2話:安堵の一幕

 夢か現か、そのどちらの境界に自分が存在しているのか分からなくなった体験をしたことがあるかもしれない。

 断片的に聞こえてくるのはカトラリーが重なる音、お湯が注がれる音。雨が窓を打ち付ける音。椅子が引かれる音。

 時間の感覚は曖昧で、あなたは微睡みの感覚を漂っていることだろう。

 しかし、やがて香ってくる珈琲の香りにあなたはゆっくりと目を開いた。


「お目覚めになられたのですね。お加減はどうでしょう?」


 店主の声が傍で聞こえた。

 あなたはその場から起き上がる。その際、体にかけられていた毛布がパサリと落ちた。

 辺りを見渡すと、そこはあなたが意識を失う前と同じ、雨草悠々亭の店内のようだった。

 どうやらあなたはソファーに横になっていたらしい。荷物は椅子に置かれていた。

 そういえばとあなたは体を確認するかもしれない。ならば、あなたは自分の体が肉片や異臭のない、奇麗な姿に戻っていることに気づくだろう。

 それを察したのか、店主が言う。


「汚れや臭いにつきましては、知り合いに頼らせていただきました。彼女は手際が良いですから、出来る限りお体には触れた感覚はなかったと思うのですが」


 そう言われてすんすんと匂いを嗅いでみれば、微かにお茶の香りがしたような気がした。


「よろしければ、お目覚めに一杯いかがでしょう?」


 近くのテーブルに珈琲が置かれる。

 あなたはまだ夢現な感覚を残しながらも、気付けのためにと立ち上がる。

 幸い体が筋肉痛になったり、ということはないようだ。

 席に着いたあなたは店主に礼を言うと珈琲を口に含む。

 起きたてだからだろうか、店主が気を利かせて浅煎りの珈琲にしてくれたようだ。

 ほっと息をつくあなたに、店主は息をついた。


「お体に異常はないようで安心いたしました。……まずは、謝罪を。大事な書類をお渡しそびれ、大変申し訳ございません。そのためにお客様を危険に晒してしまいました。重ね重ね、謝罪いたします」


 そうして、店主は深く腰を折った。

 それを見てあなたは大丈夫、と手を振ったかもしれない。どうしてあんな目に、と怒ったかもしれない。怖かった、と胸の内を明かすかもしれない。

 しかし、店主はあなたの言葉を否定することなく、静かに受け入れた。

 あなたが気持ちを打ち明けているうちに、あなたも落ち着き、店主に言うかもしれない。

 確かに事の発端はそちらにあるかもしれない。しかし、自分もまた開いているか分からない店に勝手に入ってしまった、と。

 最悪、店が閉まっていても書類だけとることができれば、と思っていたあなたとしては、店主のことを全面的に非難することはできなかったのだ。

 そもそも、店主が荷物を預かったのは善意に他ならないし、そのおかげで書類は不自然なほどきれいな状態だった。

 最終的にはあなたも何かしら謝罪の意を示していたかもしれない。


「……ありがとうございます。そう言ってくださると、こちらも少しだけ罪悪感が救われるような心地です。本当に、無事にご来店くださって安心いたしました」


「今日は他の店主の方にもお話して開店時間を変更しておりますので、たとえ雨が上がろうとも、ごゆっくりとお過ごしください」と、そう言って店主はカウンターの奥へと戻り、仕事に入った。

 あなたはそこでようやく現状を確認する余裕ができ、今までのことを振り返ることができただろう。

 だとするならば、あなたは無条件に疑問を抱くはずだ。あの曇集怪々食処にいた青白い巨躯の存在は何者なのか、その店で襲ってきた黒い何かは何なのか、そもそもあれは現実だったのだろうか、など。

 そうして、疑問を胸の内にとどめておくことが困難になったあなたは店主に聞くことだろう。あの店は何なのか、と。

 店主は「そうですね……」と前置きしてから言った。


「当店舗の運営体制についてはご覧になりましたか? ……そうですか。ええ、その通りでございます。この店舗は天候によってオーナーが変わります。私の経営する雨草悠々亭ならば雨の時間に、そして曇集怪々食処は曇りの時間に。勿論オーナーが変われば店名も変わります。店名が変われば提供するサービスや商品も変わります。求める顧客層も異なることでしょう。例えば雨草悠々亭は雨が降り、草木を濡らし、雫を垂らす。静かに音を立て、それが一層静寂を表すかのような時間を悠々と過ごしたいと思っている方々を顧客として考えております。一方で曇集怪々食処は……これはオーナーであるあかさぎさんから聞いたお話ですが、曇集怪々食処では人ならざる者、所謂人外の方々を主な顧客として迎え入れているそうです」


