4話:何気ない日常と

「雨というのにも、様々な呼び名があるのはご存知でしたか? 例えば涙雨。まるで悲しみの涙のようにほんの少しばかり降る雨のことを指して言います。少しだけ降っている雨を小雨というより、涙雨と言ったほうがなんだかお洒落な感じがしませんか?」


 涙雨というには強すぎる雨の日。

 あなたはいつものように雨草悠々亭にて珈琲のカップを傾けていた。

 悲しみを体現するかのような雨を涙雨というならば、今日は号泣雨とでも言うのだろうか。そうあなたがぽつりと漏らすと、店主がふふっ、と小さく笑った。


「号泣雨、ですか。そうですね……私なら、啼泣雨、とでもいいましょうかね」


 そう言って、店主は窓を強く叩きつける雨を見る。


「悲しみというのは、様々な形で現れます。膝をつき、顔を覆い、声を上げて泣くことはそう悪い事ではありません。心の中で泣くよりかはよほど健全と言えるでしょう」


 あなたはその言葉を心の中で反芻するかもしれない。

 学業にしろ、仕事にしろ、泣き言なんていってられない忙しさ。苦しい思いをしたとしても、日々は十分に泣く余裕すら与えてくれない。そうして泣かないことに慣れた結果、泣くだけの余裕ができても泣けなくなってしまった。そんな人はきっと多くいることだろう。もしかしたらあなたがそうなのかもしれないし、あなたの身の回りの人物がそうなのかもしれない。

 それでは、この店主はどうなのだろうか。じっと見詰めてみると、その視線に気づいた店主が察したように答えた。


「私は、もう、泣けるほどに人生に彩はないのですよ。今は余生のようなもの。空に瞬く星のひとつひとつを、慈愛の目で眺めているような立場です」


 店主の姿は一見して20代後半の優男だ。これに片眼鏡と白い手袋でも着ければ、執事であると言われてもなんら違和感はないことだろう。

 そんな店主が現在を余生と答える。それに関しては、分かりやすいほどに違和感であった。


「おや、どうされました?」


 ごく自然体で笑いかけてくる店主にあなたは何でもないと答える。

 果たして店主があなたの疑問に気づいて微笑みかけているのかはあなたには全く分からない。詮索していいのかしないほうがいいのか。

 店主と出会ってからそれなりの時間が過ぎているが、それでも完全に気安い関係、とまではいけていない。中途半端な気安さとでも言おうか。だから、あなたは時々店主との距離感に困ってしまう経験があったかもしれない。

 今は詮索しない方がよいのだろう、とあなたは喉元まででかかった疑問を冷めかけの珈琲と共に胃の中へと流し込む。

 ほっと息をつき、店主におかわりを頼む。

「かしこまりました」と言う店主は作業の傍ら「ああ、そうだ」と口にする。


「晴々青風古物雑貨店の店主である古桂さんから伝言を頂いているんでした。『そろそろ来てくれてもいいんじゃないかなぁ?』と。ちょっぴり拗ねておりましたよ」


 その言葉にあなたはしまったと顔を顰める。それは、純粋に行くのを忘れていたからかもしれないし、行く機会は何度でもあったのに行かなかったからかもしれないし、時間が経って古物への興味が薄れていたかもしれない。はたまたここ最近は忙しくてなかなかここにくることすらできなかったからかもしれない。

 いずれにせよ、是非来てほしいと誘われて雨草悠々亭にしか顔をだしていないというのは人道的にちょっと意地が悪い行動だろう。

 あなたの顔をみて店主は苦笑いのような笑みを浮かべた。


「てっきりもう一度は行ってらしたかと思っておりましたが、まだだったのですね。正直意外でした」


 咄嗟に言い訳を口にしようとするあなたに「すみません、意地の悪い言葉でしたね」と店主が謝罪を口にする。


「彼女も、来てくれないことに対する拗ね、というよりははやく古物のすばらしさを伝えたい、といったものでしたので、そう自責を感じる必要もないと思いますよ」


「私たちは一期一会の出会いが多く、一度会ったお客様と二度と会えない、というのも当然でしたから」と付け加えるように店主が言う。


「もしかしたら、古桂さんにとってもあなたとの出会いは一期一会で終わらせたくはないのかもしれませんね」


「お待たせしました」と目の前にカップが置かれる。


「恐らくこの時期はあなたも忙しいでしょうから、暇がありましたら行ってみてはどうでしょうか。きっと、あなたなら特別価格で売ってくれると思いますよ」


 確かにこの時期は、あなたが学生なら期末のテストや課題、あなたが社会人であれば年末に向けて追い込みが始まっている頃だろう。

 あなたは頷くと心のメモに書き記した。

 そうして話題もいったん止まり、淹れたての珈琲にほっと息を零していると、そういえばと、あなたは店主に聞くことを思い出すだろう。

 前に晴々青風古物雑貨店の店主から何を買ったのか、といった旨を。


「ああ、それですか。私は新しいカップをいくつかと、それとこれを」


 そう言って、店主がカウンターに何かを置いた。

 真鍮で作られた木の形の置物だった。


「何でも、才のない青年が全生涯をかけて完成させた傑作なのだとか。勿論、青年の中で、ですが」


 それは、一見すればただの木だった。可もなく不可もなく。まさに森に行けば生えているだろう何でもない木。

 失礼を承知で言うのであれば、普通、という感想であった。


「それが良いのだそうですよ」


 まるであなたの顔がそう言っている、とでも言いたげにあなたを見詰めて店主が言った。


「彼が目指したのは限りなく自然な普通。創作の中に入り込む幻想や希望を限りなく排して、本物と遜色ない普通を目指して作られたのだとか。私はその話に感銘を受けましてね。それこそ普通、才のない者は自身に幻想や希望を抱かずにはいられないものです。それが砕けて絶望の淵を辿ることもままあることでしょう。それはきっと、創作の世界にどうしようもなく影響することです。苦しみを消化できず、精神を病んだ画家が描く絵は一種、生理的な恐怖を喚起するように、狂気にまみれた彫刻家がおどろ恐ろしい偶像を作り出すように、作り手の心が創作物に影響を与えるのです」


