異世界転生888

平賀・仲田・香菜

異世界転生888

 魔王は死んだ、数千年前の話だ。二度と甦ることのないよう完全に消滅した。

 邪智暴虐の王もいない。かつては人間同士の戦争もあったらしいが、直近の数百年では小さな紛争もない。

 強大で知識を持つ龍は僅かにいる。が、その性格は温厚そのもの。希少な龍を密売しようと画策する輩も昔はいたが、彼らに敵うはずもなくそれは夢想の泡と消えた。

 獣人も、オークも、エルフもドワーフもいる。そして、それらはみな友好であった。


 何事もなく、世界は平和であった。


 ──


 王都より遠く離れた田舎の農村。村人は家畜を追い、野菜を育てて暮らしている。年に二度開催される収穫祭は、村人たちにとっての生きる糧であった。

 春の収穫祭を翌日に控えた夕刻、村では大人も子どもなく準備に追われていた。


 故に気が付かない。


 子どもたちが水浴びをして遊ぶ小川が。


 作業に追われた農夫が心を休めにくる丘が。


 幾数百の死体に塗れて血の色に染まっていることを。


 死体の山が不自然にも揺らめき、その頂天より血の通った腕が突き出されていることを。


「っはあ! げほっ……」


 山を内側から掘り進めていたのは、一人の男であった。死体の内部を泳いできた彼の肺は血に満ち、外の空気を思い切り吸い込みながら咳き込んでいる。死臭の充満した空気であったが、それでも男は思う存分に味わい、満喫する。


「今回はどうだ?」


 男を目を閉じ、眉間に指を当てながら強く念じ、呟く。


「スキル、オープン」

回復能力者ヒーラー

「またか。また、やり直しか」


 この世に生まれ付いた生物は、例外なく一つのスキルを得る。男の脳裏響いた『回復能力者ヒーラー』という抑揚のない声。これはスキルの啓示であった。

 男は死体の山から這い出し、立ち上がる。振り返ると死体の山。幾つかの死体と目が合う。苦悶の表情を見せるもの、安らかな顔のもの、様々であった。


「右目をつむりながら左手を握りしめる。両手を高く上げて、そのまま腰を九十度前に曲げる。左足を浮かせたらそのまま十秒」


 男の動きはよどみがなかった。身体の筋は伸び、不安定な姿勢にも微動だにしない。


「姿勢を戻して時計回りに三回、反時計回りに七回転。そして、右足から踏み出す」


 男は深呼吸をして、一歩だけ歩いた。


「さて、あとは五時間以内にどうするか」


 どうしたものか、と頭を悩ませる素振りをみせた。が、すぐに考えることをやめて、男は舌を噛み切って死んだ。


「っはあ! げほっ……」


 死体の山の頂上より、またもや一人の男が顔を出した。死臭に満ちた新鮮な空気を取り込んで、何やらぶつぶつと呟く。


「スキル、オープン」

龍殺しドラゴンキラー

「八回目だな」


 男はすっくと立ち上がり、動き始めた。


「右目をつむりながら左手を握りしめる。両手を高く上げて、そのまま腰を九十度前に曲げる。左足を浮かせたらそのまま十秒」


「姿勢を戻して時計回りに三回、反時計回りに七回転。そして、右足から踏み出す」


 男は舌を噛み切って死んだ。


 死体がまた増えた。山を作る死体は、全てその男のものであった。


 ──


 時刻は少し前、世界は現実社会に遡る。


「なーんも、いいことなんてなかったなあ」


 今、一人の男が自らの命を絶たんとするその時である。

 彼は、走馬灯のように自らの半生を振り返っていた。いや、彼の人生はこれで締め括られるために、振り返っているのは一生なのかもしれない。彼は一生を振り返っていた。

 父の蒸発により貧しい生活を強いられてきた環境、人並みに勉学も運動もできなかった己の不器用さ、性根の悪い人間に目をよくつけられ騙され、殴られてきた運の悪さ。

 その碌でもない人生に彼は苦笑、苦笑しようとしたが、とても笑うことはできず苦しみしかなかった。


 木造安アパートの薄暗く湿気た部屋。部屋には似つかわしくないほどに太く立派な天井の梁。いつもは邪魔にしたか感じていなかった梁だが、今日ばかりは『頼りになるじゃないか』などと考えながらロープを括っていた。首を括るために。彼は脚立に立ち、ロープに手をかける。


