第二章 サキュバス

第21話 ムガール帝国

 ムガーーーーー…………ル帝国。

 ムガーーーーー…………ル帝国。


 いらん言葉が頭にこびりついてしまっていた。こういうのは一度取り憑かれてしまうとなかなか振り払うのが難しい。


 ムガーーーーー…………ル帝国。

 ムガーーーーー…………ル帝国。


 俺は呪文のように、その言葉を繰り返しながら、バーを引きつける。シーテッドロウというトレーニングを行うマシンだ。重量は重めに調節している。


わきを締めろ。肩甲骨けんこうこつを引きつけるよう意識するんだ」


 夏生なつおかたわらで見下ろす。モキンモキンの筋肉がうるさい。


「あと十レップ」

「ムガーーーー……」


 ル帝国と危うく口に出すところだった。俺は足を踏ん張り、背筋を引きしぼる。肩甲骨を引きしぼるように、全身から筋力を絞り出す。


 六回。あと四回もあるのか。

 七回。もう限界だ。

 八回。だめだ力が入らない。

 九回。腕がブルブルしてバーがびくともしない。


「いけるいける。最後の一滴いってきまで絞り尽くせ」

「ムガーーーーー…………」


 全力を振り絞っているのに、全身はプルプル震えるだけで、バーはびくとも動かない。


「根性だ」

「ンンンンンンンンンアアアアア…………」


 声を絞り出して、ジリジリとバーを胸に近づけてゆく。


「あと三十センチ」


 三十センチがあまりにも遠い。


火馬ひま。いけ」

「ぶはあっ!」


 最後の一滴だ。雄叫おたけびと共にバーを胸に引きつける。夏生がバーをつかみ、ウエイトをそっと下ろす。ありがたい。もう力が残っていなかった。そのままでは落下した重りがガチャンと大きな音を立てていたことだろう。

 ひっくり返ってゼエゼエと荒く息をつく。


「なかなか見込みがあるな」


 腕組みするだけで、筋肉がモリモリ動く。見てるだけで実にやかましい身体だ。


「最後の一発は良かった。肉食って牛乳飲んで寝たら、明日ガツンと筋肉がつくぞ」


 両腕を広げ力瘤ちからこぶを出す。学校と違って生き生きしてる。聞くと「筋トレでスタミナを使い尽くすから学校では生気せいきかない」だそうだ。趣味に全力の無気力教師というわけ。まあ、人それぞれだからとやかく言う気はない。


体幹たいかんが強い。バランスがいい。火馬がここまでやるとは正直思わなかった。なんで部活入ってないんだ。お前鍛えたらいいとこまでいくぞ」

「ダメなんすよ。定期的に身体が重くて動かなくなるんですよ。とても部活なんて」

「おいおい、なんだそれ、病院行ったのか?」

自律じりつ神経しんけい失調しっちょうみたいなことを言われるんですけど、原因はよくわからないです」

「そりゃ心配だ。きちんと検査した方がいいな、それ」


 あれ? そういえばこの件、病院行ったことねえな。と、今更ながら気付く。思い返せばおふくろの素人診断だ。病院行ってみるか。本気で考えた方がいいな。


「そんなお前がなぜスポーツセンターに?」

「ああそれは……」


 化け物に襲われたからです。殺されそうになったからです。次狙われた時に、逃げ延びる確率を1パーでもあげるために身体を鍛えることにしたんです。

 などとはとても説明できない。


「せめて身体を鍛えようと思いまして」

「関心関心。筋肉はいいぞ」


 背中がTバックみたいになってる露出の多いタンクトップで背筋を見せつける。いや、そこまでの筋肉はいらん。重たすぎて、逃げるのに邪魔だ。


今時いまどきは筋トレのコツを知りたければ、ユーチューブでいくらでもあされる。だが、対面たいめんは訳が違う。先生も体育教師。生徒へのアドバイスは職務です。平日の夜と休日のこの時間ならいつでもいるから、聞きたいことがあればいつでもきなさい」

「その時は頼みます」


 話半分に聞いた。そんな俺に夏生が話を続けた。


筋肥大きんひだいさせたいわけじゃないんだろう?」

「え?」

「先生みたいにボディビルやりたいわけじゃないんだろ?」

「まあ、そうです」


 逃げるための筋肉だからな。壁をよじ登ったり、フェンスを乗り越えたり。重すぎても困る。パワーは必要だが持久力もいる。


「それは賛成だ。スポーツやってないならまず全身の使い方を学ぶべきだ。さっきのシーテッドロウも……」


 夏生は全身を波打たせるような動きで動作をなぞった。


「全身運動としての動きをお前には教えた。身体が自由自在に動く十代は、身体の動きに合わせて筋肉を鍛えるべきだからだ。筋肥大を目的としたウエイトトレは若いうちはお勧めしないしない。なんでかって言うと……」


