第26話 マヌカンピス

 深い眠りでスッキリ早起きの俺は、窓際の席で陽光を浴びながら、いい気分に包まれていた。


 今日はずいぶんと身体の調子が良かった。


 いつも通りなら身体の調子が異様に悪くなるタイミングだ。謎の不定愁訴ふていしゅうそさいなまれて、うんうんうなってる頃なのだ。

 成長期から抱えてる慢性の持病が治ったのかと少し期待する。はじまりも突然なら終わりも突然かもしれない。前向きな考えにたどり着き、少しは板書ばんしょでもするかと顔を上げる。


 なんかやけに光がまぶしいな。俺は目をしばたかせた。


 昼休みになり、俺は席を立ち上がる。ピリッとした空気が教室にみなぎる。

 なんなんだよお前ら俺はなんにもしねえぞ、と教室を出てトイレに向かった。何か言いたげな児玉こだまを態度で無視する。

 クラスがずっとこんな調子だったので、トイレに出てなかったのだ。膀胱ぼうこうからまった小便を絞り出していると背後からどつかれた。


「カンジャーーーー!!」

「どわあっ!」


 小さな身体が俺の背中にしがみついていた。言うまでもない。声でわかる。匂いでわかる。ナンジャだ。ここは高校だぞ、おまけに男子便所だぞ。俺は前の壁に突っ伏しながら、非力な幼女に無防備な状態で襲われてなすすべもない。


「おぬしはなんでいつもいつも……」

「ナ、ナンジャっ、やめ、やめんか!」


「わらわをほったらかしにするんじゃーっ!」


 ベルトを掴まれぐいぐいと前後に押しつ戻しつを繰り返される。こんなザマにあっていても、小便は急に止まれない。俺は自身のホースを握りしめ、飛び散らないように無駄な努力をする。そんなの無理に決まってんだろが。俺はブラブラするおのれの先っぽを手で掴み、せめて前方のみに発射されるようもがく。手が生暖なまあたたかいものに包まれる。だが、制服が台無しになるよりはるかにマシだ。


「テレビを買うと言っておったのに、起きたらとうにおらん……」


 そんなこと言ってない、言ってないぞ。早く止まれ小便。


「探しにきたら呑気のんきに小便かーっ!」

「助けてくれーっ!」


 後ろに引きずられ、俺は小便を床に撒き散らした。ズボンを守るためにはそうするしかなかった。射線しゃせんだけは自身に向かぬよう。身体にかからないよう。ガニ股で腰を突き出して、あえて床にらすしかなかったのだ。


 も、もうダメだ。


 騒ぎを聞きつけた連中に、俺がちんぽ丸出しで幼女に背中から引きずられて床に小便を撒き散らしている姿を見られてしまった。一生の恥だ。水たまりができるほど床を濡らして、ようやく小便が止まった。


 水で流し床をみがき、トイレから出るとナンジャが女生徒に囲まれていた。どこ行っても人気者だなオイ。俺はかこみをやぶると、鉤爪かぎづめに手を伸ばした。その手首をガッシと受け止めるナンジャ。


「ぐぎぎ手は洗ったのかなのじゃががが……」

「身をもって知るがいいさ、とんでもねえ目に合わせやがって」


 俺の指は今にもナンジャの顔に突き刺さりそうだ。指先をナンジャの口内こうないに突っ込んでくれようと、さらに力を込める。


火馬ひまくん!」


 声の主を見た。もちろん沙希さきだ。きょを突かれた俺の手から逃れたナンジャが沙希のスカートに隠れる。


「沙希、そこをどけ」


 怒気どきをはらんだ俺の声に一瞬、沙希の顔が凍る。当たり前だ。俺はブチ切れている。これほどの怒りが俺の中にあったなんて知らなかった。それほどの屈辱を味わったのだ。


「怖いんじゃー、にいちゃんがおっかないんじゃー」


 ひっしとナンジャがしがみつくと、沙希は胸を張る。


「いもうとさんいじめちゃダメでしょ」

「いじめじゃない、しつけだ」

「うそなんじゃー、いじめるんじゃー」


 ナンジャの頭をつかもうとすると、沙希が全身でかばう。胸を掴みそうになった手をとっさに止める。胸の前で手をワキワキさせると、さしもの沙希も怒ったように顔を赤くした。


「なにしたの?」


 説明できるわけがない。あの場面がガキに振り回されるくらい無防備であることを、女に理解させるのは時間がかかる。


「ワルいワルいことをした」

「だからなにを……」

「にいちゃんはきのうから機嫌がわるいんじゃー。やつあたりされてるんじゃー」


 機嫌が悪いのはお前がテレビをカチ割ったからだ。しかも心を殺す方向で機嫌を損ねているのに、文句言われる筋合いなどないんだが。


「ところでこいつ……お前が連れてきたのか?」


 いつの間にかクラスの連中に囲まれてる。そらまあ、渦中かちゅうの二人が睨みあっていれば、気になって仕方がないだろう。だが、間になぜ銀髪の幼女が? と、興味津々の様子だ。そして、俺も二人の様子が気になった。いやに気安きやすい。そんな関係だっけ。


「校舎をうろうろしてたのよ。勝手に入っちゃダメでしょって言ったんだけど、どうしてもお兄ちゃんに会わなくちゃって、だから……」


「男子便所に案内したと?」


「もー! そんなはずないでしょ! 教室まで! そしたらナンジャちゃんがこっちだって」


 なるほど、なんとなく話が見えた。どうでもいいが、毒気どくけが抜けた。ナンジャ一人でも手に負えないのに、沙希まで加わるとなれば手がつけられない。ここはもう引き下がるしかない。


「わかった、もう怒ってねえよ」


 両手を広げると、すごい勢いで俺のベルトにしがみつき、背後に引っ張る。


「早く行くんじゃ!」

「どこ行くの?」


 と沙希。


家電量販店かでんりょうはんてんだそうだ」

「今から? なにしに?」


「昨晩こいつはゲームに負けたはらいせとやらで、リビングのテレビをカチ割ったんだよ。でもどうしても負けた連中が許せないと、テレビを買ってゲームの特訓し直すんだと」


「えーとそれは……あのー……」


「ゴチャゴチャうるさいんじゃ! さっさと行くんじゃ!」


「……とまあねこんなザマなんだが、何か言うことはあるか沙希」


 俺は沙希の目を見つめながら言った。


「ナンジャちゃん……」


 沙希が無表情で返した返事がこれだ。


「大きいテレビ買ってもらえるといいね」


 愛想あいそう笑いで誤魔化ごまかされた。俺はふっと笑う。まあなんだ、ナンジャ相手にエラい目見たが、おかげて沙希の表情がやわらいだ。怒ったり誤魔化したり、まだ少し硬いが、いつもの調子が戻ってきた。


 付き合いも長いからな。ギスギスした関係は望んでない。


「というわけで放課後、ナンジャとテレビを見に行こうと思うんだが……」


 俺は沙希に向けて言い放った。


「一緒に行くぞ。こないだのデートの続きだ。コブ付きだがな」


 クラスメイトがざわついた。みんなの前でデート宣言されて沙希は、目を丸くすると、困ったように目を伏せる。


強引ごういんだね、火馬くん。でも私、ナンジャちゃんと仲良くなりたいから……」


 それから顔を上げると照れたように笑う。


「仕方ないから、付き合ってあげる」 


 いつもの沙希だ。俺は安心した。


 だが放課後の家電量販店で思わぬ事態が起きた。クラスの連中がついてきてしまったのだ。

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