第3話 初めての気持ち

数日のやりとりが続き、お互いの本名を教え合い、顔写真も交換した。

やりとりを繰り返すうちにいつの間にか、彼に対する私の気持ちは変化していった。ただの「面白そう」から「もっと知りたい、あわよくばこの男性ひとと付き合えたら…」そんなことを思うようになっていた。

ある時、思い切って「好きな人は居るのか」とそう訊いてみた。すると、「僕はあなたを好きになっている最中ですよ」と返信が来たときは顔から火が出るほど恥ずかしかった、いや嬉しかった。人に嫌われ続け、好かれるなんてことは今までに無かったから。

その後、実際に会おうと話が出た。人見知りが激しい私は、嬉しいやら恥ずかしいやらスマートフォンを握ったまましばらく固まったが、それを承諾した。


当日、学校は休みであったが1時間かけて待ち合わせの駅まで、電車に揺られた。例の放課後のわくわくとはほど遠い、緊張とも不安ともつかないなんとも複雑な心持ちであった。それもそうだ。この歳になってようやくの初恋なのだから。

約束の場所で私は彼の到着を待った。いつもの格好より幾分かのおしゃれと慣れない化粧をして(といってもファンデーションを塗り、眉を描いたくらいだが、これが今も昔も私の精一杯だ)。

秋も深まり始めた頃で幾分か肌寒さも感じる時分であったが、私の心臓は声高になんとも勇ましいアリアを歌っていた為、肌寒さなど二の次である。こんなにどうにかなりそうな心拍数で、彼に会った瞬間に本気で心臓発作か何かで死ぬんじゃないかと思っていた私は平常の人間のそれより遙かに早い数で生きているハムスターなどの小動物からすれば笑いものだろう。

「――さんですか?」

駅前のベンチに座り込み、緊張と不安で吐き気を催し青白い顔をする私にひとりの男性が声をかけてきた。

「へ…?」

 なんとも間抜けな蚊の鳴くような声が発せられるのと同時に、ゆっくりと顔を上げた。彼のその立ち姿からは、一種侵しがたい威厳のようなものが感じられた。ジーンズにTシャツとチェックのシャツ、その上に秋物のカーキー色の上着を羽織っていた。何より私に強く印象づけていたのは、端正な顔立ちの彼によく似合う黒フレームのシンプルな眼鏡の奥にある怜悧な目であった。私の価値観から言えば彼は「格好よく」見えた。間抜けな声を上げたきり何も返さず不躾な視線を注いでいた私は、ひどく狼狽えて言葉が出ず、ただ胸の前で意味もなく両手をひらひらさせた。

「あ…えっと、そうですが…。もしかして、さんですか?」

しばらくの間の後、震える声で言葉を慎重に選びながらおずおずと私は訊ねた。彼はその言葉に、一つ頷くと微笑んだ。

お互いの自己紹介が済むと、ふっと彼が笑った。

不器用ながら私は微笑んだ(つもりだったが彼の目にはどう映ったのだろう)。

 互いに恥ずかしかったのだと思う。こんな形で異性に出会う出会いに、私たちは慣れていなかったのだ。

 その日はだから、本当の意味での私たちの初めての出会いとなった。



「さて、それじゃあ行きましょうか」

そう言って、彼は私に手を差し出してきた。男性と関わったことなどほぼ無い私は頭の上に「?」マークをたくさん出していたに違いない。しかし、反射的に手を取って立ち上がっていた。やった後に「これでよかったのか?」と考えるのは、私の悪い癖だ。

彼の手が私の指を絡め取るように繋がれる。俗に言う恋人つなぎというやつだ。恥ずかしくて耳まで赤くなっていたのではないだろうか。

「行くって、どこへ…?」

私の質問に彼は答えた。

「このあたりに美味しいイタリアンのお店があるんです。まずはそこにでも?」

そんなこと知らなかった。通学で毎日のように通っている町だったのに。学校が終わればまっすぐ家に帰っていた上に、グルメなど微塵も興味の無かった私に知る由はなかった訳だが。

それでも、少しだけほんのちょっぴり悔しかった。


 隠れ家的なイタリアンのお店で私たちはランチをした。頼んだ品が来るまで、私は時計で計ったようにきっちり5秒おきに冷水の入ったコップを口に運んでいた。情けないほどに緊張していたのだ。

このとき、フォークでパスタを食べることが苦手だった私は、恥ずかしながら箸で食べていた。彼は、男性にしては長く端正なその指でフォークを持ちくるくると器用にパスタを巻き取っては口に運んでいた。どうすれば、あんなに綺麗に巻いて食べられるんだろうか?なんて呑気なことを考えていたら、いつの間にか彼はすでに食べ終わりじっと私のことを見ていた。目が合った。彼が私の中にある何かに、そっと触れたような感覚があった。そこはみぞおちのすぐ上の辺りのとても敏感な場所で、私は思わず口の中に残っていたパスタと一緒に、ごくりと生唾を飲み込んだ。