 夏生が俺の身体をしげしげと見つめる。なんだよその探るような目つきは。性的な感じはしないが、ムズムズする。


「高校生のパツパツの身体に膨張ぼうちょうした筋肉は似合わんから」


 大胸筋をムキムキさせながら言われても説得力がない。だが、言わんとすることはわからなくもなかった。なるほど、夏生は全身にフェチを感じているのだな。キレた肉体も、すらりとした筋肉も、おそらく、全体の見てくれにこだわりが強いに違いない。


 バーベルスタンドがいた。夏生はベンチを確保し、淡々たんたんとバーにプレートをはめてゆく。


「もちろん、ウエイトトレーニングは必要だ。若年層スポーツにおける傷害は、ウエイトトレを取り入れた方が少なくなるというデータもある。だがまずそれは、筋肉を動かしてからだ。身体を動かしてのち、足りない筋肉を見つけ、目的の筋肉にターゲットを絞り、ストリクトな動作で負荷を当て、筋肉を強化する。この繰り返しだ。だからまず、お前にはきちんと筋肉の使い方を教えてやるよ。先生も体育大学出身で、運動の専門家だからな」


 上腕がぼこりと盛り上がった。バーを落とすと、ぎりりと引き絞られた筋肉が、反発し、一気にバーベルを持ち上げる。


「ふし! ふし! ふし! ふし! ふし! ふし! ふし! ふし! ふし! ふし!」


 十発を終えてバーをスタンドに戻す。いち、にー、さん……。プレートの合計は片側50kg。両側で100kgか。すげえ迫力だな。マッチョの本気を初めて見たぜ。


「ぶほーーーーーーー」


 息を吐き、またバーを握る。


「ふし! ふし! ふし! ふし! ふし! ふし! ふし!」


 さらに2セット追加して、ベンチから立ち上がる。全身が真っ赤で湯気が立ってる。


「気持ちいい~」


 目がギラギラと輝いている。こんなイキイキした夏生は見たことがない。学校でのフヌけた感じがまるでない。見てくれと相まって暑苦しくて仕方がない。


「今日のベンチプレスは軽めだから爽快感そうかいかんしかない。下半身の日だからな。本番はこれから……」


 な、なんだと。本気ではないだと。今のが準備運動だというのか。

 夏生は腹に分厚い皮のベルトを巻き、バーベルの重量をさらに増す。もう重量は数える気にもならない。それを肩に担ぐと、ぐぐっと太腿が盛り上がった。


「ほす! ほす! ほす! ほす! ほす! ほす! ほす! ほす! ほす! ほす! 」


 すげえスクワットだ。熱がここまで届いてくる。モリモリと動く尻の筋肉がパンツを盛り上げて目が離せない。なんたる迫力だ。

 なぜこうマッチョを見るといろんな感情が湧いてくるんだろう。

 あこがれ、対抗心、劣等感、恐怖。おすの本能がいろいろなものを想起させるのだろう。


「ほす! ほす! ほす! ほす! ほす! ほす! ほす!」


 夏生は自分の世界に行ってしまった。俺にとってこの距離感はありがたい。必要な時は話を聞いてくれ、必要ない時には距離を置く。思ったより使い勝手のいい先生だな。


「カンジャー」

「おわっ! なんだお前」


 知らんまにナンジャが隣にいた。それどころではない。水着姿だった。ピンクのセパレートでヘソがちょっと見えていて、小脇こわきに浮き輪を抱えている。完全に浮いていた。


「おいおい、お前、ここはな……」


 俺は慌ててナンジャを抱えてルームの外にでる。トレーニングルームは子供の入室は保護者同伴どうはんでも禁止されているのだ。ウエイトが転がっていて危ないからだ。


「はやくプールにいくんじゃー」


 ニコニコ笑っているナンジャの姿を見て、俺は困ってしまった。まあいいだろう。ガキに現実を見せつけるのも、年長ねんちょうつとめだ。


 プールに移動した。


 屋内の50mプールはあじもない。そして部活動の高校生に半ば占領されていた。ストップウオッチを手に大声を出しているタイムキーパーの指示に従って、次から次へと飛び込んでゆく。休日に市民プール借りて練習するくらいだ。強豪校なのだろう。見るだに激しい練習だ。

 俺たちが行くとコースを開けてくれた。切れ間なく飛び込み続ける水泳部員たちは、ありがたい、という目を俺たちに向ける。コースが減る分、休めるということだ。相当追い込まれていたらしい。


