一章 鬼種の眼[ニ]
目を覚ます。
とても、とても大切で、けっして忘れてはならない、そんな夢を見ていた、気がした。
静謐で汚し難いものたちに囲まれながら。
けっして触れてはならない邪悪に見据えられたかのような。
不思議な浮遊感があったようにも思えるし、底のない闇に突き落とされたかのような、そんな墜落を味わったようにも思う。
あの夢は一体なんだったのだろうかと考えるものの、夢の内容がなんだったのかさえ、思い出せない。
身を起こすと、身体のあちこちから軋むような悲鳴が聞こえて、由香理は思わず顔を顰めた。
それでも、身体を起こす動作に致命的な支障はないように感じられた。
見知らぬ寝具。
それをベッドと呼ぶのだということは、後から知った。
痛みはあるが、鈍い痛みだ。刺すような痛みではない。私はいったいどれほど長い間眠っていたのだろうかと思い──。
「目が覚めたか」
声がして、由香理は思わず視てしまった。
あっと思ったが、もう遅い。
しかし声の主は、ベッドの枕元に椅子を置き、床をじっと見つめながら俯いて座っているだけだった。
爆ぜない。
生きている。
一瞬、声の主の背後に、なにか青白いものが人の形を成しつつあったような気がしたが、気のせいだろうか。
しかし今は、そんな疑問よりも安堵の方が勝った。
きっと命の恩人であろうその青年を、殺してしまうところだったのだから。
緊張の糸が解けていないのだろうかと、由香理は思う。
──こんなにも簡単に眼を使ってしまうなんて。
たくさん殺した。
爆ぜて散った父に、聞こえなくなった母の声。
燃え盛る屋敷。屋敷の皆は──。
思い出す。
私の、せいで——。
あれはすべて現実で、だから私はまだ生きていて、傍らには彼がいる。
嗚咽が漏れそうになり、すんでのところで押し留めた。今にも零れ落ちそうな涙を堰き止めた。
それは、曲がりなりにも石楠花という名家の娘として生を受けた者の器量だろうか。
だとしたらそれは、とても悲しいことだった。
泣いていいのだと思う反面、顔しかわからない青年の前で涙を流すのは、流石に見苦しいことだとも思った。
いや、彼に関しては、知っていることが他にもあった。
──確か、陸様、と言いましたか。
そして、多くの〝死〟を纏っているということ。
その彼が、今は何故だかとても弱々しく、消えてしまいそうなほどに頼りない。
不思議と、あの時に感じた、底知れぬ恐怖は感じられなかった。
あれは、錯覚だったのだろうか。
あの時ちらと見た、陸と呼ばれる青年の横顔を思い出す。そこに浮かんでいた感情は、怒りではなかったろうか。だとしたら、いったいなにに対して──。
本当に同一人物なのだろうか。
よく似た他人ではなかろうかと訝しむ。それほどまでに、今、由香理の目の前にいる人物から感じられる印象は、あの横顔から受けた強烈な恐怖とはかけ離れているように思えた。
それでも、きっと同じ人なのだ。恐怖はないものの、纏った死の匂いは誤魔化せない。
由香理にだけは、誤魔化せない。
「それは大切に取っておくといい。巡り巡ったとしても、元を辿れば君の父君の死だ」
「あの」と尋ねようとして、陸の言葉が重なった。
なんのことを言われたのかが、すぐにはわからなかった。
この眼のことを言われているのだと、そのことに気づくまで、数瞬かかった。陸と呼ばれていた青年は、自分が視られたことを認識しているのだ。
由香理を庇い、爆ぜ散った父の亡骸を思い出す。
あの時はとにかく必死だった。
簡単に人を殺すくらいには。
父の死を蒐集したからこそ、生き延びることが出来たのだ。
殺して、蒐集して、殺して、蒐集して、殺して、蒐集して──。
——私の眼は、死を蒐集する。
その死の瞬間、死因までをも。
そしてそれを他者に与えることが出来る。
故に、容赦なく、いとも容易く、殺せる。
あれがいったい如何なる仕掛けによるものだったのか由香理には理解できなかったにせよ、彼女の父は、彼女の目の前で、文字通りに爆ぜ散ったのだ。
