一章 鬼種の眼[三]

 しばらくの静寂の後、彼は去っていった。

 ここがどこなのか、彼、あるいは彼らが一体何者なのかさえ、今の由香理にはわからない。

 部屋を見回す。

 そう広くはない殺風景な部屋だった。窓際に設置された見慣れぬ寝具と、彼が座っていた椅子以外にはなにもない。窓は嵌め殺しの磨り硝子になっていて、外の状況を窺い知ることも出来なかった。

 ただ、そう遠くない距離に緑が揺れていることだけはわかった。

 扉に鍵がかけられた様子はない。しかし、出て行っていいのかどうかさえもわからない。

 ふと胸元を見ると、見慣れぬ衣服を着ていることに気づいた。浴衣でも着物でもない。不思議な服だったが、着心地は悪くなかった。

 彼女が着せてくれたのだろうか。

 思えば、屋敷にいた人々以外に会うのは、あの夜を含めてこれが初めてのことだった。

 それを新鮮だと思えないことをどう受け取めればいいのかわからず、膝を抱えて蹲る。あれはいつの出来事だったのだろうか。私はどれくらい眠っていたのだろうと思いながら、膝を抱える動作に顔を顰めた。

 痛み。

 身体中に鈍い痛みがある。

 その痛みに、あれが現実だったのだと否応無しに実感させられる。

 皆、家族だった。

 そのすべてが奪われた。

 あんな形ですべてが奪われるなんて、想像もしなかった

 ——私のせいで。私が化物だった、から。


 いつかは必ず、すべてに終わりが訪れる。

 それは、石楠花由香理という存在が、あるいはその眼が、誰よりも一番に理解していることだった。

 死に寄り添う時の、静かなひと時は好もしかった。

 今も、とても、静かだ。

 でも、この静けさを、由香理は受け入れられずにいる。

 頬を、熱いものがつるりと滑り落ちた。

 独りぼっちになった今なら泣いていいのだと、そう思った。

 決壊した堰から涙が溢れ出す。それを止める術を、由香理は持ち合わせてはいなかった。

 嗚咽が漏れる。涙は拭っても拭っても枯れず、やがては拭うことも諦めて、流れるままに頬を濡らし続けた。

 この涙が枯れれば、私はすべての力を使い果たして死ねるかもしれないと、そう思った。そうすれば、皆の元に行けるのだと‪──‬。

「あっ、ああっ、あっ、あぁぁぁっ」

 皆はもういない。

 皆の元に帰りたい。

 父と母の声が聞きたい。

 天井を見上げて、獣のように、吠えるように泣き喚いて‪──‬。


 ふと、涙に濡れた視界に、磨り硝子の窓が──‬。

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