第18話 日没デッドライン

 放課後。

 俺は一刻いっこくも早く帰らなければならないのに沙希さきに掴まってしまった。


火馬ひまくん、文理ぶんり選択せんたく調査用紙の提出がまだなんだけど」

「親が出張で出せない」

「保護者の了承りょうしょうは必要ないわ。調査用紙なのよ。ガイダンスや面談もまだなんだから」

「えーと……プリントどこだっけな……」

「火馬くんが提出してくれないと、わたし困るんだけど」

「ちょっと急ぐんだ。適当にごまかしておいてくれ」


 立ち去ろうとする俺の腕に沙希がしがみつく。


「毎回こんなこと繰り返してるような気がするんだけど」

「そうだっけ?」

「それともわたしを困らせて気を引こうとしてる?」


 沙希が悪戯いたずらっぽく笑う。いつもの調子だが、今日は付き合う余裕などない。


「たかがプリントじゃない。後で考えて直しても良いんだからとりあえず提出して」


 俺はカバンからプリントを見つけ出すと、『理系』と書き込む。


「理系? 火馬くんは理系に向いてないと思う。論理的じゃないし気分屋でしょ。書き直したほうがいいよ」


 と沙希は俺の調査用紙に、ゴシゴシ消しゴムをかけてしまう。


「なにするんだよ」

 とはいえ決め切れないのは事実。


 俺の成績は、実にムラがある。国語はかなり出来る。英語はちょっと苦手。歴史はそこそこ。数学はまあまあ。物理はそこそこ。化学は苦手。生物は抜群。実に中途半端だ。


「火馬くんなら英語だけ頑張れば良い大学狙えるよ。ね。文系にしよ」


 うーん。まあいいか。もう少し考えて、したけりゃ変更すれば良い。俺は『文系』と書き直して沙希に渡した。


「ねえ、何をそんなに急いでるの」

「メガネを買うんだよ。そして日が暮れる前に家に帰り着きたい」

「メガネ? 火馬くん、目、悪かったっけ?」

「悪くはないが必要なんだ。イメチェンだイメチェン」

「なにそれ?」


 沙希が笑う。そして俺の腕を取ると職員室に引きずってゆく。


「おい、俺は一刻も早くだな……」

「付き合ってあげる。こう見えてわたし、メガネはベテランなんだ」


 見りゃわかるよ。そういうことを言ってんじゃねえ。俺は日が暮れる前に家にたどり着かなきゃならないんだよ。放課後の廊下を沙希に手を引っ張られてるとくさいやら恥ずかしいやら……。俺はすっかり逃げ出すタイミングをしっしてしまった。おい、ジロジロ見てんじゃねえよお前ら。


