな私を守る価値などあるのだろうか、と。
あるいは、彼もこの眼が必要なのだろうか。
わからない。
尋ねることは、何故だかとても、怖かった。
「大丈夫よ」
恭子の言葉に、なにが大丈夫なのだろうかと思う。
「由香理は強いわ。それがあなたの望む心の形ではなかったとしても。あなたは悲しんでいる。あなたは泣いている。由香理、あなたは今、自分が薄情な人間なんじゃないかと思っているのかもしれないけれど」
「それはきっとね、あなたが、あなたの両親からもらったものよ。だから価値がある。守るべき価値も、生きる意味も」
胸にそっと手を当てた。
——私が、お父様とお母様から、もらったもの。
「でも、これだけは、私があなたに言っておかなければならないことがあるわ」
「それは、なんですか?」
恭子が、由香理に向き直った。由香理も合わせて、恭子と向かい合う。
「あなたがもし、この先陸を殺そうとするのなら。私は石楠花由香理のすべてを踏み躙ってでも、この命に代えてもあなたを──」
「殺すわ」
端的だった。真っ直ぐだった。とても純粋で、でも。
怖いとは思えなくて。
とても、綺麗な言葉だと思った。
「はい」
答えた由香理は、微笑んでいた。
どうしてそんな結論に至るのかが、由香理にはわからなかったが。
——私が、命の恩人である陸さんを殺すはずがないのに。
と、そんなことを思いながら。
その答えに、恭子は苦笑して、参ったなと呟いて頭をかいた。
「ありがとうございます」
恭子は首を傾げる。
「どういうこと?」
「だって恭子さんは、私の前に立ってくれました」
この人は、燃え盛る屋敷で、私の眼のこと知っていながら、私の前に立ってくれたのだ。
あぁ──と、恭子は思い至る。そういうことかと。
「どういたしまして」
そう答えながら、恭子は思った。
──完敗ね。
しばらく二人は、森を、空を、陸の背中をただじっと見つめていた。その沈黙を、由香理は心地良いと感じていた。
多くの不安がある。悲しみも、怒りも、確かにある。
それでもその沈黙を、今はゆっくり噛み締めていたかった。
そろそろ戻りましょ、と恭子が呟いた。
手すりに預けた身体を起こし、恭子が屋内へと戻っていく。
ほんの数瞬、由香理はその背中を見つめて。
血を拭った指を握り締めた。
その血の意味だけは、聞けなかった。
恭子も、そのことには、なにも、触れなかった。
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