一章 鬼種の眼[七]
──君のせいじゃない。
沈黙の後、立ち上がって、陸は言った。
食事の時間になったら呼びに来ると言い残し、部屋を出る。扉のそばで気配を殺し待機する恭子に目配せをして、外に出た。
この場所は、建物だけでなく、道中さえも地図には載っていない。航空写真にも映らないし、人が迷い込まないようにと結界も施されている。
陸は、なにをするでもなく立ち尽くし、朱に染まりつつある空を見上げた。そうして、けっして心地いいとは言えない、まとわりつくような時を感じながら、しばらく立ち尽くす。
どれくらいの間、空を見上げていたか──。
外界から隔絶されたこの場所は、しかし、石楠花の屋敷とは似ても似つかぬ場所だろう。
ここは、かつて、営みの潰える場所だったのだから。
夕焼けの後に、夜の帳が訪れる。
背後。建物の屋上から感じる視線は、恭子と由香理のものだろう。
見られているというより、こっそりと覗き見られているような、そんな視線。
森を闇が支配する。その闇をじっと凝視した。
なにかが、蠢いていた。
由香理の眼を狙う者は、なにも人だけとは限らない。
黒く濁った、形を持たぬ者ども。
──滅びるか?
森がざわりと震えた。
すべてが呼吸を止める。殺気という言葉さえ生ぬるい。それは、視線を媒介とした凄絶なる呪詛だった。
戦うことは出来なくとも、これくらいならしてやれると、陸は思う。
実際のところ、森に張り巡らされている結界を抜けてくるほどの魔だ。それを、ただの視線だけでいなしてみせたのだから、これくらいで済ませられるような芸当ではない。
視線をふっと緩める。森の支配権を、本来の静寂に返す。
しかし、この程度であれば子ども騙しだ。あの眼に比べれば。
鬼種の眼。
鬼眼。
石楠花の鬼子。
一般に、人の姿をしていない異形の赤子や、あるいは生まれてきたときから歯の生え揃った赤子のことを鬼子という風習があった。
石楠花由香理は人の形をしていた。ただ、その眼だけが異形だった。
あれほどの眼だ。由香理の肉体に根付き、切除すら不可能だったろう。それだけではない。あの眼は由香理の肉体さえをも蝕んでいる。あの異常なまでの頑強さこそがその証だ。
由香理の傷はかなり深いものだった。命に別状はなかったとしても、それこそ驚くべきことであったにせよ、早期に高度な医療、あるいは治癒呪術を施す必要があったはずなのだ。
それが今はどうだ。あの出来事は昨日の夜のことなのだ。
陸も、恭子も、何一つ処置など施してはいない。
眼が肉体を生かそうとしている。急激な回復による体力の消耗さえも由香理からは感じられない。
これほどの純鬼種は、陸をしても見たことがなかった。
生来より鬼に魅入られた者。純鬼種は人の枠としては数えられない。
あの鬼はどこからやって来たのか──。
そもそも、どうして人格を保っていられるのかが、わからない。強すぎる力はやがて肉体に宿る人格を喰い破り、自らの意思で行動を始める。あれほどの鬼眼であれば、生まれて来た瞬間から由香理という人格などなかったのではないかと思わせるほどの──。
その想像は、よくないものだった。
石楠花由香理を愛した者たちへの冒涜だ。
感傷的すぎるなと、陸は思った。
同時に、今は冒涜であろうとなんであろうと可能性を見落としてはいけない段階だとも。
不可解なことはいくつかある。
自分たち以外の襲撃者。
誰が、由香理の存在を喋ったのか。
あるいは、喋らされた、のか。
陸たちは、由香理の父、由唯の来訪を受けて以来、誰とも接触していない。
由唯が誰かに口を割ったという線は、ないとは言えないまでも、薄いだろうと思われた。実の娘の未来のために一族の根絶やしを願うような男だ。その信念は本物だったはずだと信じたい。
さらに、あれは暗殺者の中の暗殺者だ。どんな拷問でもけっして口は割らないだろうし、拷問を受けるくらいなら自死を選ぶだろう。呪術的な罠にかかって記憶を盗まれるというような下手を打つとも思えない。
機を計ったかのように別の思惑が並行して進んでいるのだとすれば、状況の正確な俯瞰は現状では不可能だった。
——即撤退を選ぶべきではなかったか。せめて少しでも情報を。
しかし、あの男の、陸に対する殺意の視線は異常だった。
けっきょくは、逃げ出したのだ。
犯した罪の重さも多さも計り知れない。どこかで怨みを買ったのだとしても、不思議はなかった。
あの男の大切なものを、陸は奪ってしまったのだろう。
どこかで、誰かを奪ったのだろう。
誰かの命を。残酷に、無慈悲に。
せめて名前くらいは聞いておくべきだったかもしれない。しかし、そうなれば戦闘状況は避けられなかった。
恭子の勝手な行動を咎めるつもりは毛の先ほどもない。
軽率な行動ではあったと思うが、結果論として、恭子は無事だ。だからむしろ、喜ばしいことだと思う。思える。
──俺は、恭子を縛りすぎている。
最低なまでに甘えている。
その考えこそが恭子に対しての侮辱なのだと思いつつも、あれが恭子の自由意志だったのであれば、心の底から尊重するべきだと感じた。
そもそもあの男が何者であったにせよ、恭子の初撃を凌いだのだ。戦闘となればそれなりの覚悟が必要となる。少なくとも、由香理を伴って行うことではない。
石楠花由香理を生かすと決めたのだ。
危険は犯せない。
そして、最も不可解なことは。
各個撃破という奇跡に他ならなかった。
あれではまるで、死への参列だ。
あの男がずば抜けていたとはいえ、由香理に襲い掛かった一人一人は、一級の戦闘従事者だった。
それが一人、また一人と、庭に飛び出してきては爆ぜ散っていく光景は、異様というよりも奇妙だった。
だから、というのは言い訳だろう。
しかし、状況を観察するに足る要因でもあったのは確かだ。
由香理の眼がいかに強力であったとしても、犠牲を伴うことを覚悟の上で一対多数に持ち込めば、由香理の捕縛は容易だったはずだ。
その覚悟がない者が、そもそも石楠花の襲撃に加わるわけもない。
あれは、まるで筋書きのあるような。
そんな違和感だ。
到底、意味があるとは思えないことだったとしても。
思索に耽っていると、山の空気に変化があった。
誰かが結界の中に足を踏み入れたのだ。
その気配はゆっくりとこちらに近づいてくる。
しばらくすると、麓に繋がる山道を、人影が登ってくるのが見えた。
「仕入れて来たぜ?」
筋骨隆々、笑うと犬歯の見える、人好きのする青年だった。よれよれのカーゴパンツにダウンジャケットを羽織った彼の名を、鳥山大地という。
大地が掲げた手には、乱雑に詰め込まれた中身で膨れ上がるコンビニエンスストアの袋が下げられていた。
それも、三袋。
背中にはなぜか、少し大きめの袋を両肩に通して背負っていた。
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