一章 鬼種の眼[六]

 鏡があれば死ねるのだろうか。磨りガラスに映る自分を視ても、意味はなかった。

 元を正せば父の死。その死でもって爆ぜ散れるのであれば本望だと思った。

 生きていく意味があるのかよりも、生きていられる自信がなかった。

 あの男が過小評価していると言ったこの眼は、どうやら私の家族の命よりも価値のあるものらしい。

 そんな馬鹿なことがあってたまるものですか、と思う。こんな眼に価値を見出せるなんて、狂っているとしか思えない、と‪──‬。

 私にとっては、こんな眼よりも、家族の命の方がずっと大切だったのだ。

 父の死で死ねないとわかってからは、ただただ泣き続けた。

 どうやら私は、生きなければならないらしい。

 たとえたった一人でも、この眼とともに。

 あの男のことは思い出したくもなかったが、男は私のことを「きしゅ」と呼んでいた。「きしゅ」とはなんなのだろうか。音としては理解出来ても、どのような字を当てるのかも、その意味もわからなかった。

 それもまた、陸と呼ばれていた青年に聞かねばならないと思った。

 これから、たった一人でも生き抜いていくために。

 私は、父と母に、生きて欲しいと願われたはずなのだ。

 そう思うと、自分の愚かさと弱さに、再び涙が溢れ出してきた。

 そうしてどれほど泣き崩れていただろう。

 窓から差し込む光に、朱が混じり始めていた。

「すまなかった」

 声がした。部屋に戻ってきた青年は、再び椅子に腰を落とすと、由香理が泣き止むのをただ黙って、じっと待っていてくれた。

「…………。陸様、ですよね」

「宮本陸だ。ただ、様付けはよしてほしい」

「わかりました」

 答えて、頷く。そしてさらに言葉を続けた。

「どうしてまた、謝罪されるのですか」

「間に合わなかったからだ」

「でも、私は救われました」 

「確かに、俺は君を救った」

 陸が天井を見上げる。

 先程とは打って変わって、険のある顔つきの人だと思った。それでいて、なにかを諦めているかのような、絶望しているかのような。


 とても、悲しい眼差しをしている。


 どれが本当の彼なのだろうと思い、すべてが彼なのだろうと思い直す。

 今の私と、屋敷で過ごしていた時の私と、殺意に満ちていた私が、すべて私であるように。

「でも、それも正確ではない。君を生かしてしまった、というのが正解だ。その点についても謝罪する。君はあの場で殺しておくべきだった。君の今後のことを思えば」

 由香理に驚きはなかった。それこそ当然のことのように思えたからだ。

「あの襲撃が起こってしまっていた時点で、俺たちがあの場にいる意味はなくなってしまっていた。だから、君を殺すつもりでいた」

「君の存在は露見した。君はもう、人並みの幸せを望むことすら許されないだろう」

 初めて、お互いの目が合った。

「……殺すつもりでしたら、今でも可能なのではないでしょうか? 貴方に私の眼は通用しないのですから」

「ですからこんなモノ、いっそ殺してしまってはいかがですか?」

「気丈だな」

「質問に答えたくださいませんか」

 先に視線を逸らしたのは陸の方だった。いや、逸らしたというよりも、窓の外の、どこかを遠いところを見るようなそんな素振りだった。


 この人は‪──‬。

 私と同じなのだろうか。


 ふと、そんなことを思う。

「君の父君とは親交があったんだ。何度か殺されそうになったという意味で」

 その言葉に、父の身体に染みついて離れない、血の匂いを思い出した。

「石楠花は暗殺の大家だ。君であれば、例えなにも教えられなかったとしても、薄々、気づいていたろう」

「君の眼はけっして外に出していいものではなかったし、かと言って君が死ぬまで隠し通すことも不可能な代物だった」

「お父様から、頼まれていたのですか? 私をあの屋敷から連れ出すようにと?」

「ああ、そうだ。本来ならばあの襲撃は俺たちの仕事だったんだ」

 わからない。どういうことなのだろうか。話がまったく繋がらない。

「石楠花の家を襲撃し、君以外の全員を皆殺しにする手筈だった。石楠花の跡取娘は死産だったことになっている上に、難産で君の母君は子を産めない身体になったということにもなっている。君の父君は他に妻を迎えるつもりもないとそこはかとなく吹聴していたから、石楠花の歴史は今代で終わると目されていた」

「だからだ。本来存在しないはずの君を連れ出すのに際し、完璧を求めるならば皆殺しが丁度いいだろう? 君のことを喋る人間もいなくなるのだから」

「…………」

 それは異常だ。そんな判断は、おかしい。

「おかしい、と思うか?」

 由香理は、答えられなかった。返答がないことを気にする風もなく、陸は話を続ける。

「しかし、石楠花の屋敷には内通者がいた、という断定は今はまだ危険かもしれないが、その筋で話を進めるとするならば、よりにもよってこの機を計ったかのように君の眼のことを喋った者がいた。結果が、これだ」

「君が最後に対峙したあの男を殺したところで、もう止められない。あの男の眼を通した遠見で、君と、君の眼の実在が露見してしまった。君を隠したまま連れ出すことができなくなった」

「とおみ、ですか?」

「ああ。遠いに見ると書く。対象者の視界を瞳を通して遠隔地から覗き見る呪術だ」

「呪術‪……」

 呪術師と名乗った男を思い出す。あの男は、また私を、私の眼を狙ってやって来るのだろうか。

 そうなれば、その時、いったい私はどうするのだろう。

 どうしてしまうのだろう。

「……だから、私を殺すつもりで、あの場にやってきたのですか。どう足掻いても不幸になる私を殺すために」

「そのはずだった」

 ほんの数瞬、二人の間に沈黙が訪れる。

「どうして父は、貴方にその頼みを預けたのですか」

「……基本的には誰も信用できない世界だ。身内にすら裏切られる。そんな世界で、自分が何度も殺し損ねた相手の実力だけは信用できると思ったのかもしれないな」

 嘘だと思った。しかし、信用するに足る嘘だとも感じられた。

 きっとそれは、赤の他人が簡単に触れてはいけないことなのだと思った。そして、父がこんな形で彼を頼った根幹こそが、彼を信用出来ると信じた理由こそが、嘘の裏に隠されているのだとも思った。

「では改めまして。なぜ今、私を殺さないのですか?」

 陸は答えなかった。

 今度は由香理も、それ以上追求することはなかった。

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