第2話 出会い

彼は、風変わりな男性だった。


 まるで、あの絶滅への道を歩んだドードー鳥の最後の一羽みたいに、失われてしまった人間の美徳である何かを、たったひとりで継承していた。

すごく無垢で、だからとても傷つきやすくて、宇宙ロケットで地球の周りをぐるぐるまわったライカ犬のように、彼は澄んだ怜悧な目で世界を見渡していた。

 

彼と出会ったのは20歳の秋だった。


母の諸々の都合で、私は小学校時代に幾度も転校を繰り返していた。私たち一家はあちらに居を構えては、今度はこちらと、いつでも次の場所を目指しながら日々を送っていた。母の投げるサイコロの目の数だけ町を、村を越えていった。その間に父を病魔に奪われもした。


 そんな訳だから親しい友人が出来るわけもなく、真の友情の意味を知ることもないまま、恋慕の情すら知らないまま、陰湿ないじめと母が惚れた(もしくは母に一方的に惚れた)男性に罵られ、邪魔者扱いされ、時には暴力を振るわれながら私は足早に青春時代を駆け抜け気がつけば専門学生になった。


専門学校には、高校からの推薦もあり特に苦もなく入ることが出来た。(サボり魔だったが、推薦書を書いてくれた)

 新1年生の頃はどことなく皆心細げで、地元の高校の頃の見知った顔を見つけると互いに手を取り合い、教室のあちらこちらで同じクラスになったことを喜び合っていた。けれど、ほんの1週間もすれば、全てがあるべき場所に落ち着いていく。初めのうちは古い絆にすがっていた彼らも、やがては自分に見合う新しい友人を見つけ、2年間で多少の推移はあるが教室という小さな社会の中の位階制を形作っていく。

 第一に勉強ができ、しかもそのことを鼻にかけたりせず、『あいつはいい奴だ』と男女隔てなく一目置かれる男子学生たち。

 彼らは決まって勉強以外にも、バスケットボールが上手かったり、ギターで技巧的なリフを弾きこなすことができたりという人間的な魅力を備えている。そして、なんの臆面もなく堂々と女子学生と付き合ったりする。その彼女たちは、柔らかそうな頬をしたかわいい女子。

 このグループは分け隔てない態度で接してくれるけど、私はそれが決して対等な付き合いでないことを知っている。彼らは「上流階級」なのだから。

 その下層にはいくつかグループがある。

 勉強だけが取り柄で、たとえ明日で世界が終わるのだと知っても、英単語や方程式を憶え込む事をやめようとはしない者たち。どこかで目的と手段をはき違えてしまったのだが、そのことに気付くまでに、彼らは随分と多くのものを失うことになる。14歳のぎこちないキスだとか、そんなものを。

 また一方で、勉強は嫌いだけど身体を動かすことは得意だという運動部の連中がいる。(勉強が得意な運動部員は「上流階級」になる)。彼らは、ダンクだろうとスリーポイントだろうと、華麗にシュートを決めてみせるし、クラブの笑顔の似合うマネージャーと、いつの間にかキスの経験も済ませていたりする。だが彼らもまた何かを失っているのだ。しかし、多くの場合彼らは生涯そのことに気付かない。

 それでも、この2つのグループは「その他」の集合よりは階層の上にいる。

「その他」というのは文字どおりその他で、舞台の背景に等しい。勉強もそこそこ、スポーツもまあまあ、とりたてて語るべき才能はない。

 度数分布の最頻値の階級に彼らはいる。体育祭のブラスバンドで、リコーダーないしは経験があればクラリネットなどを受け持つ者たちがこれに当たる。

 その下に、というかその外に、ちょっとした変わり者たちがいる。

独自の価値観で行動し、自分より他の人間にほとんど興味を持たない少数派。彼らは、2、3人のコミューンをつくることもあるが、大抵はひとりで行動している。そして、ひとりでいることを全く気にしない。

私は――私もこの「変わり者グループ」の中にいたのだろうか?


 実は、小学6年生の頃担任の教師に無理矢理陸上クラブに入れられたおかげで、100mを他の運動ができない人に比べたら速く走ることができた(元陸上部の母譲りの前傾姿勢の恩恵もあったかもしれないが)。

 勉強はおそろしくできなかった。高校の学期末テストの結果は120人中、119番目だった。数学に至っては1点という、狙ってもなかなか取れそうにない結果を残していた。全ての回答欄を頑張って埋めたにもかかわらず、これだけ間違えるというのは、これはこれで一種の才能なのかもしれないと、自分で思った。

ただ、専門学生時に社会人経験のある年上の学生と1位、2位を争ったのはちょっとした自慢である。

 私は孤独を愛し、それ以上に草花や花木、水槽に揺蕩う金魚などの水棲生物の小さな命たちを愛していた。こうやって、一つ一つあげつらっていくと、どうやら私も立派な「変わり者グループ」の一員であるらしかった。帰納的推理というのは、時に意外な結論を導き出すものだ。たとえ、それが周りの人間からは自明なことであったとしても。

 教室では、できるだけ身を屈め、頭の上を吹き抜ける風を極力避けるようにしていた。周りのクラスメイトからは、出来れば教室内にある備品、あまり注目されることのない古びた花瓶とか、そんなもののように見られていたかった。埃をかぶった花瓶に語りかける物好きはいない。ただ――もし、心根の優しい男子がいて、その子が誰にも見つからないように、放課後そっとこの身に花を挿してくれたのなら、それはそれで嬉しかっただろうけれど。




放課後は天国だった。

 1時間かけて自宅の最寄りの駅まで電車に揺られ、そこからまっすぐ家に帰る。部屋に入れば濾過器により清明な水をたたえ続ける湧水池のような水槽が私を待っていた。LEDの水槽ライトに照らされたその30㎝ほどの小さな世界には、水草とその間を優雅に泳ぐ1匹の金魚。そんな彼らの世界に手出しするのは2週間に1度の換水の時だけ。彼らの世界を見つめ元気な様子を確認すると、私はスマートフォンを取り出した。普段は、母との連絡ツールもしくは、小さな世界の住人たちのこと、草花のことを調べたりすることくらいしかしたことのないその機械で、私はマッチングサイトを開いた。


 その男性のことは、登録した当初から気になっていたわけではない。ただ適当にスクロールを止めた指の下にたまたま居たのだ。

同じ地球上に、同じ日本という国に住んでいるはずだったが、このマッチングサイトを開くまで私は彼が存在していたことすら知らなかった(当たり前のことだが)。

恋心など知らなかったから、プロフィールと写真を見てただ「話してみたい」と思った。孤独を小さな命たちを愛してはいたが、本当はどこかで誰かに傍に居てほしかったのかもしれない。誰かと話をしたかったのかもしれない。ただ、それは人に興味を持たない私にしてはとても珍しいことであった。

勇気を出して、メールを送ってみることにした。心臓が口から飛びでそうなくらいに緊張していたし、手汗もかいていた。何度も逡巡した結果、震える手で送信ボタンを押した。


今でも不思議に思う、何故、あの時、彼の事が気になったのだろう? とにかくそうやって私は目に見えない糸を、そうとは知らないままに手繰り寄せていったのだった。


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