「これどう?」

「こんな高いのじゃなくていいんだよ、伊達だて眼鏡めがねだし」


 沙希が小首こくびをかしげる。


「なんで伊達眼鏡が必要なの? なにかあった?」


 吸血鬼に狙われてる。生命が危ない。変装へんそう用だ……などとはとても説明できない。頭がおかしいと思われるだけだ。

 沙希に心配かけるのは、俺の本意ほんいではない。


「真面目に受験勉強しようと思ったんだよ」


 えー、と言って沙希がまゆをひそめる。


「火馬くんはそのままがいいのに」


 と言って俺に眼鏡をかける。鏡を見ると黒縁くろぶちでやや大きく、真面目そうなフレームだ。なにより顔をおおう面積は、大きければ大きいほうがいい。


「これにするか。勉強できそうな顔だ」

「じゃあしっかり勉強しよっか。わたしがみてあげるね」

「勉強はまた今度だ。まずは形からってな」

「なに言ってんの!」


 叩かれた。


「真面目にやりなさい。ほら、会計いくよ」


 値札を見て顔をしかめた。予算オーバーだ。安売り店で良かったのに。


「クーポン使わせてください」

 沙希が割引券を出す。おいおい、俺の買い物だぞ。


「レンズはいらないんです。伊達だてなんで。このままで包んでくれますか? ポイントは貯めます」


 なんと25%offのクーポンだ。五千円ももうけた。それでも予算オーバーだが、儲けたという気分の方が大きい。これはいい買い物ができた。

 店を出て沙希に言う。


「茶でもおごらせてくれ」


 沙希はキョトンとした顔をする。


「だって急いでるんでしょ? 早く帰らなくていいの?」

「そんな事情より、お前をこのまま帰す方が俺がすたるぜ」


 まだ日が長い。一時間くらいならなんとかなるだろう。


「いいの?」


 沙希の顔がぱっと輝いた。


「どこ連れてってくれるの?」

「どこにすっかな。駅前のスタ……」

「駅向こうのエクセルシオールにしよ」


 ずいぶん遠回りだ。だが俺んちは向こう側だ。なら異論はない。

 うふふと笑う沙希。ずいぶん嬉しそうだな。


「ねえ。さっきのメガネかけて見せて」

「これでいいか?」

「眼鏡ってひとみが小さく見えるのよ? ほら」


 沙希が眼鏡をずらした。黒目がちな沙希の瞳は、予想以上に大きかった。初めて見る沙希の新鮮な魅力に思わず心臓がねる。


「お前、目が大きいな」


 だが俺はそんな様子はおくびにも出さない。破壊力のあるその視線を真っ直ぐ受け止め、さらに顔を近づけてのぞむ。

 沙希がれ笑いを浮かべで身体を引いた。よし勝った。


「でも火馬くんのメガネは伊達だから、目の大きさが変わらない。安心した」


 そりゃどうも。俺は眼鏡をくいっと指でつまむ。


「かけづらかったらお店に行けば、いつでもフレームの調整はしてくれるから」

「そうなのか、メガネのことは全然知らないから正直助かる。値段のこともな。正直、予算オーバーだったがいい買い物ができた。でもいいのかあれ、ずいぶん割引率の高いクーポンだったが……」

「クーポン期限、あと少しだったの。財布に入れといてよかったわ。火馬くんは安く買い物できて、わたしはポイントがついて、ウインウインでしょ? それに……」


 沙希が悪戯っぽく笑い、俺のそでを引っ張る。


「ねえ、こっち向いて」

「ああ……?」


 カシャリと写真を撮られた。スマホの画面を見せてくる。


「ほら、メガネ似合ってるよ」


 ふむ。沙希のスマホをのぞこうと近づくと、隣にきてスマホを前方にかかげる。カシャーッとシャッター音がした。

 そのまま身をひるがえすと、ショーウインドウ内でデコレーションされた鏡に並んだ二人の姿を映して笑う。


「このメガネ。おそろいなんだよ?」


 や、やめれ。カップルみたいに人を映すな。デザインは微妙に違うが、どうやらメーカーは同じらしい。ペアルックで本当に嬉しそうに笑う沙希の笑顔に、俺は心をつかまれっぱなしだ。


「私ね、制服デートにあこがれてたんだあ」


 沙希がたたみかけてくる。俺はもう防戦一方だ。エアドロップされたツーショット写真を見下ろしたまま、沙希の顔を見返すこともできない。


「そりゃ光栄だな。お前にデートの相手と思ってもらえるなんて」


 俺はそう返すのが精一杯だ。が悪いにもほどがある。ここまでめられるなんて思いもよらなかった。沙希のにおいが鼻をくすぐり、俺はくらっとなった。そんな俺にくすっと笑う沙希。


