第4話 交わり
――時間感覚が狂いそうなあの独特の薄暗い部屋のなかで、市川さんがシャワーを浴びている間、先に浴び終わった私はいつか本で読んだ言葉を思い出す。
『人は後ろ向きにしか歩いていけない。見えているのはいつだって自分が歩いてきた道程ばかりである。左の道に進んで初めて、右にも道があったことを知る』
つまりはそういうことだと思う。
秋の午後の乾いた日差しの中で、私はやけにだだっ広い柔らかなベッドに白いバスローブを羽織った彼に押し倒される。
そっと彼の薄い唇が、私の唇に触れる。びくりと身体をこわばらせる私を宥めるように、彼の手が私の髪をなでた。おもむろに顔を上げ、彼はバスローブを脱ぎ床に落とした。私は、彼のその細身であるがほどよく筋肉のついた身体の綺麗さに圧倒され言葉を失っていた。
再び抱きしめられ、彼の吐息が首筋にかかり、それがとてもくすぐったくて私は身をよじった。
私の胸に触れながら彼が言った。
「痛かったら、言ってね?」
――無理は、させたくないから。
セックスは様々な感情と結び付くことができる行為だ。もちろん、愛はとても親和性が高い。しかし、それだけではない。セックスは好意や共感、あるいは慈悲や同情という感情とも結び付く。そして時には、悪意や憎しみといった感情とだって結び付く。
愛でないことは分かっている。でも好意はあったと思う。同情だとは思いたくない。
日も傾き始めた頃、電車が到着するまでのあいだ、私たちは改札の外で待つことにした。ささやかな求心力の作用で、ふたりはその距離を少しだけ近づけ、互いの体温を感じ取ろうとしていた。夕陽に照らされた市川さんの目はハシバミ色というか、トビ色というか、とにかくそういう明るい色彩の瞳だった。
(綺麗な目をしていますね)
そんなことを彼に言ってみようかと思ったけれど、なんだか恥ずかしくて口にはできなかった。
私たちは他愛もない会話を楽しんだ。私が市川さんを笑わそうとして何かを言えば、彼は楽しそうに笑ってくれたし、真面目に話せば、彼も真面目に聞いてくれた。私たちは双子のように共鳴しあえた。秋の宵のちょっとしたマジックだろうか。
そして、何よりも嬉しかったのは、見送り際に彼が私とのやりとりをこれからも続けたいと願ってくれたことだ。
恋が始まるのだろうか?
なんとなく予感はあった(もしくは本能的な勘だろうか)。私はまた、1時間かけて電車に揺られ家路についたのだった。
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