1話:曇りに赴く店は——
家に戻ったあなたはそれから食事をするなり、風呂に入るなり、お気に入りの番組をだらだらと眺めたりするかもしれない。
しかし、就寝前には荷物は無事だろうかと確認するだろう。もしあなたが几帳面な性格を少しでも有しているなら、帰ってきてすぐに確認していたかもしれない。
荷物を確認したあなたは気づくことだろう。何かが足りない。
それは、あなたが失くしてはならない重要な書類だ。
その書類とは、あなたが学生ならテスト勉強の為にまとめたノートかもしれないし、期限までに出さなければならない進路確認書かもしれない。あなたが社会人であるなら新しい企画書かもしれないし、営業先の契約書かもしれない。
その書類が何であれ、あなたにとっては失くすと困るものであった。
一体どこで失くしてしまったのか。きっと、あなたはすぐにあの喫茶店だ、と思いつくだろう。
恐らく店主が荷物を乾かすときに中身を取り出したとき。あのときだ。
今からでも取りに行こうかとあなたは外を見た。
しかし、外はいつの間にかザアザアと雨が降り、風もそれなりにあるようだ。
窓を打ち付ける雨が外に出ることを億劫にさせる。
喫茶店からはそんなに遠くないにしろ、距離はある。今からとりに戻るのは辛いし、この時間では喫茶店というのはしまっているだろう。
仕方ない。
あなたはそう呟いて明日取りに行こうと考えた。
幸い明日は休日だ。ついでにもう少しあの喫茶店でゆっくりしていこう。
そう思いながらあなたは眠りについた。
翌日、雨はやんでいたが、まだ降らないと信じるには早い曇り空だった。
昨日あれだけ降ったのだから、もう降らないと思いたいが……
天気予報は曇り。降水確率は50%。
もしまたあれだけの雨が降ったらたまったものではないと考えたあなたは、外に出る際に幅の広い傘を持って行くことにした。
これで大雨になっても濡れる心配はないだろう。
店についたのは朝の11時だった。
開店時間を聞きそびれたあなたではあったが、この時間ならやっているだろうと踏んだのだ。
しかし、店は開いていなかった。
とはいえ、扉には「Closed」の札がかけられているわけでもなかった。
営業時間を知るために、あなたが「雨草悠々亭」の看板を探したのなら、それは見つからないことにも気づくだろう。
そして、もしかしたら駄目もとで扉に手をかけたかもしれない。
だとするならば、その扉は自然と開くことだろう。年季の入った、きぃ、という音を出しながら。
鍵の閉め忘れ? それとも実はやっているのか。
生憎外からでは中の様子を見ることはできないため、それを伺い知ることはできない。
少し悩んだあなたは、荷物をとりにきただけだから、すぐに帰る、と言い訳をして、店内へと足を踏み入れた。
鈴の音はしなかった。
店内に入ったあなたは気づく。何か違和感を感じる。
それは注意してあたりを見渡せばすぐに分かることだった。
まず、店内に光が灯っていない。これは店が営業していないからだろう。
次に、テーブルや椅子がない。どこか隅に寄せられているわけでもないようだ。同様に、キッチンは喫茶店で使うような道具が一切なくなっており、中身の分からない黒い瓶がいくつか並んでいるのが見える。
キッチンからは黒ずんだ血のような異臭がする。その臭いにあなたは顔を顰めたかもしれない。
しかし……あなたの顔は、店内に蔓延るそれらを見た瞬間、強張ることになった。
初めは暗がりで良く見えなかったが、店内のあちらこちらに、黒い何かがいる。それが一体どのような形を持っているのかは分からない。何故なら、それらは黒い、輪郭のぼやけた体を不定形に蠢かせているからだ。
ひとつひとつはサッカーボール程度の大きさだろう。白い目のようなものがちらちらと行ったり来たりしている。
それが、何十といる状況。何体かはあなたが入ってきた時点で視線をこちらに合わせていた。
恐怖か、驚きか、逃走本能か。
いずれにせよ、あなたは小さな悲鳴と共に一歩、後ろに下がってしまった。
床が軋む音がする。
それで、すべての黒い何かがあなたに視線を向けてきた。
冷や汗が出る。心臓が変にうるさい。
人間が最も恐れるものは未知への恐怖というが、それはまさにこの状況を指すのだろう。