何かを察したのか彼は微笑んだ。それに気恥ずかしくなった私の目は不自然なくらいに泳ぎまくっていたに違いない(食事中に何を話したかは全く憶えていない)。

お互いに食べ終わり落ち着いた頃、私は思い出したかのようにバッグから小さな袋に包まれたクッキーを取り出した。震えていた私の手のせいで、プラスチックの素材で出来た小さな袋はカサカサと音を立てていた。

「あの…これ、もしよかったら…お家に帰った後にでも召し上がってください」

「これを、僕に?」

彼は、驚きながらも「ありがとう」と受け取ってくれた。とりあえずは一安心だ。ほっと息をつく。

「手作りなの?」

 彼の問いかけに俯いたまま私は、一つ頷く。

そうなのだ、前日に学校が終わって帰った後に作ったものだった。あまり甘いものは好きではないとやりとりの中で聞いていたため甘さを控えめにして。初対面で手作りのものは重いだろうかなどいろいろ錯綜しながら、未経験の出会いに心を躍らせながら。

「そうなんだ。手作りのものなんて初めてもらったからさ。嬉しいよ、ありがとう」

 彼は眼鏡の奥の怜悧な目を細め、少し照れたように優しく微笑んだ。嬉しくて、けれどどこか恥ずかしくて目も合わせず、「いえいえ」と首を振る私。

「ねぇ」

彼の声に顔を上げた。

「これ、今食べてもいい?」

まさかの展開だった。私はコクリと頷く。まだ、お店の中だった為彼はそっと包みを開くとクッキーを一つ摘まみ、その薄い唇を開きその中へ入れた。ゆっくり味わうように咀嚼する彼の姿を私は、ドキマギしながら見つめていた。こんなに美味しいイタリアンの料理を食べた後に味の保証も何もない素人の私のクッキーなんて食べて大丈夫なのか、と。

クッキーを飲み込んだ彼が口を開いた。

「美味しいよ。甘すぎなくて、ちょうどいい」

そうまた微笑んで言った。

「よ、良かったです…それなら…」

口に合ったようで良かった。彼の笑顔につられるように私も自然と笑みがこぼれる。異性の前で笑ったのは、ずいぶんと久しぶりのことであった。彼は包みの口を閉める。「もったいないから、またあとで」と言いながら。

そもそも私が異性との会食をそつなくこなせる人間だったらこんな苦労はしなかったのだ。

 私は今年20になった。それなのに、未だ「恋人」と呼べる存在に巡り会うことなく無聊(ぶりょう)の日々を送っている。奥手といわれれば確かにそのとおりなのだけれど、私は自分を男性との出会いをあまりに理想化しすぎた、うぶな夢想家なのだと思うことにしていた。つまり自分の信念にもとづいて、生涯でたったひとりの男性を捜し求めている孤独な探究者なのだと。男性とまともに目を合わすこともできない小心者であるという事実は、私がひとりでいることのほんの些末な理由のひとつに過ぎない、そう思いたかったから。

私には男性との甘美な思い出など持ってはいなかった。初めてのキスも、セックスだって経験していなかった。基本的にはいじめられた思い出だけ。


スタートはかなり周りから遅れをとっていたと思う。どうだ、と自慢することなどできないけれども、卑下したくなるほど貧弱な経歴でもないと思う。

だけれども、この日、7つ上の彼の導きによって、私はひっそりと静かに人生の分水嶺を越えたのだった。

好意はあったと思う。同情だとは思いたくない。

私たちはイタリアンレストランを後にすると、美術館に寄り、私の住む県で有名なお城を見に行って、それから昔ながらの町並みを見て歩いた。

カフェに寄り休憩をした。

私はオレンジジュース(中学生頃に飲んだコーヒーが不味すぎてそれ以来飲めなくなった)、彼はホットコーヒーを頼んだ。

「退屈じゃなかったですか?」

私は訊いた。

大丈夫だよ、と彼は首を振った。

「とても楽しいよ」

そして、彼は春の日溜まりのような柔らかな視線を私に向けた。

「……本当に、いいの?」

内緒話をするように彼は声を潜め、私に訊いてきた。一瞬、何の話かわからなかった私はきょとんと彼を見返した。

「……怖いなら、無理しなくていいんだよ?」

その言葉の奥にある本当の意味に気付くこともないまま、ただ彼を失望させたくないというだけの理由で、私は「大丈夫です」と何度も首を縦に振ったのだった。

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