 あなたはまず間違いなく聞き返すことだろう。

 人外とは、と。


「私も詳しくは申し上げられません。というのも、私自身、曇集怪々食処のお客様は把握しきれない点がいくつもあるのです。お客様としてこられる方々は基本的に毎回異なる種族であり、どこからやってくるのか、どこに帰っていくのか、どのようにして曇集怪々食処についての情報を得てくるのか、そのすべてに精通しているのは恐らくあかさぎさんくらいなのでしょう」


 店主はキッチンでの仕事を終えると、手を拭きながらあなたのもとに戻ってくる。


「ただ、そのことを深く知ろうとするのはあまりお勧め致しません。人には人の、人外には人外の世界というものがございます。あなたが自分を人間と確信しているのなら、向こうの世界の事は知ろうとするのではなく、忘れようとするのが人としてよろしいのでしょう」


 そのように言う店主に、あなたは俯いて中身の少なくなった珈琲を見詰める。

 それが不満を抱いているように見えたのだろうか、店主が付け加えるように言う。


「胸元に霧がかかったような心地ではあるのでしょう。ですが、この手の知識は、必要としないあなたには毒となります」


 あなたは店主に問いかけたかもしれない。

 あなたは気にならないのか、といった旨の質問を。


「気にならないはずがありません。あかさぎさんとは同じ店舗で経営する身近な存在でありますから。ですが、分を弁える必要はあると思っています。私は曇集怪々食処に来られるお客様とは関係がございません。ならば、無理に縁を生む必要もない、と。分を弁え、必要になったら聞けばよい。そう私は思っています」


 つまりは、好奇心が故に問い質すのではなく、その情報が自分の人生に必要となった時にのみ聞くべきだと言っているのだろう。


「まぁ、それでも好奇心は胸に疼くものなのでしょう。そうしましたら、曇集怪々食処のお客様として来店するのも良いでしょうし、それが怖いと仰るなら、今は雨草悠々亭に来られると良いかもしれませんね。他の場所よりかは機会に恵まれているでしょうから」


 そう言ってから、店主は苦笑いの顔で言った。


「ですが、できることなら、雨の降る音、窓を打ち付ける音にも興味をもっていただけたらと思います」


 それが良い落としどころであるのだろう。

 あなたは納得したように頷くことで答えとした。

 店主が「おかわりを持ってきましょう」と離れていく。

 あなたは椅子に座ったまま、分厚く重い鉄の扉があった小さな部屋へと目を向けた。

 地下室への階段なんて存在しない本棚の並ぶ小さな部屋。

 ふと、あなたは思ったかもしれない。

 天候で店が変わることは分かった。曇集怪々食処という店では常人では理解できない存在が当たり前のようにいることも分かった。

 しかし……店内の内装が一瞬で切り替わったのはどういう仕組みなのだろうか、と。

 曇集怪々食処は内装もキッチンに置かれた小道具もまるで雨草悠々亭とは違う。雨になったからと短時間で異臭を消し、小道具を並べ、内装を整理し、などというのはできることなのだろうか。

 それに、今、あなたが目を向けているスペースにはひとりで開けるのすら困難な鉄の扉があり、その先には地下室への階段があったはずだ。こうして今目を向けていても、フローリングの下に階段が隠れているとは全く思えないし、まさか店が変わる毎にフローリングを張り替えているのだろうか。

 一体どうやって。


『その空間は店内で独自に改築が許されているスペースなのです。雨草悠々亭では本を並べる部屋に、曇集怪々食処は地下にまで通路を伸ばして食糧庫としているのです。そのため、そのスペースにいる間だけは店が変わっても、別の店に移動することはないのですよ』


 あなたが意識を失う前、店主はそのように言っていた。

 今考えてみれば、これはあまりにおかしな文章ではないだろうか。

 独自に改築が許されているスペース。それはまるで、全ての店主に一部屋ずつ貸されているかのような言い方。まるで、店が変わるとこのスペースは一瞬にして変更されるような——

 しかし、それについてあなたが店主に聞くことはなかった。

 聞いてしまうと、なにか、化け物と遭ってしまった時のように、あなたの中にある何かが揺れてしまうような気がしたのだ。

 それに……店主は言っていた。必要になったら聞けばよい、と。

 少なくとも今は必要ではない。ならば、聞くべきではないのだろう。

 あなたは目を背けるように窓の外へと視線を向けた。

 外は暗く、しとしとと雨が降っている。当たり前のように、いつも通り、落ち着くような音を立てながら。

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