序 静謐と蒐集

序 静謐と蒐集

   一


 石楠花しゃくなげ由香理には悪癖があった。ともすれば奇妙にも見えた彼女の悪癖を、周囲は好意的に捉えていた節もある。

 優しい子ね、と。

 死に寄り添い、終わりを見届けることを好む子どもだった。

 満開に咲き乱れる桜よりも、風に吹かれて散りゆく花びらを。

 蝉の死骸が、夏の終わりを教えてくれることを。

 若葉よりも、枯れて散る木の葉を。

 美しい雪景色よりも、溶けて消えていく雪の儚さを好んだ。

 それらの傍らにそっと寄り添う。閉じられた世界の中で、由香理は間違いなく満ち足りていた。

 外界から遮断された山中の屋敷。世界というには小さすぎる敷地が由香理にとってのすべてだった。


 幼いながらに、きっと私は理解していたのだと、由香理は思う。

 そこは楽園などではなく、牢獄そのものだと。

 世界はこんなにも小さくなくて、だから、木々に切り取られた青い空の向こうには、私の知らない世界が広がっているのだと。


 それでも、ただの一歩さえ、その隔絶から抜け出したいとは思わなかった。そんな願望を抱いたことはおろか、思いつきもしなかった。それほどまでに、石楠花由香理の世界は完璧に閉じられ、完成されていた。

 屋敷を囲う森は、生命の営みそのものだったから。

 必然、由香理が寄り添うべき死も、そこかしこに溢れていた。

 虫も獣も草花も鳥たちも、いつかは死に、朽ちていく。

 由香理が死に寄り添う時、母は、由香理のそばによく立ち、見守ってくれていた。

「由香理は優しい子ね」

 それは、母の口癖だった。いつも、落ち着いた色合いの着物を身につけて、合わせをきちんと正した、物静かな母だった。

 大人たちのその誤解を、由香理は好もしくは思ってはいなかったけれど、訂正する気にはなれなかった。

 自分だけの密やかな楽しみを誰にも邪魔されたくはなかった。


 いや、あれは誤解などではなく——。


 由香理にとってはほとんど無意識であったにせよ、人として破綻していることを、他の誰でもない、由香理自身が強く理解していた。

 命の灯火が潰える瞬間に立ち会える時にこそ、由香理は安らかさを感じることが出来た。

 静謐で、厳かで、汚しがたいもの。

 もしも命に質量があるのならば、それがふっとかき消えてしまう瞬間が、確かにあるのだ。

 祖父の最期を看取ったのは由香理だった。

 皆が寝静まった夜、ふと目が覚めて寝床から抜け出すと、祖父の寝所に忍び込んだ。

 その瞬間は、とても静かに訪れた。

 喪失感が胸を掠めて、でも、由香理はその正体を掴めなかった。七歳の冬のことである。


   二


 父のことは好きではなかったが、愛していたと思う。

 寡黙な人だったけれど、家族にはもちろんのこと、使用人に至るまで、誰に対しても不器用に優しかった。

 ただ、血の匂いの濃い人ではあった。その手で由香理の頭を撫でる時、いつも数瞬、躊躇うような素振りを見せる人だった。

 愛されていた。その事実を疑わない。

 けれども、好きにはなれなかった。父もそのことには気づいていたと思う。

 父の背中にこびりついて離れないもの。

 母の抱擁の中にもかすかに感じるもの。

 濃い、血の、匂い。

 安らかさとはほど遠い死に触れ続けてきた手のひら。

「ねえ、お父様」

「どうした、由香理」

 森と屋敷を仕切る生垣の前で、一つの命が潰える瞬間を見つめながら、父に尋ねた。

「なぜ、蟷螂は蝶々を食べるのですか?」

 喰らわれる側にとってはきっと安らかではなくて、それでも、喰らう側にとっては、生きるために必要なこと。

「由香理と同じだ。食べないと死んでしまう」

 そう答えた父の声音は、いつもの野太い、しかし少ししゃがれた優しい響きだった。大きな手のひらが、ほんの少しの躊躇いの後に、由香理の艶やかな髪を撫でる。

 父の手のひらはとても温かくて、なのに、今にも消えてなくなってしまいそうなほどに、頼りなかった。

 まるで、自分の手が娘を汚してしまうのではないかと怯えているかのように。その頼りなさに、父の悲しみを知った気がした。


 では、なぜお父様は、食べないのに殺すのですか?