あなたは獰猛な動物を前に刺激しないようにと行動するかのようにゆっくりと扉に手をかけようとした。なのに、どうしてか、あなたはふにゃ、という不可思議な感触を覚えた。
不思議に思ってそちらをみやると、なんということか、ドアノブにべったりと黒い何かがへばりついていたのだ。あの柔らかい感触はきっとこの黒い何かのだろう。
白い目のようなものがあなたを見詰めている。
堪らずあなたは小さからぬ声をあげて尻もちをついてしまうことだろう。
しかし、黒い何かは特に何も行動を起こさなかった。ただ、あなたをじっと見詰めているだけだ。
正体不明の危機を感じているからなのか、あなたの五感は今までにないほど敏感になっていた。
だからこそ、あなたの耳にささやくような声のようなものがきこえてきたのだ。
「ーーーーー」
「ーー、ーーー」
それは凡そ言葉として理解するには難しいものだった。
日本語であれば言葉の前に48つの文字が存在する。それを組み合わせることで言葉を作っていく。
しかし、あなたが聞いたものは、そのような理論で組み上げられた言葉ではなかった。
音の高低、音の長さ。
一音を複雑に操作することで言葉にしているのではないか、あなたはそう思った。
勿論それはあなたの推論で、実際には言葉でさえないのかもしれない。しかし、一方が音を発することで、もう一方が音を発する姿は、どこか言葉のやり取りをしているようにみえたのだ。
あなたは立ち上がると、どこか、逃げることができる場所はないだろうかとあたりを見渡した。そうして店の奥に続く暖簾を見つけた。あそこなら、この黒い何かからの視線も妨げることができるかもしれない。
あなたはゆっくりと移動し、その奥へと入っていった。
本来は無許可で入るなんて到底許されないだろう。しかし、今はそのようなことを考えている暇はなかった。
店の奥。いわば従業員以外立入禁止の部屋。
その部屋は何段にも伸びている引き出しケースと、作業台、テーブル、椅子、その他こまごまとしたものがあった。整然とされているわけでもないが、乱雑という訳でもない。ただ、喫茶店らしからぬものなども置かれているのは目を引いた。
例えば、歴史を感じる壺、子供が喜びそうなカラフルな遊び道具、染みのできた一畳の畳。
まるで様々な店が共有する一時的な倉庫のようだ、とあなたは感じたかもしれない。
そして、あなたはもうひとつ気付いた。いや、真っ先に気づいてはいたのだ。
暗い部屋。椅子に座って何か書いている、人間とは思えない青白い巨躯の存在を。
本能的に感じる恐怖。あなたは縛られたように動けない。
しかし、それでも逃げなければと懸命に体を動かした事だろう。
その結果、不幸というべきか、あなたは体の操作を違え、壁に足をぶつけてしまった。
その音に青白い巨躯の存在が気づき、日本語ではない言葉と共にこちらに振り返った。
それで、あなたはその正体がわかる。
青白い巨躯はその通りのままで、可笑しいのは、その体が仄かに発光している点だ。
巨躯であるのは、その体が異常なほど筋肉で隆起しているため。下に着衣はしているものの、上は裸であるのは、その体では脱ぐのも大変だからなのではないか、と場違いな考えが生まれたほどだ。
はげた頭は微かに縮れたような髪が残っている。まるでゾンビのようにただ、あるだけという印象を抱かせるが。
目は赤く、口は口裂け女のように頬の先まで伸びている。呼吸の為に口をあければ、鋭利な歯が見え隠れしている。
殺人鬼、人食い男、ゾンビ。そのような印象を抱かせるに足る何かはしばらくあなたを見詰めていた。
その間、あなたは必死に泣くのを我慢していたかもしれないし、恐怖で頭が働いていなかったかもしれない。せめてもの抵抗と相手を睨んでいたかもしれないし、早く逃げなければと力の抜けた体を懸命に動かそうとしていたかもしれない。
やがて、青白い巨躯の存在はゆっくりと口を開いた。
「……にンげンか?」
舌っ足らずで、イントネーションにも微かに癖を感じるが、それは日本語であった。あなたの慣れ親しんだ言葉で、あなたの母国語だ。間違いなく。
あなたはそれに対し、そうだ、といった旨の返事をするかもしれないし、言葉に詰まり、カクカクと頭を縦に振ったかもしれない。
いずれにせよ、あなたは青白い巨躯の存在に肯定の意を表した。
すると、青白い巨躯の存在は首を傾げるような動作をする。
