一章 鬼種の眼[四]

 ‪──‬やっぱり、そうなるよね。


 江波恭子は、心の中で溜め息を吐いた。

 彼女がいるのは、由香理のいる部屋の外だった。廊下の壁に身体を預け、やるせなさを隠そうともせず、気配を殺しながら天井を見上げている。

 由香理が今なにをしようとしているのか、壁越しの気配だけでも、恭子には手に取るようにわかった。

 それでは駄目なんだよ、と恭子は思う。

 それでは、どうしたって死ねないんだよ、と。

 石楠花由香理の眼に備わってしまった力は、国が買えるほどの桁違いな代物だろう。恭子のような近接戦闘従事者にとっては致命的な相手だ。

 それでも。

 眼に映らなければいいのだ。あるいは認識されなければいい。

 由香理が、磨り硝子に映る自分の姿を認識できないように。

 ぼやけた像を視られるほど、彼女の眼はまだ洗練されてはいない。

 つまり彼女は、今、自殺しようとしている。磨り硝子に映った自分を視ることで‪──‬。

 愛されていたのだな、と恭子は思う。彼女の眼が洗練されていないということは、彼女の両親が、彼女に眼の使い方を教えなかったということだ。

 知られれば奪われる眼だ。それは間違いがない。国が買えるであろう代物が石楠花一族を葬るだけで手に入るとあらば、それは破格の条件だ。

 しかし同時に、由香理の眼は石楠花を守るための絶大な武器でもある。その武器の使い方を、由香理の両親はなにひとつとして、彼女に教えなかったのだろう。

 あの眼の使い方を由香理に教えるということは、必然、誰かの命を奪うことになる。


 人として生き、人として死ねるよう。

 そんな幻想を抱いてしまうほどに、愛されていたのだ。


 もしも彼女があの眼の使い方を熟知していたならば、あの男は敵にすらならなかったはずだ。

 あの時、恭子が陸から命じられたことは、けっして難しいことではなかった。

 由香理が致命的な間違いを犯す前に、その意識を奪う。それだけだった。

 あの男の攻撃で由香理が昏倒してくれれば良かったのだが、由香理の頑丈さは陸たちの想像を遥かに上回っていた。

 十分に鍛えられた戦闘従事者であったとしても、防御もなしにあの蹴りを腹に喰らってしまえば、内臓の破裂は覚悟しなければならない、はずだった。

 ——ある程度の事前情報はあったのよ。

 その情報から、石楠花由香理はそう簡単には死なないと判断はしていた。

 あるいは、彼女の今後のことを思えば、あの場で彼女を殺しておくことさえも、残酷な選択肢としては、あったのだ。

 しかしそれ以上に、あの男は容赦がなく、冷静だった。

 由香理の眼があの男に通用しなかったのは、あの男が、視線を逸らす術式を自身に施していたからだろうと、恭子は推察する。


 呪術師だ。


 初歩的な呪術だが、それ故に応用の幅も広い。達人ともなれば、人混みの中を誰に気取られることもなく闊歩することも可能だろう。

 そして、その呪術師を前にして由香理が犯しかけた、致命的な間違い。

 由香理から理性を奪うにあたって、あの男がどのような言葉を彼女に浴びせかけたのかは想像に難くない。

 溢れる憎しみは呪術と相性が良く、それを逆手に取れば、対象を縛りつけ無力化出来る。

 はたして、本当に無力化などという小細工が通用したのだろうか。そう感じさせるほどに、由香理の内から溢れ出した憎しみは災厄の凶兆を孕んでいた。

 けっして解放してはいけない、なにか。

 我ながら、馬鹿なことをしたなと恭子は思う。

 陸の命令を無視したから、ではない。いや、もちろんそれもあるのだが、あの由香理の前に立つということは、一歩間違えれば、恭子は死んでいたかもしれない、ということに他ならないからだった。