「ね、火馬くん」

「な、なんだ沙希」

「手、つないでいい?」


 今日の沙希はどうかしている。俺はさっきからやられっぱなしで、反撃の糸口いとぐちすら掴めない。本当に調子が狂う。今日の沙希は魅力的すぎるのだ。


「ダメだ」


 スキンシップはダメだ。こうやって腹を探り合うのはいいが、触れ合ってしまっては、何かが壊れてしまう。


「え? あ、えっと……そか」


 冗談めかしていた沙希の顔が一気にかげった。言葉に間髪かんぱつ入れなかった俺が、思いもよらなかったのだろう。

 おいおいそんなガチな反応は望んでないぞ。この落差らくさに、俺は防波堤ぼうはていを壊さざるをえなかった。

 俺は沙希の手を握る。


「俺から繋ぐのはアリだ」

「火馬くん……」

「今度は俺が手を引っ張る番だからな」


 さっきの表情とは裏腹に、沙希が照れ笑いしながら、ぐいぐいと手を引き戻そうとする。離すもんか。これは職員室前でのお返しだぜ。


「冗談なんだよ? 手を繋ぐなんて……」


 夕方の駅前は人通りが多い。制服姿の俺たちはそんな中を手を繋いで歩く。絵に描いたような高校生カップルだ。


「さっきのお礼だ」


 これは二重の意味を込めてある。意趣返いしゅがえし、と、言う通りにしてやる、の。


「恥ずかしいよー」


 といいつつ、沙希も本気で抵抗しない。たかが手を繋ぐだけだろ? どーってことないぜ、こんなもん。


 初めて握る沙希の手は、思いの外小さく、柔らかく、そして肌触りがよかった。かすかに冷たい皮膚が、俺の温度と混ざり合ってゆく。体温と指先の動きが、お互いの気持ちを伝えてしまうようで実にスリリングだ。


 女と手を繋ぐ行為がこんなに生々しいとは思わなかった。しかも相手は沙希なのだ。はっきり言って、見てくれも良い。性格も良い。俺にとってちどころのない女子なのだ。平常心を保つなど不可能だ。だが俺はつとめて心をたもつ。

 時々、俺は沙希の魅力にあらがえなくなる。こうやって沙希と腹を探り合うようなレクリエーションを続けていて、沙希の存在が俺の中でどうしようもなくふくれ上がる時があるのだ。そんな時はいつもこう思う。


 ――俺はなぜ、沙希と付き合わないのだろうか。


 ここまで仲が良く、気が合って、女子として申し分のない沙希を、彼女にしないのは不自然すぎる。沙希にその気がなくても、こちらは努力すべきだろう。

 だが、そんな気持ちが長続きしないのだ。そしてまた軽口かるくちを叩き合う関係に戻る。


 俺の何かが、沙希との関係におびえているのだろうか。月並つきなみな表現だが、今の二人を壊したくない、なのだろうか。

 少しずつ前に進んでいるような気もするが、二人の関係はまるで寄せては返す波のようだ。

 俺は思わず沙希を見返して、ぎょっとなった。


「どどうしたの火馬くん」


 余裕ぶった表情のくせに、沙希はほんのり汗ばんで、耳まで赤かった。気持ちが隠し切れていない。それなのに必死で隠そうとしている。

 ドキュンとハートをつらぬかれた。これはもう反則級だろ。


「沙希……」


 俺は心の何かが壊れる音を聞いた。


「カンジャさーん!」


 おや? 入院中の病人でも逃げ出したのかな? と思ったら二人のJKギャルが走ってきた。

 ミキとマコだ。赤毛のナルはいない。


「カンジャ?」

 沙希は不思議顔。


「ああ、あだ名だ。ナンジャの兄貴だからカンジャ……こいつらは……」

「おにーさんの愛人二号っす」

「ウケる」

「愛人……」

「どもっ! ウチらミキとマコ。おにーさんとはナンパで知り合いました」

「ナンパ……」

「ナンジャちゃんともダチやってまーす、チョーーー仲良しっつーか兄妹ぐるみの付き合いっつーか」

「カラオケ盛り上がったスねーー!」

「おー! おにーさんまた行きましょー! 今度の土日どーっすか?」

「行こ行こ! 姉貴の会員証借りるんでオールもオケっす! 一晩一緒に過ごしましょー! 寝かせませんよー?」

「カラオケ……」

「それにしてもおにーさん、すみにおけないっすねー。彼女さんっすか?」

「おにーさんヒドいっす! 彼女さんいるのに、ナルとうちを口説くどいたんっすか! とんでもないタラシっすね!」

「ギャハハ、あーし、くどかれてねっすわ、女扱いされてねー。かてん。草」

「口説……」

「愛人一号ナルが泣く! あ、写メって証拠保全ほぜんっす」


 何のことわりもなく写メをるマコ。しまった手を繋いだままだ。


送信そうしん~」


 送信してしまったのか。そうか。


「じゃーねー、おにーさん、デートの邪魔しちゃ悪いんで浮気相手は去るっす!」

「今夜もラインで盛り上がりましょー」

「ライン……」


 台風が去った後は青空とはいかなかった。あいつらは特に嘘は言っていない。なので訂正ていせいができない。それがどれだけ恐ろしいことか。


「……まったくうるさいJKどもだぜ」

「JK? あれ理有りう中の制服よ?」


 げ! あいつらJCだったのか! すっかり誤解してたぜ! 中坊ちゅうぼう化粧けしょうすんな化粧! スカートも短すぎんだよ!


