第19話 対決1

「わわわ……」


 俺はあわてた。あれほど日があるうちに家に帰ろうと思っていたのに、街が夕闇ゆうやみに包まれていた。駅前なのでひと気はあるが、このよそよそしさはなんだ。


 そもそもいつ日が暮れた?

 俺は何時間、ここで突っ立ってた?


 狐につままれるとはこのことだ。時間がジャンプしている。俺は何かの予感に背筋が凍る思いだった。



 ぞわり。



 それが来たのは、繁華街のど真ん中だ。気配の方向に顔を向ける。丈高たけたか黒尽くろづくめが、ぼんやりとそこにいた。

 目をらしてもよく見えない。顔を見ようとしても焦点が合わない。夢の中で像がぼやける、あんな感じだ。俺は人混みの中で頭から冷や水を浴びせられていた。


 ――逃げなければ。

 だが足が動かない。


 ――助けを求めなければ。

 だが声が出ない。


 影がゆらりと動く。近づいてくる。丈高く髪が長く、ポケットに手を突っ込んで少し猫背でゆっくりと歩いてくる。


 ばたり。と人が倒れた。影に触れたのだ。ふらり。と人がよろける。影に近寄ったのだ。それが歩いた後にバタバタと人が倒れてゆく。だが、誰ひとり影を見るものなどいない。


 固まってたたずむ俺から少し離れて、それが歩みを止めた。俺より頭ひとつ背が高い。硬直する俺の目の前で、横たわる白い三日月が、影の頭に現れた。笑ったのだ。


「ひああああああああーー…………」


 俺は声にならない叫びを上げた。それが引き金になって、全身のバネが跳ねた。転げるように走り出すと、路地裏に逃げた。人いきれから離れるのはどう考えても悪手あくしゅだが、理性などかけらしか残っていない。狭い場所に身を隠す、という原始の本能しか残されていいなかった。

 俺は走る。細い路地を滅多矢鱈めったやたらに走る。だが歩いてるそれがじわじわ近づいてくるのを感じる。俺は恐ろしさに耐えて振り返った。壁があった。その壁から、にょろり丸いものが覗き、顔が生えた。


「かっ……」

 壁を抜けた。俺は再び叫び声を上げた。


「はっはっはっはっはっ…………」

 俺は走る。影が追いかけてくる。


「はっはっはっはっ…………」

 影が真っ直ぐに追いかけてくる。


「はっはっはっ…………」


 壁など関係なかった。ある時は壁を抜け、ある時は半身を壁に埋めたまま、実体がないかのように俺に狙いを定めて近づいてくる。俺は行き止まりに追い詰められ、フェンスによじ登る。息もえで、力もないが、必死によじ登ろうとする。完全にパニックにとりつかれていた。


「むだだよ、坊や」


 声が聞こえた。


「もう逃げられっこないんだから、そこから降りといで」


 無機質な影から流れてきた言葉は、深みがあり、心地よく、たとえようもなくメロディアスな声音だった。

 空気は震えてないのに、魂がぞくりと震える。耳ではなく、直接、心に響いてくる。

 声は美しいのに恐ろしくてたまらない。俺は服従するかのように、フェンスから降りる。影と対峙たいじする。そこには拍子抜ひょうしぬけするほど普通に男が立っていた。


火馬ひまカンジャくんだったかな? はじめまして」


 名前のことなど今はどうでもいい。俺はそいつを見る。

 ヒョロリと背が高い。2m近いが大男という感じがしない。黒尽くめのスーツ。白いシャツ。ハイシャインの革靴。ウエーブのかかった髪を垂らし、山高帽を被っている。


 ぞっとするような美形だ。


 だが目を凝らすと印象がぼやけてゆく。

 老若ろうにゃくどころか、男女の差すら危うくなっていく。

 夢の中だ。これは夢の中に似ている。夢の中で手のひらを見つめても、視点は定まらず、形もとどめない。覚醒かくせいの時、試してみるといい。ちょうどあんな感じだ。


「いっとくけど、ぼくは名乗らないよ」

 そいつがニヤリと笑った。


「名乗っても無駄だからね」


 恐ろしい言葉だった。全身がガタガタ震えて、腰が抜けそうだ。かろうじてフェンスにすがりつき、へたりこむことを回避している。

 本能がガンガンと警報を鳴らす。恐怖が、プラグをスパークさせる。だがガソリンは着火しない。ピストンは動かない。エンジンはうんともすんとも言わなかった。


 これはもうどうしようもないのだ。人間の力ではどうにもならない。天敵、天災に見舞われるようなものなのだ。死という圧倒的な現実の前に俺はこうべを垂れるしかないのか。


「あの子はいないようだね」

「あ……あの子って……」


 俺は全力を振り絞って、ガチガチにこわばった声帯から言葉を絞り出した。時間稼ぎだ。一秒でも命が伸びれば、なにか手が生まれるかもしれない。なりふりかまってはいられなかった。

 呆気あっけにとられたように俺を見る。そいつの顔が唐突に像を結んだ。やはりゾッとするような美形だ。


「ぼくはね」


 なぜかそいつが語り始めた。俺の様子を見て仏心でも起こしたのか、いや、単なる気紛きまぐれだろう。なにしろこいつは俺の命に一文の価値も見出していない様子なのだ。


「めんどうがいやなのさ。だから君らにバレた時点でこの街を出ていってもほんとはよかったのさ。だけど……」


 ざすっとそいつの手がフェンスにめりこむ。


「あんなふうに挑発されたらぼくも面白くなってきちゃうわけさ」


 ベリベリとフェンスが紙のように裂ける。なんという力だ。力を込めたふうにも見えない。ひいいと情けない声を上げて俺はコンクリの壁際まで転がる。


 ん? まてよ?