 その言葉を、かろうじて飲み込んだ。

 十歳の秋の出来事だった。

 父のことは、愛していたと思う。


   三


 母が呼んでいる。

 悲壮な母の叫び声は、しかし、すぐに聞こえなくなった。

 雪化粧の夜。庭の松の木の根元に寄りかかって、息を整える。裸足の指先に感覚がないのは、寝間着のまま寝所から飛び出したからだ。

 冬の寒さが、容赦なく由香理の身体から熱を奪っていく。

 そして、雪の上に爆ぜて散った、父の亡骸を見た。

 臓物が、まるで生きているかのように湯気を立てている。


 どうして。


 父のことは好きではなかったけれど。

 愛していた。

 その複雑な感情の奥に、父の死を望む気持ちはなかったと、それだけは断言できる。


 どうして、こんなことに‪──‬。


 屋敷の皆は無事だろうかと見回しても、その視界には、炎に包まれて失われつつある、由香理の小さな世界しかなくて‪──‬。

 これも死なのだろうかと由香理は思い、こんな死は求めてなどいなかったとも思う。

 業火。

 ここに罪はあったのだろうか。

 父や母が、あるいは私の知らない誰かが、この炎に能うだけのなにかを犯したのだろうか。


 生きろ──‬。


 父は最期に、そう呟いた、ように思う。

 そんな父の願いとは裏腹に、由香理は、この時初めて自らの死を意識した。

 由香理はこの屋敷の中でしか生きられない。そういう風に育てられた。外の世界のことなど、何一つとして知らないのだ。

 故に、由香理の生涯はここに始まり、ここで終わりを迎える。

 石楠花の血は、由香理が産まれた時点で途絶える定めだったのだ。

 父も母も、由香理に多くを望まなかった。

 由香理には知る由もなかったにせよ。

 せめてこの狭い世界で、人として生きてほしいと、そんな当たり前の願い以外は。

 それこそが、そもそもの過ちだったのだろう。

 異質。あるいは、歪。

 人間という枠など容易く食い破る、人ならざるものの、眼。

 彼女こそが、あるいはその両眼こそが、この小さな世界に生じたひびであり、綻びだったのかもしれない。

 屋敷が煌々と燃えている。踊る炎に照らされた白銀の庭は、実に鮮やかだった。

 一人や二人ではない。何十人という人間がここで爆ぜて散ったのだ。その情景は、まるで、咲き乱れる椿のようで‪──‬。

 溜息を漏らす。

 父の死を目の当たりにし、この閉じられた小さな世界が炎に包まれて尚、由香理は思ってしまった。感じてしまった。


 ‪──‬とても。

 綺麗だ、と。


 しかし、今はもう、死に触れても安らかではない。

 ここには安らかな死など、一つとしてなかった。

 いや、父の死だけは、あるいは。

 父が最期に浮かべた安堵の表情は、幻ではなかったはずだ。

 愛されていた。


 あぁ‪──‬。


 こんな終わりを求めていたわけではなかった。

 それでも、こんな地獄を見て尚、それを美しいと感じるのは。


 ‪──‬私はきっと、最初から、壊れていたのですね。


 やはり、生きていてはいけなかったのだ。

 それは、死に寄り添うことに安らぎを感じる自身に対して、心の片隅でいつも思い続けていたことだった。

 石楠花由香理の生涯に、意味など与えてはいけなかった。

 父と母は、理解していたのだ。

 この命がこの世に生まれ落ちた瞬間から。

 最初から壊れていた娘は、父母の愛によってどうにか人間の体裁を保っていただけだったのだ。

 を外に出してはいけない、と。