その死を蒐集し、他者に与えれば、父と同じように爆ぜて散る。
爆散して、死ぬ。
視界に収めて、意志とともに視るだけでいい。
なんて残酷な眼だろう。優しかった母の眼差しや、父が最期に見せた表情からは程遠い──。
しかし、由香理が今考えるべきことは、そんなことではなかった。
陸と呼ばれていた青年は、巡り巡ってと、言ったのだ。
「見ていたのですか、最初から」
その声には、隠しきれないほどの怒気が込められていた。
——もしも、彼がそうだと答えたならば、私は。
「……間に合わなかった」
青年は、絞めつけられた喉から、なんとか言葉を絞り出すように答えた。
「説明してください」
「……わかっている」
そして、青年は顔を上げた。
顔をよく知っている相手など屋敷の皆だけだったから、比較対象が少なすぎた。それでも、彼の顔立ちは整っている方ではないかと、そう思った。
よく見れば、身なりは正してはいるものの、身につけている衣服はボロボロだった。シャツやジーンズと呼ばれるらしいその衣服の裾は、どこもかしこもほつれたり破れたりしている。眉毛にかかるくらいの髪も、数日は洗っていないのではなかろうか。
でも、そんなことは些細なことだった。
その青年は、今にも泣き出しそうな、そんな表情をしていた。
——泣きたいのを我慢しているのはこちらの方なのに。
殺されると怯えている訳でもないということは、わかった。
ただこの人は、苦しんで、悲しんで、泣いているのだと、そう、心の底から思えた。
その表情を目の当たりにした由香理の口から、今は説明など不要だと、そんな言葉が出かかって──。
しかし、青年は語り始めた。
「君の父君の死に、間に合わなかった。俺たちが到着した時、父君は、君を庇って散ってしまった」
その言葉に淀みはない。
「あの時、俺たちに出来ることはなにもなかったんだ」
「なにも? 私を救ってくださったのに?」
その事実は違えないと、念を押すように問いただす。
「君の眼は、俺には通じない。少なくとも今は」
話が繋がっていないように思えた。そして、今でなければ、いつかであれば、彼を殺せるのだろうか、とも。
「だけど、俺は戦えない。俺にはその力がない」
それは嘘だと思った。
——そんなにも〝死〟を纏っているのに。
形として見えるわけではなかった。ただ、その肩に、あるいは背中に、その手のひらに、おびただしい死がこびりついているのを感じるのだ。
——戦えないなんて、嘘です。
でも、きっと真実なのだろうと、そう感じられた。
嘘だと否定するのは容易かったが、そんな気には、とてもなれなかった。
何故だろう。彼の言葉は、とてもしっくりと、とても素直に、心に響くのだった。
不思議な人だと、由香理は思った。
たぶん、きっと。
この時点で、由香理の中にある陸への怒りは消え失せていた。
「あの時すぐに飛び出して行けば、君は俺たちを敵だと認識しただろう」
「……確かに、そうかもしれません。いえ、きっと、そうだったでしょう」
「背後から近づいて、気絶させることだって出来た。それでも、ありとあらゆる可能性を、可能な限り排除したかった」
その言葉でわかってしまった。
——この方は。
由香理の眼が通用せず、しかし、戦えないと言う彼は。
——江波恭子と呼ばれていたあの人を、私の眼から守るために。
「もう、いいです。わかりました」
由香理は陸の唇から言葉が紡がれるのを遮るように言った。
きっと、どんな状況でも危険だったのだと、由香理は思う。
それでも彼女は、こんな眼を持つ私の前に立ってくれたのだ、と。
——全部私なのだ。私のせいで──。
「すまなかった」
「……どうして謝罪されるのですか? あなた方のお陰で、少なくとも私は、今もこうして生きているのです」
陸は、なにも答えなかった。
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