「にンげンがなンのようだ?」
あなたは震える声でどうにか店に置いてきた書類をとりに来たことを告げる。
すると、少し考える素振りの後、「ああ」と青白い巨躯の存在が声を出す。
「はなしはきいた。これだろう?」
青白い巨躯の存在は「雨草悠々亭」とシールが張られた引き出しケースを引くと、中に入っていた書類を渡してくる。
巨大な手に対し、書類は酷く小さく見えた。
恐る恐る受け取ると、それはまぎれもなくあなたが探していたものだった。
不思議なことにまったく濡れた気配がない。
「ようがすンだら、はやくかえれ。めんどうになる」
襲ってくる様子はない。
あなたはその言葉に一も二もなく頷くと急いで店内に戻り、扉を開けようとした。
しかし、あなたは思い出した。
ここには正体不明の黒い何かが扉を塞いでしまっていることを。
傘で刺してみる、という選択肢もあるが、それで黒い何かに襲われたらと思うと行動に移せなかった。
あなたがどうすればよいのかと固まっていると、暖簾をくぐって青白い巨躯の存在が顔を出した。
それは扉にこびりつく黒い何かをみると「はらを、すかせているな」と言ってきた。
「はらをすかせて、きげンをわるくしている」
そうして青白い巨躯の存在はキッチンに向かい、棚を開けるのだが、すぐに呻くような声をあげた。
暗がりで詳しくは見えないが、棚の中は空になっているようだ。
「こいつら、かってにくったな。しょくざいをとってくる。おまえは、むこうでまっていろ」
そう言うと、青白い巨躯の存在はあなたの返事を聞くことなくキッチンとは反対にある重厚な見た目の鉄製の扉——あなたが初めて来たときはそこに扉はなく、本棚が四方にある小さな部屋だった——を開け、その先の闇に消えてしまった。
残されたのはあなたと黒い何か数十体。
ここに残っていても不安しか感じないあなたは青白い巨躯の存在に言われた通り、先ほどの倉庫のような部屋に戻った。
ここには黒い何かも入ってくることはないようだ。
バクつく心臓を抑え、あなたは待つことにした。
しかし、緊張、不安、恐怖で待っているときほど辛いことはない、というのは今、あなたは身を以て体験している。
もしかしたらあなたは気を少しでも紛らわせるためにもう少し注意深くあたりを見渡すかもしれない。
それならば、あなたは間もなく壁に「契約に基づく店舗の貸し状況」と書かれた紙が貼られているのを見て取ることだろう。
紙に近づきその内容を読むならば、あなたは次のようなことが分かる。
・晴れ:晴々青風古物雑貨店
・曇り:曇集怪々喰処
・雨:雨草悠々亭
・雪:雪音囲炉裏茶屋
・その他の天気:協議中もしくは募集中
どうやらこの店は天気の具合によって店が変わる、というらしい。
しかし、あなたはこの内容に違和感を感じることだろう。
まだ曜日であれば理解できる話である。あなたももしかしたら、曜日で変わる店の存在を知っているかもしれない。
しかし、天気によって店が変わるというのは、はっきりいって非効率的だ。
何故なら曜日と違い、天気は不安定だ。数日晴れが続くことは当然あるし、曇りと雨が短時間で交互にやってくることも珍しくない。
天気に合わせて店を変えるのであれば店主は常に店で待機していなくてはならないし、自分の天気がやってきても開店準備を終えるころには別の天気になっているかもしれない。
だからこそ、非効率的であるとあなたは考えたのだ。
ただ、そうはいうが、どうやらこの店の形態はそれに適合しているらしい。
思い返せば、雨草悠々亭に来た時は雨が降っていた。そして今日は曇りだ。つまり、今この店は雨草悠々亭ではなく「曇集怪々喰処」という店である、ということに理解が追いつく。
すぐそばのテーブルに目を向けると、一冊の本とペンが置かれている。
表紙には業務日誌、と書かれている。
本来であればきっと道徳に照らし合わせて読むようなことはないだろうが、今のあなたはとにかく胸の内に広がる感情から目を背けたくて、業務日誌をぱらぱらとめくった。
業務日誌には日付、曜日、担当店舗、営業時間、執筆者がかかれ、簡潔にその時のことが綴られている。店同士の簡単な意思疎通もこれで行われているようだ。
それがわかるのが最新のページの雨草悠々亭と曇集怪々喰処のやりとりだ。