 故に、父と母は、石楠花の屋敷という小さな小さな世界に、由香理を閉じ込めたのだ。

 それでも、こうして、終わりはやって来た。閉じられた世界は閉じられたままに、どこにも開かれることなく炎に焼かれて燃え尽きる。

 視界の隅、猛る炎の中から、人影が飛び出して来た。

 その双眸が、由香理を捉える。

 距離にして二十メートルほどだろうか。それはこの足元の悪さであっても、由香理の首が為す術もなく落ちる距離だった。


 ‪──‬無駄なのに。


 きっと無意識だった。無意識に違いなかった。そう思い込みたいだけで、でもそれは、確かに由香理の中から滲み、溢れ出してきたものだった。


 ‪──‬あれは、殺してもいい。


 その感情を、殺意という。

 由香理の眼が、人影を視た。

 刹那、人影はその形を失い、爆ぜ散った。

 

 こうして、もう何人殺したかもわからない。

 その結果が、白銀の庭に咲いた、いくつもの赤い華の正体だった。

 そして今度こそ、誰もいなくなった。


 はずだった。


「なるほど、確かにこれは……。この目で見るまでは実在を疑ったものだがな。石楠花はこのような異物を産み落とす家系ではなかったはずだ。ではなんだ? お前はどこから来た?」

 由香理を見下ろす位置に、男が立っていた。

 まさに、瞬き一つの間の出来事だった。

 男は燃える屋敷を背中に背負い、しかし、由香理がその表情を読み取れるほど近くに、突然現れた。

「…………っ」

 吐き気を催す。

 父とは比べ物にならないほどの、血の匂い。


 否、死の、匂い。


「襲撃者十六名、私を除いた十五名が尽く返り討ちとはな。石楠花が相手だ、多少の犠牲は覚悟していたとも」

「しかし、この結果は想定外だ」

 長身痩躯に黒いコートを纏ったスーツの男だった。

「答えろ、お前はどこから来た?」

「がっ!!」

 首を鷲掴みにされ、軽々と庭の隅まで投げ飛ばされる。左半身を強打し、そのまま新雪を滑って地に倒れ伏した。

 息が出来ない。身体が熱い。

 そしてなによりも。


 怖い。


 理解出来ない。

 理解を放棄したい。

 私はあの男を視界に収めて〝視た〟はずなのに。


 


 今この時を除けば、ただ一度きりしか使ったことがない眼の力。だが、その眼の使い方を、由香理は誰に聞かずともごく自然に、知っていた。

 それは、生きている以上、呼吸をやめられないように。

 自身に備わった機能の使い方を、由香理は最初から、知っていた。

 だから、理解できない。由香理を痩躯の身で軽々と投げ飛ばした男は、

「貴様は、生まれもっての、生粋の鬼種か?」

「うぐがっ!!!」

 まただ。倒れ伏す由香理の頭上から急に声が降ってきた。と同時に腹を蹴られ、垣根を突き破って雪の上を滑る。

「鍛えられているようにも見えない。しかしその頑丈さ。普通の人間ならば死んでいるところだが」

「なによりその眼だ。それは本来、人の手には余るものだ。ならばお前はやはり鬼種か?」

 身体に走る痛みよりも、恐怖で息が出来ない。それでもなんとか顔を上げて男を視た。

 しかし、どうにもならない。なにも、起こらない。

 

 男の問いかけに答える気はなかった。なにより、男が言っていることの意味がわからない。

「なるほど、またそうやって〝視る〟か。であれば、お前は本当になにも知らないのだな」

「私は呪術師だ。その眼は私には通用しない。私は殺せない。お前のその視線は、私にはただの敵意でしかない」


 ‪──‬敵意?