 有名なアーティストも、いや、有名になるほどだからこそ、人は創作に狂気を孕むのかもしれない。


「もし、自分に才はないのだと気づいてしまったらどうしましょうか。ある人はそんなことはないと否定し、自身の能力を過度に評価することになるでしょう。ある人は自分の人生に絶望し、惨めな心境のままその生涯を終える事でしょう。では、この青年はどうであったか。恐らく、認めたのでしょう。自分には才がないのだと。しかし、才のない人間はこの世界にいくらでもいる。いくらでもいるならば、自分は至らない人間なのではなく、平均的な普通の人間であると。だからこそ、幻想も期待も、絶望も排したありのままの姿を作り出すことで、これが普通の基準であるというのを証明したかった。私はそんな普通の証左の為に汗水たらした彼に感動してこの置物を買ったのです。……なんて、こんな考察はいかがでしょう?」


 それは事実でなかったのかと、あなたは堪らずつっこんだかもしれない。

 だとするならば、店主は面白そうに笑った事だろう。


「真実なんてわかりません。もしかしたらこれは正真正銘才能がないながらも必死に作りだしたものかもしれませんし、感性のズレか、これを本当に傑作と信じてやまなかったのかもしれません。しかし、何でもないただの人のことなんて、知る術もないでしょう。だからこうして、勝手に解釈して、勝手に大事にする。そうすれば、私にとって、この木の置物は価値あるものになるのです」


「そもそも、古桂さんがどこからか仕入れてきたものですから青年云々の真偽すらあやふやですが」と店主は肩を竦めた。

 あなたはそっと木の置物を手に取ってみたかもしれない。目を凝らしてみれば、木の筋のひとつひとつが手彫りであることがわかるだろう。

 銀色に鈍く輝く置物はひんやりとした冷たさをあなたに与える。

 もし、店主がいう考察が本当の話であったならば、青年は青年なりに求める未来があったのだろう。そのために奔走したならば、青年の人生はそれなりに充実していたのかもしれない。これもまた、人生の彩というものだろう。

 ……だからこそ、なおのこと、店主は惹かれたのかもしれない。泣けるほどに人生に彩はない、そう店主は言ったのだから。


「あなたには、夢がありますか?」


 ふと、店主がそのようなことを聞いてきた。


「何でも構いません。こんな人生を送れるようになりたい、というものでも、こんな人間になりたい、でも、こんなやりたいことがある、でもなんでも。あなたは、自分の将来の色をお持ちですか?」


 あなたはそれになんと答えるだろうか。ある、と答えるだろうか、ない、と答えるだろうか。候補はいくつかあるが決められない、あるにはあるがとても叶えることができるとは思えない、などどちらかと言えない回答をするだろうか。

 あなたによっては、千差万別の思いが存在することだろう。

 そして、あなたなりの答えを口にしようとして——その前に「すみません」と店主が謝る。


「少々、深くいりこんだ質問でしたね」


 人によってはそうかもしれない。しかし、あなたにとってはそこまでいりくんだことでは、と反論するかもしれない。

 将来の夢というのは、語ってこそ形のはっきりしてくるもので。ただ、胸の内にしまい続けたままでは相当な重荷になってしまうことをあなたはよく知っている。

 その内容がよほど人に聞かれたくないものであれば、隠したいという思いは当然だが、店主がそんな撤回するほどのことでは、とあなたはそういった旨の言葉を口にするかもしれない。


「いえ、聞くべきことではないのでしょう。あなたがご自分のことを若いと思っておられるか、歳をとっていると思っておられるかは分かりませんが、前者であればまだまだ形を変える可能性を秘めた原石のようなもの。後者であればあなたがあなたなりに時間をかけて育てていった宝石のようなもの。どちらにせよ、聞くのであれば、しっかりと真剣な態度で聞きたいと思いましてね」


「変わり映えのない喫茶店の中で聞くのは味気ないでしょう?」と店主は茶目っ気をこめてウインクする。


「だから、もし、夢をお持ちであるならば、また今度、何かの節目にでも教えてください。その時には、今とはまた異なった夢が語られるかもしれませんから」


「さて」と店主は窓から空を見上げた。

 あなたもつられて外をみやれば、雨は弱まるばかりか、どうも強くなっているようだ。

 これではとてもでないが、珈琲2杯も飲んだことだし、そろそろ帰ろう、という気分にはなれない。


「遣らずの雨、というものですね。それではどうでしょう、新しいブレンド珈琲を考案してみたのですよ。お代は結構ですから、よろしければ試飲をお願いできませんか?」


 勿論、とあなたは答え、カップに残った珈琲を飲み干した。

 こうして、なんでもない一日が粛々と過ぎていく。

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