<○月×日 / △曜日 / 雨草悠々亭 / 18:43~4:34 / 神代憂>
・新規のお客様一人ご来店
・濡れた荷物をお預かりした際、書類を一通お渡しそびれ
・お客様に当店の運営体制もお伝えできておらず
To あかさぎさん
申し訳ございませんが、もしお客様がこられたら対応お願いしてもよろしいでしょうか。
<○月▽日 / ▢曜日 / 曇集怪々喰処 / 4:34~ / あかさぎ>
・きょうはむしくいがおおい
・たいどもわるい。きょうのようすをみてきめる
To ゆう
わかった。
ちょうどあなたのことについてのようだ。
このやりとりを見る限り、あの青白い巨躯の存在はあなたを脅かすような存在ではないことが感じ取れる。
ならば、このままここにいれば無事帰ることはできそうだ。
そう思うことができるというのは、あなたにとって精神的にかなり安心できることだった。
あなたはしばらくの間、周囲に注意を払いながら青白い巨躯の存在が戻ってくるのを待っていた。
……。
…………。
どれほどの時間が経ったのだろうか。時計は見当たらない。暖簾の先から外の明るさを確認しても仄暗いということが分かるだけだ。
体感ではかなりの時間が経ったように感じるが、実際には30分も経ってないかもしれないし、10分をようやく過ぎたところなのかもしれない。
ただ、ずっと注意を向けていれば疲れてくるものだ。
まだだろうかという思いは刻々と募る。
あなたが現時点で推測できることは、店内に蔓延る黒い何かは腹を空かせているらしいこと。棚の中には食材がなかったということ。そのため、食材か何かをとりに行くために扉に消えたということ。
しかし、だとすると、あまりに時間がかかりすぎているのだ。扉の先は小さな部屋になっているだけで、正直なところ、そこに食材が保管されているのか? という疑問がある。
やがてあなたはとうとう我慢がきれていまい、様子を見に行こうと決意する。なんとなく、このまま待っていても 何も始まらないのではないか、と思ったのだ。
店内に戻ってきたあなたは店内に変化が起きていることに気づく。
あちらこちらにいる黒い何かが口と思しき位置から紫がかった液体を垂らしているのだ。あなたを見ると、垂れる量が増えたように感じる。
その液体が何なのか、あなたの直観が強ければ察してしまうかもしれないし、察していても目を背けて知らないふりをするかもしれない。
ただ、前にも増して強くなった視線から逃れるようにあなたは鉄製の扉の前に立った。
ところどころ錆がついており、まるで厳重な金庫のようだ。
ドアノブは大きく、両手で掴まないとひねることができない。
あなたはドアノブを掴み、扉を開けようとする。
しかし、かなりの重量であるようで、あなたが全身を使うことでようやく動き始めた。
そうして苦労して扉を開く。
あの時は暗がりで見えなかった先。小さな部屋になっていると思っていたあなたはその先に驚きの声を上げた。
そこは部屋ではなかった。視界が認めるのは地下への階段。血生臭い臭いが地下からどんよりと香ってくる。壁は鉄錆がこびりつき、赤黒く変色している。
あなたが階段を降りると、かつん、かつん、と音が反響する。
……随分と階段を降りたようにあなたは感じた。一体どこまでこの階段は続くのだろうかと独り言を言ったかもしれない。
その頃になってようやくあなたは階段を降り終える。
そして、その部屋に広がる惨状にあなたは正気を削がれる音を感じた。
見れば、恐らくこの部屋は食糧庫なのだろう。視界は赤一色だった。保存されているのは肉ばかり。しかし、保存していると言ってよいのかという乱雑さではあった。
保存されている肉塊は牛や豚の形をしていた。部位ごとに分けられていることはなく、そのままの形で保存されているようだ。一方で吊るされた肉は部位ごとに分けられており、千差万別の形をしている。
可笑しいのは、まるで、それが先ほどまでひとつのかたちであったかのように血が滴り落ちていることである。その血が垂れる先になんとなく目を向けたあなたは、そこに動物のそれとは明らかに形が可笑しいであろう部位を見つける。
なぜあなたはそう思うことができたのか。
その部位が、明らかに人の手に酷似していたからだ。
奥からは、何かを叩きつける音が響いている。