 ああ‪──‬。

 私はこの人と戦って‪──‬。

 なにかと戦おうなどと、今の今まで考えたこともなかった。

 にも関わらず、石楠花由香理という生存本能は、無意識の内に、男と戦っているらしい。


 この男を、殺すために。


 そして、戦っているという事実が、由香理の中にまた別の恐怖を呼び起こす。

 あんなに殺したのに。簡単に殺したのに。

 これが戦いだと認識した瞬間、身がすくんで動かない。

 無意識であったにしろ、多くを殺した理由を思い知る。


 私は、生きようと、しているのですか‪──‬。


 けっして、敵わない、だろう。

 あるいは父が、由香理を庇いさえしなければ。由香理の前だからと、殺しを躊躇ったりしなければ‪──‬。

 守られてばかりだったのだ。それを思い知った。もう、なにもかもが遅いのに。

「手詰みか? その程度か? 確かに強力な力ではあるが、お前は恐らく、自分の力を過小評価しているのではないか?」

 この男はなにを言っているのだろうかと、由香理は思う。この眼は評価するだなんて、それこそが間違いなのに、と。


 この眼は、きっと、よくないモノだから。


 そしてまただ。また一瞬にして距離を詰められる。しかし、戦っているという意識がそうさせたのか、今度は見えた。この男は驚くほど無駄がなく、そして、単純に速いのだ。

 炎の中から飛び出して来た男だって速かった。速さだけならば大差がない。しかし、埋められぬ溝が、この男と爆ぜた男の間にはあった。

 初動を悟らせないほどに熟練した体術。

 同じ速さでも、根底からしてまったく違うのだと思い知らされる。由香理の戦闘に対する拙い表現で言うならば、〝急に来る〟という感覚がしっくりと当てはまるような、出鱈目な速さだ。

 積み重ねてきたものの年月が、質が違いすぎる。

「げはっ!!」

 今度は腹を蹴り上げられ、身体が浮き、地面に叩きつけられた。今、自分はどんな姿をしているのだろうか。寝巻で飛び出して来たのだ。あられもない姿になっていることだろう。


 きっと、お母様に怒られてしまう……。


「ふむ……」

 用心深い男だった。

 今でもほとんど無意識だったが、由香理は戦っていた。今の一瞬、蹴り上げてくる男の足に爪を立てようとしていたのだ。

 由香理は相当な深手を負っている上に、戦闘となれば、ずぶの素人だった。

 にも関わらず、由香理の目はこの短時間で男の軌跡を追い、蹴り込まれる足に抵抗の跡を残そうとした。

 もちろん、男はそのすべてに気づいている。だからこそ今度は安易に距離を詰めにはいかない。

 絶望的な経験の差だ。

 男は自分が呪術師であると名乗った。それがいったいどういう意味を持ち、どういう能力を有するのか、由香理にはわからない。

 しかし、由香理の眼が通用しないというだけが呪術師の意味とは到底考えられまい。

「なるほど、正真正銘の化物だな。私の知る限り、お前ほどのモノはそういるものではないだろう」

「……私は、化物ではありません」

 ほとんど言葉になってはいなかったかもしれなかったが、ここで初めて、由香理は男に声をかけた。

「お前が化物でなければなんだというのだ。同胞十五名、石楠花攻略には十分と判断した者だけを連れてきた。十五名全員がお前によって葬られたわけではないにしても、だ。お前の首など容易く落とす者たちばかりだったのは確かだ。それをいとも簡単に殺すモノを化物と呼ばずになんとする」

「あなたたちが、私たちを殺そうと、……殺そうとするからっ」

 立ち上がる。痛みと恐怖で身体が震えている。

「その認識は正鵠を射てはいない」

「私はお前を手に入れるためにここにいる」

「……………………えっ?」

 その言葉に、立ち上がろうとする身体からふっと力が抜けた。

「ようやく理解したようだな、化物。私はお前を殺すつもりなどない。お前を手に入れるためだけにここにいる。お前の家族も使用人も、すべて、そのためだけに殺されたのだ」

「そんな……」

「生粋の鬼種か、あるいは人の形をしただけの化物かなどは、この際どちらでもよい。ただ、お前は産まれてはいけなかったモノであり、生きていてはいけなかったモノだ。石楠花はそれを理解していたからこそ、お前をここに隠したのだ」

「そん、な……」

「知らぬか? お前は死産したことになっているのだ。その結果、お前の母は子を産めぬ身体となり、気がふれ、来訪者の一切の出入りは御免となった。表向きは、な。すべてはお前を、お前という化物を、隠すための作り話だ」

 今度こそ、敵意さえ失ってその場にくず折れる。


 ——私は。私が。私のせいで?