 この命は陸のために。そう、決めていた。

 なのに、うっかり前に出てしまった。一つしかないこの命を、陸のためにではなく、他人のために使うところだったのだ。

 いや、陸も同じ気持ちだったはずだ。であれば、あの男に一発くれてやらなければ気がすまないという感情は、翻って陸のためになったのだろうかとも考える。

 ——自分のことながら、都合の良い解釈ね。

 だがしかし、理由がどうであれ、殺すつもりで打ち込んだ蹴りは、凌がれた。

 その意味でも、あの男が相当な使い手であることは間違いがない。

 しかし、機会は逃した。次に相見えることがあったとしても、その時にあの男を殺すかどうかは別の話だ。

 だが、必ずまた、あの男は現れる。その確信は、ある。

 その時、殺す必要があれば殺すし、殺す必要がなければ殺さない。

 そも、あの男を殺すべきは、きっと私ではないのだと、恭子は思った。


 ‪──‬それはきっと、由香理の両親が望む未来ではないでしょうけれど。


 しかし、生きている人間に必要なことも、きっとあるはずだ。

 彼女が今後生きていく上で復讐を望み、それが生きる糧となるのならば、それも致し方ないのではないか、と思う。

 石楠花は暗殺の大家だ。

 そんな家に生を受け、これまで真っ当な人間として生きてこられただけでも、それこそ奇跡に近い。

 当主とその妻が亡くなれば石楠花の歴史は終わり、一人遺された由香理はあの屋敷で静かにその生涯を終える。

 しかし、それは夢物語だ。

 当主が不在となれば、例え妻が残っていたとしても、外の者が必ずやってくる。由香理と、その眼の存在はいつか露見しただろう。

 おそらくだが、そんな当たり前のことさえも、由香理は教えられていなかったはずだ。

 由香理が戦闘従事者ではないことは明らかである。

 陸とともに観察していた際の動きからして、自衛の方法さえ教えられていないと判断出来るほどに、由香理は素人だった。

 理由はわかりきっている。あの眼が危険すぎるからだ。

 あれは、けっして目覚めさせてはいけない眼だ。

 そのきっかけさえをも与えてはいけないほどに。

 ——そもそも電気が通っていたのかも怪しいんだけど。

 事前にもたらされていた情報によれば、石楠花の家にはテレビさえもなかったという。

 それほどまでの眼、ということだ。

 テレビに映る映像は、生放送でもない限り、録画放送だ。生放送ですら、時間のずれが必ず発生する。

 つまり、過去の出来事の再演なのだ。


 あの眼の力は、いずれ、映像を通し‪──‬。

 距離も時間も超越するに至ると、由香理の両親は判断したのだ。


 才能というには、度を超えすぎている。

 鬼種。

 鬼種とは即ち、肉体に鬼を宿す者のことを指す。由香理の場合は、十中八九、あの眼に鬼が宿っているはずだ。

 眼に宿る鬼の類は、特殊な力を有するものが多い。だから、鬼種とは大別されて、鬼眼と呼ばれるのが一般的だ。事前に得た情報の主は、あれを、蒐集の鬼眼と呼んでいた。

 しかし、あれはただの鬼種でも鬼眼でもない。

 由香理は生来よりあの眼を備えていたと聞いている。

 後天的に鬼種になることは可能だ。むしろそちらが一般的と言っていいだろう。

 憑依儀式に耐えうるだけの精神力と、拒絶反応を乗り越えるだけの体力を備えていることが必須条件となるが、その両方を備えていたとしても、儀式からの生還率は高くはない。

 それが生まれた時から備わっていたともなれば、ないわけではないにしろ、かなり稀な事例と言って差し支えないだろう。

 石楠花由香理のように生まれながらの鬼種を純鬼種と呼ぶが、あの眼の力は、鬼の力という枠に収まるのかどうかさえ怪しいものだった。

 仮に鬼であったとしても、あれほどの鬼に憑かれて人としての自我を保っていられるなど、不幸すぎる奇跡だ。

 どうしたって普通の人間としては生きられない。ならばいっそ、眼に支配された方が幸せだったかもしれない。


 ‪──‬才能、か。


 由香理はあの窮地を生き延びてみせた。素人であったとしても、いや、素人だったからこそ、あれは偶然ではなく必然だった。あの眼があったからだけでもない。由香理の中に流れる石楠花の血がそうさせたのだ。

 ——流石は石楠花の鬼子、というところかしら。

 あんな眼さえなければ、今頃は暗殺者として大成していたに違いない。〝不才の恭子〟と揶揄され、ただ速いだけの〝最速〟と罵られ続けてきた恭子にとって、由香理のそれは羨ましくも感じられる。

 たとえ、その才で身を滅ぼすことになろうとも、だ。

 だが、不才であろうと、ただ速いだけと馬鹿にされようと、為すべきことは変わらない。陸を護ることが恭子の使命であり、そのための〝最速〟だ。

 ただ、この先、自分がどうするべきかがわからないだけだ。

 迷っているのだと、恭子は思う。

 自分は本当に、陸に命じられるままに動くだけの戦闘従事者で良いのだろうか、と。

 陸の命令を無視してあの男を蹴撃したことに、まだ困惑しているのかもしれない。

 死ぬかもしれなかったのだ。

 冷静に考えてみればわかる。あれは軽率な行動だった。

 ふと気づけば、自身の心にばかり想いを巡らせていることに気づき、恭子はかぶりを振った。

 ドア越しに聞こえてくる嗚咽に耳を澄ませる。

 恭子に与えられている役目は、彼女が下手な真似をしないよう見張っておく、というものだった。

 しかし、彼女は危険だ。今後、陸に危害を及ぼすかもしれない。ならばいっそ‪、命令を無視して‪──‬。

 今はいい。きっと大丈夫だ。だがこれから先がどうかは、誰にもわからない。人の気持ちはうつろいやすいものだ。それこそ、恭子にとっては信じられないことではあったが。

 実のところ、気配で察していたのだ。あの時、室内に押し入りたいという衝動を抑えるのに、相当な精神力を要した。

 陸は、由香理に視られたのだろう。だから、防衛機構が働いてしまった。が出かかった。

 アレは、陸の心を酷く酷く、酷く傷つける。

 と同時に突きつけられる、明確な事実。

 あの鬼眼は、陸の防衛機構を働かさせるほどのものだということだ。


 だから‪──‬。


 恭子は心の中で、二度目の深い溜め息を吐いた。

 彼女を生かすと決めた陸に、自分も心から賛同したではないか、と。それがどのような理由であれ‪──‬。

 つくづく外道にはなれないなと思う。

 いや、外道と言えば、この身はすでに外道か。

 多くを殺してきた。今更善人ぶるのもどうかしている。

 気がかりなのは、あの男の、陸に対しての異常とも取れる‪──‬。

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