「ち……ちょっと待ってくれ」

「おやおや……、きみ面白いね」


 何が面白いのか、全然理解できなかったが、とにかく俺は必死だ。相手の言葉など深く考える理性もない。俺はまくしたてた。


「……さっき街を出て行くと言ったな。お前は、このまま街を出て行くつもりがあるってことか」

「ほう……」


 なんか感心されてるようだ。そいつが近づいてきて、うずくまる俺の頭上の壁に手をついた。パラパラと何かが落ちてくる。コンクリの砂だ。そいつの手が、壁にめり込んでいた。すっと気が遠くなった。


「そうだよ。そもそもぼくは人の街で暮らしている。だけど、見てのとおり普通じゃない。だから時には摩擦を起こすこともあるさ。だけどなるべくお目こぼしして欲しい。なぜなら、ぼくと本気でことを構えたらきみらもめんどうだろう? そんなときはぼくもすぐに身を引くつもり……だったんだけどね……」

「つ……つまりどういうことだ…………」


 俺は懸命に言葉を紡いだ。嫌な予感が止まらない。


「あんな宣戦布告されたのひさしぶりだったからさ……」

 そいつがくすりと笑う。おわあ、なんてことだ。予感が的中してしまう予感。


「ぼくもたぎっちゃってさ」


 おおおおおおおういいいいいい! ナンジャアアアアアアア!


 てンめぇ余計なことしやがったなッッ!


「それに君らだろ。なりそこないとはいえ、僕のにえめっした。ぼくはね、こうみえて興奮してるんだよ。そんな人間はついぞ現れなかった。このうつろなる畢生ひっせいに……夜を告げにきただなんて……」


 うっとりとして身悶みもだえるそいつに、俺のはらわたが煮えくりかえる。

 ぬがあッッ! つまりこいつは何もしなければさっさとこの街を出てったってことか! 絵に描いたようなやぶへびだッ! ナンジャめ! あのガキのつまらん挑発のせいで俺は殺されかかってるってことか! 状況の読めないクソガキャー!


「あの子に会いたいね」


 そいつの手が、俺の髪を撫でた。瞬間、世界が暗転した。


 ぐらりと地面がかたむくと、俺の顔を打ちえる。全身から冷や汗が吹き出す。急激に低下した体温を温めようと、筋肉が痙攣しようとするが、その力すら残されていない。視界が暗く、頭の中に海鳴りのような音が響き、耳も聞こえない。

 何かを吸われたのだ。

 おそらく血に替わる何か。街中でこいつの周囲で倒れゆく人々の姿を思い返した。


「きみをにえにしたらあの子はどんな顔するかな」


 そーかー、ナンジャが呼んだ眷属けんぞくをこいつら贄と呼ぶのかーと頭の隅でぼんやりと考える。つまり俺が吸血鬼の下僕になるということか。そいつはどう考えても勘弁だ。


「ぬおあっ!」


 俺は悪夢から覚める時の要領で、筋肉に渾身の力を注ぎ込んだ。シャツの胸を引っ張ると、ボタンが弾け飛ぶ。


「……ほんとうにきみは面白いね」


 仰向あおむけに転がる俺の手にはおふくろのお守り。十字架のネックレスだ。しっかとそれをそいつに向ける。

 こいつらは陽光を嫌う、とナンジャは言った。だから俺は日が暮れる前に家にたどり着こうとしたのだ。テンプレ通りの吸血鬼じゃねえか。なら十字架も効き目があるかもしれない。


「……ぼくたちはね、たしかに日の光が苦手だ。ニンニクも嫌いだ。だけどね、それは、知覚が過敏かびんだからなんだよ。光はまぶしくて、ニンニクは臭い。あと肌が敏感だから、日焼けが痛い、それだけなんだよ。我慢すればどーってことない。ましてやこんな……」


 つ、んだ。


 吸血鬼にの光もニンニクもかないだと? となれば十字架も……。



「ぎゃああああああああおおおおおおおおお!!」



 この世のものとは思えぬ悲鳴をあげてそいつがのけぞった。白目を剥いたまなこは見開かれ、顔面がめくれるくらい口を開き、牙をいて獣のように吠える。


「ううおのれえええ! おのれええええええッッ!」

 しゅうしゅうと煙が上がる。十字架に触れた右手首が消えている。


 しめた! 効いてるじゃねえか!

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