 この男が言うように、私が化物だったから?


 だから父と母も、皆も。

 男は言葉で由香理の心を砕こうとしている。

 由香理が自失に陥れば、。男が欲しているのは石楠花由香理の眼であり、その眼が備わっている肉体の心など、至極、どうでもいい。

「石楠花由忠に、香子。お前の両親、特に由唯は実に有能だった。だからこそ理解出来ぬ。このようなモノが産まれてくるとわかっていたならば、早々に堕ろさせるべきだったのだ。そうすればこのようなことにはならなかったものを」

 男の声音は一段と低く、それが事実だと告げるかのように響いた。

「親心かなにかは知らぬが、実に愚かだ」

 実のところ、男のその言葉には、かすかな淀みがあった。それはきっと憐憫であり‪──‬。

 父母が子を愛することを知る者の、絶望だった‪。

 しかし、由香理に男の感情の機微は届いていなかった。届くはずもなかった。男の絶望を知るには二人の出会いはあまりにも突然で、由香理は人の悲しみを知らなすぎた。

 そして、由香理の内に湧き上がってくるものがある。


 愚か‪──‬。


 父と母が、愚か……?

 こんな私を愛してくださった、父と母が愚かだったと、この男は言ったのですか?


 この男はこの男はこの男はこの男は‪──‬っ。


 敵意でもない。生存本能でもない。もっと陰惨でどす黒い、血と臓物が煮えくり返るような衝動が湧き上がってくる。

 この男は。この男だけは許せない、と。

 身の毛もよだったのは果たして、自身だったのか男だったのか。溢れ出る負の感情がまさに頂点に達そうとした時。

「ぐっ! ぐぬぅっ!!」

 男が吹き飛ばされ、それでもすぐさま身を立て直し、再び構えを取った。

 先ほどまで男が立っていた場所には、冬の山だというのに驚くほど軽装な、シャツとジーンズだけという長髪の女が立っていた。こちらに背を向けているので顔までは分からないが、自分と同い年くらいだろうか、二十代前半と思しき女だった。

 その背中を一目見て、感覚で理解する。戦いを知らずに生きてきた由香理でも、父の背中は見てきたのだ。

 この人は、とてもしなやかで、そして、呆れるほどに。


 強い。


「なにも間に合わなかったわね……」

 女が零した言葉が由香理の胸を突いた。そう、なにもかもが手遅れだ。

「江波恭子か……。では、が……」

 男は女を江波恭子と呼び、だが、その視線はすでに恭子を見ていなかった。

 状況についていけない。なにが起こっているのかがわからない。しかし、由香理の背筋が震えたことだけは確かだった。男が向けた視線の先、自身を呪術師と名乗った男の視線そのものに、燃え盛る炎よりも苛烈な怒りを感じたからだ。

 その怒りに込められたものは、父と母を愚かと罵られた由香理から溢れ出したものに、よく、似ていた。

「陸、どうする?」

 江波恭子と呼ばれた女の背中が問いかける。

「撤退する」

 声がした。いつの間にか、自分の視界の隅に青年が立っていた。吸い込まれるようにその横顔を見上げて。

「ひっ……っ!!」

 由香理の意識は、そこで途絶えた。怒りも憎しみも恐怖も、すべて闇に落ちた。

 陸と呼ばれた青年こそ、正真正銘の化物ではなかったか。

 。多くの死に向き合ってきた由香理こそが、生ある者の中で誰よりも、青年を理解したのかもしれない。

 その青年は、〝死〟を纏いすぎていた。


 まるで、呪われている、かのように。

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