 その光景を見て、ウキウキで浮き輪を持っていたナンジャから笑顔が消える。

 俺に水着はない。プールサイドでナンジャを見守るだけだ。

 フロートに仕切られた狭いコースを、浮き輪にしがみ付いてバタ足するナンジャ。無表情だ。

 隣のコースを、凄まじいクロールで波立てて泳ぐ水泳部員。泳ぐナンジャが少しずつプールサイドに近づいてゆき、側壁そくへきに当たる。ナンジャが泳ぎを止めた。


「思ってたプールと違うんじゃー……」

「だから言ったじゃねえか」


 遊びじゃねえんだ。これは生き死にを賭けた鍛錬たんれんだと。


「それにしてもお前、泳ぎは苦手なのか?」

「泳いだことないんじゃ~」


 そうなのか、あれだけ足の速いナンジャが浮き輪というのが違和感バリバリだった。泳いだことないなら、なんでプールをこんなに楽しみにしてたんだ。


「テレビでたんじゃ~楽しそうだったんじゃ~」


 なるほど、おおかた、遊園地のプール映像でも観たのだろう。だが季節的に遊泳ゆうえいプールはもう終わりだ。そしてここは競泳きょうえいプールだ。

 泳ぎを教えようにも水着がない。仕方ないから帰るか、と思ったが、向こうから、キャーキャー声が聞こえる。休憩中の女子水泳部員から黄色い声が上がっている。


 視線の先はナンジャだ。

 こんな場所でも目を引くのなお前は。


「かわいいね。いくつ?」

「名前なんていうの?」


 女子部員二人が声をかけてきた。


「なまえはナンジャなのじゃ。としは……」


 そういえばこいつの年齢知らなかったな。


「こんどやっつになるんじゃー」


 両手の指を広げてにぱーっと笑う。ほう、7歳か。幼女の年齢はよくわからん。

 女子部員が俺に視線をなげる。


「妹。血はつながってないけど」


 えーっ、キャーキャーと声が上がる。みんなこんな反応だな。なんだというんだ。


「泳ぎが苦手というんで連れてきたんだ。だけど水着を忘れてしまった。仕方がないから俺は見てるだけで……」


 女子部員二人の顔が輝いた。


「お兄さん、よかったら、私たちが教えましょうか!」

「え? 部活はいいんすか?」

「私らメニュー終えたんで、もう上がりなんです。部員多いから」

「ここも交代で使わせてもらってるんです」

「ならよろしくお願いします」

「おいカンジャ、わらわは何も言……」

「せっかくだから教えてもらえ。泳げて損なんてねえよ」


 俺はナンジャを女子部員に押し付けてトレーニングルームに戻った。


 もうもうと湯気を出してニッカリ笑っている見たこともない夏生に今後の方針を相談した。

 スポーツも部活もやってない。だから、目標が必要だ。筋力バランスと自重コントロールを課題とし、逆立ち立て伏せを目指せ、というアドバイスだった。


 そんなバカな、いきなり難易度高いぞ、的なことをやんわり告げたら、適切に積み重ねれば必ず届く、と教育者のようなことを言われた。そういえばこいつ教師だったな。


「テレビゲームのレベル上げのようなもんだ」


 具体的には、かべ倒立とうりつ、補助なし倒立、逆立ち歩き、逆立ち立て伏せ、と段階をめば良い……って言われてもなあ。

 あんたテレビゲームやるのかよ。ゲームのレベル上げはこんなキツいもんじゃあねえんだよ。


「アドバイスはこの辺で。パンプが冷めちまう」

 俺はムキムキ背筋を動かす夏生を置いてプールへ向かった。



 プールは静まり返っていた。部活の高校生が鈴なりにプールサイドで立ち尽くし、水しぶきを見つめていた。

 水を蹴立てていたのはナンジャ。すごい勢いで水を切り裂いていた。ターンして水底みなぞこだ。心配になるくらい浮いてこない。そしてイルカのように飛び上がり、大きく水をく。平泳だ。あっという間に、ターン、そしてバタフライ。すべるように水面をねる。


「おおおおお兄さんっ!」


 年増の女コーチがすっ飛んできた。


「ナンジャちゃん、私に預けてもらえませんか!」


 目が血走ってる。


「オリンピック目指せますよ!」


 オリンピックねえ……。ナンジャにはもう驚き飽きた。

 とりあえず本人に聞いてみないと。


「やじゃ」


 あきらめませんからねーねーねーねー……。

 女コーチの金切り声はプールによく響いた。

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