音の正体は、間違いなくあの青白い巨躯の存在であろう。
しかし、定期的に聞こえてくる音があなたの身を竦ませ、行くかどうかに迷いを生んでしまう。
されども、このままここに立っていてもむせ返るような血の臭いと時間だけがせまってくるだけで進展は何もない。
結局、早く帰りたいと願っていたあなたはゆっくりとであるが音の震源に向かって歩き始めた。
注意深く歩いていても時折肉を踏んでしまい、その感触があなたの肌を鳥肌にする。
奥に行くと、やはり青白い巨躯の存在がいた。
それはそれは手斧を以て、牛の肉を解体しているようだった。
「おまえ、きたのか」
あなたはあまりに遅いものだから不安になって、といった旨を伝える。
それを聞いて青白い巨躯の存在は今時間を確認できたのか、「……ああ、たくさんじかんがたっていたか」と言う。
「どれだけじかんがたった?」
それに対し、あなたは分からないと答える。携帯の時間を確認した限りではかなり時間が経っているが、どれだけ待っていたかは体感時間も相まってあやふやなのだ。
「またせすぎると、むしくいどもがなにかするかもしれない。わかった、いま——」
その瞬間、何かが転がり落ちるような音と共に、何か巨大なものが階段から転がり落ちてきた。
次いで聞こえてくるのは何の動物にも当てはまらない不気味な叫び声。
あなたの視界に映っていたのは、化け物だった。そう表現するのがもっとも正しいように思えたのだ。
不定形に蠢く黒い体、体のあちこちから覗く鋭利な歯を並べた数々の口。
あなたが店内で見かけた黒い何かの集合体のような姿に、あなたは否応なしに不快感と恐怖を抱く。
あまりのことに現実なのかとすらあなたは疑ったかもしれない。それ故に、あなたは動くことができなかった。
「むしくいども、はらをすかせておりてきたか!」
青白い巨躯の存在が隣で叫んでいる。
化け物には目がついているように見えなかった。
だというのに、あなたは無条件で確信した。あれは、あなたを狙っているのだと。
「ーー・ー・ー・ー!!」
青白い巨躯の存在もそのことに気付いたようで、
「にげろ、あれはおまえをくいたがっている、いちばンしンせンなおまえを! にげろ! そとにでろ! そとに!」
青白い巨躯の存在が叫ぶのと化け物があなたに襲い掛かってくるのは同時だった。
何倍にも膨れ上がった黒い何かの襲い掛かる速度はまるで間近まで迫ってきたダンプカーの様。それでも、あなたは奇跡的に横に転がり逃げることができた。その際に傘はどこかへ飛んで行ってしまった。
あなたの服や体に肉片がこびりつき、むせ返るような血の臭いが強くなる。しかし、それを気持ち悪いと思っている暇はなかった。
あなたのその姿は化け物にとって食材に蠱惑的な調味料がかかったようなものなのかもしれない。
体のあちこちから開閉する口。鋭利に整った歯の間からは紫がかった液体が垂れている。
不協和音のごとく発せられる声には一体どのような意味が込められているのか。
突然、青白い巨躯の存在が手斧を思いきり化け物に振りかぶった。
かなりの威力であったのだろう、化け物が悲鳴をあげ、のたうち回る。
「なにしてる! いけ!」
再度、青白い巨躯の存在が叫ぶ。
それであなたははっとし、力の抜けた体を必死に奮い立たせ、ふらふらとした足取りで階段を目指す。
登っても登っても、まったく先にたどり着かない。それは体感時間が長いというのもあるだろうが、物理的にこの階段は長かったのをあなたは思い出す。
「ーー、ーーーー!!」
下から正体不明の叫び声が聞こえてきた。
青白い巨躯の存在が倒したのか。
いや、違う。声は断続的に続き、声は近づいてきているのだ。
つまり、あの化け物が階段を上り、あなたを追いかけているのだと直感的に気づく。その恐怖にあなたは一層、階段を上る速度を上げる。
しかし、その無茶が祟ったのだろう、あなたは階段を踏み外して膝を角にぶつけてしまう。
痛みにあなたは呻いたかもしれない。それでも、あなたは兎に角逃げなければいけないという思いで這ってでも登り続けようとする。
今化け物がどうなっているかはあなたには分からない。ただ、確実に叫び声は近づいてくるし、さらに、その速度はあなたより速い。
早くたどり着かなければ、あなたは追い着かれ、あの無数の口に肉片として咀嚼されることになるだろう。
