一章 鬼種の眼[八]
──聞きそびれたな、と由香理は思う。
たぶん、私を的確に表す言葉の意味を。〝きしゅ〟という音の意味を。
再び、寝具の上で脚を抱えて蹲る。
陸から語られたことの意味を消化することは容易かった。過程が不明であっても、最後まで通して聞いてみれば、彼の言葉は気持ちいいくらいにすんなりと頭に入ってくるのだった。
お父様は、屋敷の皆の命と引き換えに、私の未来を作ろうと──。
そんな、異常だと言わざるを得ない事実さえも、事実として受け止められてしまった。
だから私は、今、こんなにも落ち着いていられるのだろうか。それとも、先程までの涙は嘘だったのだろうか。いったいどれくらい泣いていたのかはわからないが、あれくらい泣けば皆、気持ちを切り替えられるものなのだろうか。
わからない。
自分は、自分が思っているよりもずっと、薄情な人間だったのかもしれない。
人間なのかどうかも、今は定かではないのだが──。
彼は、食事の時間には戻ってくると言っていた。
食事。
その言葉を頭に思い浮かべると、まるで思い出したかのように空腹を感じた。どんな状況であってもお腹は空くのだなと思い、少しおかしいような、やるせないような、そんな気持ちになった。
私は人間でないのだとしても、生き物なのだと実感する。
化物でもお腹は空くのだ。
そんなことを考えていると、ふと、頬に熱いのぬめりを感じた。
そっと指で触れてみる。
——血?
血涙、だった。
何故? と思いながら、改めて部屋を見回しても、本当になにもなかった。
拭う物がない。
布団に、寝巻き。布であればなんでも良いのではと、はしたない思考を追い払う。
意をけっして、寝具からゆっくりと脚を下ろした。
──履き物?
下駄でもないそれをスリッパと呼ぶことさえ、由香理は知らなかった。部屋を見渡すばかりで、脚の高い寝具の真下までは見ていなかった。
これがあるということは、私は出歩いてもいいのだろう。そう思うことにした。
扉を開けて、廊下に出る。部屋もそうだったが、由香理にとってはどこか寒々しさを感じる建物だった。コンクリートという名前の建材を見ることさえ、由香理には初めての経験だった。
「トイレ、ううん、あなたに合わせるなら、厠かしら?」
急な声に「きゃっ」と小さな悲鳴を漏れらしつつも、血を拭った指を咄嗟に隠し、目元を見られないように顔を背ける。
扉の横に、あの、江波恭子と呼ばれていた人物が立っていた。
とても明るくて、よく通る声音の持ち主だと思った。
「ごめんね、びっくりさせちゃったかしら」
由香里が答えるよりも早く、恭子は廊下の右側を指で刺して立ち上がり、歩き始める。
血に気づかれただろうか。何故、隠してしまったのだろうか。厠だと本当に思われているならば、それはそれで恥ずかしいと思いながらも、従うしかなかった。
そして、思い至る。
「ん? どうしたの?」
振り返ってきた恭子が、首を傾げて微笑んだ。
この場合は、微笑んでくれた、というのが正しいのだろうか。
まるでこちらを安心させるかのように。
「いえ、なんでもありません」
「そ。じゃあ、ここね。自由に使ってもらって構わないわ」
厠はすぐ目の前だった。
「汚いけど」
その一言が、不穏であることを除けば。
恭子に促されるままに、厠に足を踏み入れる。なるほどこれはと妙に納得してしまうほどには、酷いものだった。元々、常日頃から使われてはいないのだろう。ここは本来、廃墟と呼ばれるものらしい。
「これ、捻ると水が出るから」
厠に入っていく由香理の背を見送りながら、聡いのねと、恭子は思う。
きっと、由香理は今の今まで、自分は何日も寝込んでいたのだろうと思っていたに違いない。
その判断に誤りはない。通常は。
空腹と、最後の食事から逆算して、自分がどれくい眠っていたのかを推測するのは、戦闘従事者ならば容易いだろう。石楠花由香理は戦闘従事者ではないが、それでも確かに、彼女は気づいた。
——曲がりなりにも、石楠花の跡取り娘と言ったところかしら、ね。
廃墟の蛇口から水が出る。それを、不思議とは思えないにも関わらず。
しばらくして、由香理が厠から出てきた。
「すっきりしたかしら?」
「は、はい……」
「ああ、ごめんなさいね。恥ずかしいこと聞いちゃったかしら。男に囲まれて生きてるからかな。デリカシー……、配慮が足りなかったわね」
「いえ、そんな……」
由香理が俯いてしまう。
──聞きたいことがあるってところかしら。
「ここじゃなんだし」
と、恭子は言った。
「屋上に出ようか?」
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