「火馬くんってナンパとかするんだ」

「違う。ナンパは俺がしたんじゃない」

「ふうん……。つまり火馬くんは女子中学生にナンパされてホイホイカラオケで盛り上がったってわけなのね」

「…………」


 えーと……時系列じけいれつはどうだったかな。ナンジャが記憶をいじったり、口裏くちうらあわせたり、あの日の出来事がどういうことになっているのか、とっさに思い出せない。


「わたしもナンジャちゃんと仲良くなりたいって言ってたのに……」

「ああ、わかった約束だ。こんど一緒に遊びに行こう」

「女の子口説いたって……」

「それはほれあれだ、お前とだっていつもこうやって軽口叩きあったりしてるだろ。お遊びだ。ちょっとふざけただけさ」

「ふうん、つまりこれも、火馬くんにとっておふざけなんだね」


 沙希が繋いた手をらす。握った手が石のように感じた。空気は冷たいのに、なぜか炎を隣に感じる。灼熱しゃくねつした木炭の放つ燠火おきびのような静かな炎だ。俺は勇気がなくて沙希を直視できない。


 ポケットからピロン、と音が鳴った。俺は動けない。すると立て続けにピロンピロンと音がする。ちょっと考えて、これがラインの着信音だと気づいた。一向いっこうに鳴り止まない。


「女子中学生と毎晩ラインだなんて、火馬くん、楽しそう」

 確かに楽しかった。否定できん。


「ライン出たら」

 なにやらぞっとする声音だった。


「ナルさんの誤解、解いてあげなきゃ」


 繋いだ手から相手の気持ちが伝わってくる。実にスリリングだ。戦慄せんりつ的だ。

 ええい、俺にはやましいことなど何一つない。俺はえいやっとスマホの画面を開く。


『うおおおおい、少年! 結婚してくれええええ!』

『少年! 独り身はもういやじゃあああ!」

『ナンジャちゃんを妹にするんじゃあああ!』


「………………」

 『鈴子アラサー(婚活中)』なるなぞアカウントが魂の叫びを電子の海に放っている。誰だと一瞬首をひねったが、なるほど、あのアパレルの店員か。さっするところ今日の休日、婚活こんかつでヘタをこいたと見える。南無なむ南無なむ


 それにしても随分ずいぶんいさぎよいアカウント名だ。みずか背水はいすいじんにおいているのだろう。その意気いきは良いが、こうやってヘタこきゃピエロよな。感心感心。


「年上のお姉さんからプロポーズかあ……。女の子の知り合いたくさんいるんだね。わたし火馬くんのこと、全然知らなかったみたい」


 沙希がスマホをのぞき込んでいる。おいおいマナー違反だぞ。だがそれをとがめさせぬ空気だ。沙希が手をほどいた。


「火馬くん、わたし帰る」


 にっこり笑って振り返る沙希。その笑顔はいつも通りで、俺はほっとした。が。


「おともだちの女の子たちとなかよくね、さよなら」


 おためごかしの愛想あいそう笑い。笑顔に何の感情もこもっていない。クラスメイトや教師に向ける笑顔と同じ。


「うーん……」


 沙希が背を向けて行ってしまった後も、俺は呆然ぼうぜんと立ち尽くす。

 なんというか……言うに言われぬ複雑な気分で、俺ははらわたが煮えくり返っていた。

 あのままあいつらが現れなかったらどうなっていたか、だが、あいつらが現れたせいでこうなってしまった。もし何もなければ、俺は沙希との間には何かが起きていただろう。


 きにせよしきにせよだ。


 それを台無だいなしにされたことを怒る俺もいて、ほっとする俺もいて、もうどうして良いかわからない。完全にアンビバレンツだ。

 俺はカッカする頭を抱えたまま商店街を行きつ戻りつする。頭は全然働かない。いらん感情が渦巻うずまいているだけ。


 俺はとんでもないあやまちを犯した。気がつくとすっかり日が暮れていたのだ。

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