雨草悠々亭話譚
雨草悠々亭
序章:夕立に霞む視界の先で
梅雨は明けたようだが、どうもそれはまだなのではないかと思う。石畳を叩く大粒の雨水は情け容赦なくあなたの体を打ち付ける。傘を持っていればまだ余裕もあったのだろうが、今のあなたは鞄、もしくはリュック、またはその他の何かを抱きかかえ、大急ぎで走っていた。
しかし、人間疲れはするもの。吐く息は既に荒く、足取りも相応に重い。流石にこのままでは大雨の中を棒立ちしているのと変わらない、とあなたは雨を凌げそうな建物を探す。
すると、雨で霧がかったような視界の先に光が灯されていることに気付いた。看板が付いていることから店ではあるらしい。そこで少し雨宿りさせてもらおうと、あなたは軒下に駆け込んだ。
はぁ、はぁ、とひんやりとした空気を肺いっぱいに送りながら、あなたは服から水を絞りだす。もし、あなたが看板に目を向けるなら、そこには「喫茶 雨草悠々亭」という文字が掛けられている。
9月に入って間もなく。時折陽射しも弱くなってきたと感じるようにはなり、吹く風も涼しさを含むようになった。それでも一度雨が降り始めてしまえば残暑から一気に秋にもつれ込む。朝晴れていたからと夏服で外を出歩いたのは間違いだった。
空を見上げるも雨は全く止む気配を見せない。これだけ濡れているのだからいっそそのまま進んでしまおうかともあなたは思ったかもしれないが、これ以上は荷物の中の書類が駄目になりかねない。あなたが仕事であれ、学校であれ、その他の何かであれ、書類が水で濡れてしまっては困るのだ。
結局、ほんの少しだけ思考を巡らせたあなたは店の扉に手をかけ、引いた。
カランカラン、とベルの音が店内に響く。
木造インテリアの特長的な、お洒落と形容できる店だ。暖色の暖かな光が店内を灯している。外の景色を見るための窓は大きく張り付けられている。それによる外からの視線を防ぐためだろう、窓の外は庭になっており、低木が境を作っていた。家具は落ち着きのある色で統一されており、不思議と雨の降る景色とうまくマッチしているように思えた。
店内のテーブルは3つ、椅子はそれぞれ4脚とカウンター席が4席。店内全体を見てみると、扉のついていない小さな部屋がある。ここからでは壁の一面しか見て取れないが、本棚が置かれている。恐らく三方を本棚に囲まれた小さな図書館なのかもしれない。
天井ではシーリングファンが緩やかに回っており、それに釣られて珈琲のかぐわしい香りが鼻腔を擽る。
「いらっしゃいませ。......おや」
カウンターの向こうで洗い物をしていた店主と思しき男があなたの姿に気付き、声を漏らす。
あなたは申し訳なさそうに濡れた体を見せ、店に入っても良いかと尋ねた。
店主は嫌な顔を見せることもなく、穏やかな笑みで「勿論」と答える。
それから店主はすっと店の奥に姿を消したかと思うと、すぐにタオルを持って現れた。
「よろしければどうぞお使いください。それだけ濡れていますと風邪になりかねませんから。それと、よろしければお荷物もこちらで乾かしておきますが」
あなたは礼を言ってタオルを受け取る。荷物は最初、大丈夫だと断ろうとしたが、後々確認して手遅れだと困るし、今取り出して紙を破いたりしてしまったらさらに困ってしまう。
そう考えて、あなたは貴重品だけをゆっくりと取り出し、残りは店主に預けた。
あなたが体を拭いている間に店主は奥の部屋へと姿を消し、次いでカウンターの向こうへと戻りカチャカチャと手を動かし始めた。
体を一通り拭き、服は酷いものの少しはマシになったあなたは、店主に再度礼を述べるとタオルを返す。それから、よいしょ、と椅子に座った。すると滑らかな木の質感のカウンターの上にそっと珈琲が置かれる。
あなたが店主を見ると「どうぞ」という言葉が返ってくる。
「寒いですから。サービスです。勿論最初の一杯目は、ですけどね」
茶目っ気を含んだ言葉に店主の気遣いを感じ、ここで日本人らしく謝辞するのは違うだろうか、とあなたはカップの中の液体に目を落とした。
「グアテマラの珈琲豆を使ったものです。珈琲豆も、今ではブレンドなども併せて本当に種類が増えましたが、私の個人的な好みですと、この珈琲豆を使ったものが好きなのですよ」
口に含む前から感じる珈琲に特有の香り。低めの温度で抽出したのだろう、苦みが抑えられ、ブラックでも美味しく頂けた。この珈琲はまろやかさが良いのか、飲むと堪らずほう、と息をついてしまう。
店主が外の景色を眺めながら話す。
「それにしても災難でしたね。今日は確か終日晴れの予報でしたが。恐らく夕立なのでしょうね」
あなたもつられて窓の先の風景を眺める。午後もそろそろ下回るころ。空は一層暗く、風に揺られてガタリと窓が音を立てる。
できるだけ早く雨足が弱まってくれればよいのだが。あなたがそのようなことを呟くと店主がくすりと笑う。
「おや、そうですか? 窓を叩きつける雨も、寒そうに聴こえる雨も、暗がりな景色も、感じてみると案外心地の良いものですよ」
「家の中にいるときは、が付きますけどね」と付け足すのを店主は忘れなかった。
「このような時間は家の中でもどこかの店でも、優雅なティータイムが心にゆとりを持たせてくれるのですよ。ああ、もう飲まれたようですね。どうしましょうか、おかわりでもお注ぎしますか?」
そういわれてカップを見ると確かに中身は空になっていた。いつの間にか飲み干してしまったらしい。口の中は珈琲の香りが残り、体は冷えた体に染み渡るようにじんわりとした温かさが巡っていた。
どうしようか、とあなたは考える。
思考の傍らでふと、空の機嫌を窺うと、いつのまにか雨は弱まっていた。店に入って間もないのにもうだ。本当にわずかな夕立だったらしい。
「空、晴れそうですね」
心なしか残念そうな声が店主から漏れる。
あなたは席を立ち、一杯しか飲んでいないからサービスとして頂くのは、とお代を払おうとする。
それを店主は首を振って止める。
「構いませんよ。先ほども言いましたが、最初の一杯はサービスです。実はこの一杯はご来店いただくお客様全員にふるまっております。ですから何も特別というわけではありません。まぁ、ただ、もし、それでも納得されないようでしたらまたご来店ください。次はしとしとと降る緩やかな雨の日にでも」
ならばとあなたは納得することにした。
あなたは再三礼を述べると店の扉を押す。
「ご来店ありがとうございました」という声を背に受け外に出ると、外はすっかり晴れていた。空を見上げればちょうど三日月が昇り始めるころだった。吹く風は冷たいが、耐えられないほどではない。
そういえばと。
この店は何時の間開いているのだろうかと店主に尋ねようと背後を振り返ったあなたはそこで目を丸くした。
いつの間にか「Closed」の札がかけられていた。ここからでは店内の様子を見ることができないため、一体いつのまに、という思いだ。
ちょうど閉店時間だったのだろうか。時間も時間だ。そうなのかもしれない。
あなたはまだ濡れる服の気持ち悪さに辟易としながらも帰途に就いた。
その途中、そういえば、とまたあなたは思う。
あのようなところに喫茶店なんてあっただろうか。
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