なんと恐ろしい事か、なんと猟奇的なことか。
階段を上ることでの肉体的疲労と、追いかけられている精神的疲労とで、あなたの脳は低酸素による意識朦朧を発症していた。
もはや今のあなたは満足に視界も見えないし、音も聞きづらくなっている。
体は震え、喉は乾いて引きつったような痛みがある。
一段一段、それでもあなたは登り切り……
あなたの手が、扉に触れた。
あなたが、やっと、と思った瞬間。階段が揺れる。
次いで、すぐ傍から声が聞こえてくる。
「ーーーーー!!」
追いつかれてしまった。
あなたはどうにか扉を開けようとする。開けようとしているのだ。
それなのに、開かない。
それはきっと、化け物が何かしているという訳ではないのだろう。
純粋に、もうあなたの体は扉を押すだけの力を有していないのだ。
開け、開けとあなたが必至に扉を叩いている姿をみて化け物は何を思っているのだろうか。
もしかしたら、何も思っていないのかもしれない。ようやく追い詰めた新鮮な食材にその欲望をたぎらせているだけなのかもしれない。
そうして、ついに化け物はあなたにとびかかった。
あなたにできることは必死にしゃがみ込むだけだった。ただし、ドアノブには手をかけたまま。あなたの酸素の足らない頭でも、これを離してしまえば、本当に逃げるチャンスはなくなるのではないかと思ったのだ。
それはきっと、場合によっては悪手だったのかもしれない。あなたの手がドアノブにかけられたままのせいで、腕だけが化け物の餌食になっていたかもしれない。
しかし、運は間違いなくあなたに味方した。
化け物が飛び掛かるのは、かなりの速度であった。最初に襲い掛かられた時のように、ダンプカーの如き速度で。だからこそ、化け物は目測を見誤ったのだ。
化け物はあなたではなく、扉に盛大に当たった。
そして、あなたがドアノブに手をかけていたからこそ、化け物の力で扉が盛大に開いた。
ドアノブを掴んでいたあなたはそのまま扉と共に外に引っ張り出され——
・
・
あなたは誰かに抱きかかえられていた。
しばらく呆然としていたあなたであったが、ふと、見上げてみる。
すると、あなたが知っている人物、そう、雨草悠々亭の店主だった。
「ようこそ、お越し頂けました。本当に、よかった」
店主は安心したような顔をしていた。
周りを見渡してみると、そこは曇集怪々食処ではなく、雨草悠々亭であった。暖色の灯りと、緩やかに回るシーリングファン。外の景色をみると、既に外は暗く、雨がリズムよく窓を叩いていた。
どうやら、天気が雨になったことで店の主導権が雨草悠々亭に変わったのだろう。
だとしても、どうしてあの階段では何も変わらなかったのか、という疑問はあるが。しかし、今のあなたにそこまで細かいことを気にする体力はなかった。
そういえば、とあなたは扉の方に視線を向ける。すると、そこには扉はなく、本棚が三方にある小さな部屋になっていた。
あなたの動きに察したのだろう、店主が言う。
「その空間は店内で独自に改築が許されているスペースなのです。雨草悠々亭では本を並べる部屋に、曇集怪々食処は地下にまで通路を伸ばして食糧庫としているのです。そのため、そのスペースにいる間だけは店が変わっても、別の店に移動することはないのですよ」
あなたは掠れた声で黒い何かはどうしたのかと聞く。
あの扉を開けたのは紛れもなく黒い何かだ。確かに、あなたとともに扉の外に出た筈だ。
「ああ、あの方々は少々素行に問題があると判じましたのでご来店はお断りさせていただきました。詳しいことは曇集怪々食処の店主であるあかさぎさんが対応してくれています」
一体、どうやってそのようなことを、などというのは今考えるべきことではないのだろう。とにかく、あなたは助かった。
その事実を確認した時、あなたの体から完全に力が抜ける。
体が肉片がこびりついているし、汗なら何やらで気持ち悪い事になっているが、とにかく今は眠りたい気持ちだった。
「どうぞ、今はごゆっくりお休みください。今回の件は私が深くご迷惑をおかけしましたから。あとの事はお任せください」
「それでは、お休みなさいませ」という声と共に、あなたの目は閉じられた。
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