「さて死ぬか」


 しかし、テーブルの携帯に着信が届く。仕方なしに確認に向かうと、動画配信サイトのサブスクリプションサービス更新のお知らせとある。『最近見てないからな〜、解約するか』と、問い合わせサイトにアクセスした時に気付いた。


「まあいいか、どうせ死ぬんだし」


 再び脚立に登る。自分の部屋を高い位置から見渡すことが新鮮に思えていた。掃除が行き届かず、埃が積もった棚の上にはゴキブリがひっくり返って死んでいる。そして、その隣には見覚えのない缶詰が鎮座していた。『あれはまさか』と、男は取りに向かう。それは、いいことがあった日に食べようと思っていたのに終ぞ機会が訪れなかった蟹の缶詰であった。見れば、賞味期限もずいぶんと切れている。『最後の晩餐をやり直そうか、しかしお腹を壊すのも嫌だ』と、悩んだ時に気付いた。


「お腹壊れてもいいか、どうせ死ぬんだし」


 彼はカニカマでもやれなかった一口食いという偉業を成し遂げ、三度脚立を登る。


 そして、一息に足場を蹴り倒した。


 ──


「して、ここが『あの世』というものであろうか」


 元来、信心深い方の人間でなかった男は、いわゆる天国や地獄を信じているわけではなかった。しかし、確かに首を吊ったはずなのに、意識を無くし死んだはずなのに。その記憶や人格をそのままとして、今、目覚めたのだからその疑問はもっともであろう。


「MOOR……BD?」


 男の目の前には扉。彼は、その扉にかけられたプレートに書かれたアルファベットを読み上げる。彼にはその言葉の意味は理解できないでいた。


「入ってみるしかなかろうか」


 疑問ばかりが頭に浮かぶが、一度死んだ男に躊躇いという感情は一切失われているようだった。中を伺う慎重さなど現世に捨ててきたとでも言うべき勢いで、扉を開け放つ。

 その先は薄暗い部屋であった。照明は点けられておらず、壁一面に埋めつけられた大量のモニタの光が部屋を朧げに照らしていた。目まぐるしい数のケーブルが床を這い回り、その皮膜に満たされた地面はまるで巨大な爬虫類の背中を男に思い起こさせた。

 ずかずかと男は遠慮を知らなかった。足元の配線に気を使うことすらなく部屋に踏み入った。何日も換気すらされていないような澱んだ空気は男の顔を曇らせる。


「人が、いる」


 硬くてカビが生えたソファで横になる人間を男は発見した。男の遠慮のなさは止まることも知らず、べたべたその者を揺さぶり起こそうと試みる。

 目を覚ましたその者は、男の存在を脳で認識するやいなや小さなペンライトのような何かを男に向けて構える。


「INOKOKETTAYUOD!?」


 部屋のプレートを読めないことから予想もしていたが、その者の言葉は男に認識ができないでいた。


「すみません、ここはどこでしょうか」

「UNIHSEDIATOJUSTUKUF、ETIROARAKUSTATAYKODIN……INONIANEROKOTIANIHSUOSAHINMOORBD」


 言葉が通じないことに頭を悩ませ、男は一歩近づいて手を伸ばす。瞬間、その者は構えたペンライトのような何かを光らせる。


「ERODOMINAWONNNNIR」


 男は意識を失い、その場に倒れ込んだ。


 ──


「今度こそあの世……という雰囲気ではないな」


 男が意識を取り戻すと、そこは屋外であった。近くを小川が流れる小高い丘。見知らぬ土地ではあったが、直近に危険を感じることもないのどかな場所であった。

 男は、先ほどの部屋で倒れる直前に伸ばして腕が、何かを掴んでいたことに気が付いた。イラスト付きで、何かを説明しているメモ帳のようであった。


「これは、なんだろうなあ」


 男はそのメモ帳を読み漁り始めた。


 メモ帳を読み漁った結果、男は理解した。


『俺の死ぬ直前の行動と蟹缶由来の腹痛、その状態で死んだことによって輪廻転生のデバッグルームに入室できた』


『ここは自分が住んでいた現代社会とは違う異世界。この世界の人間は例外なくスキルを持つ』


『右目をつむりながら左手を握りしめる。両手を高く上げて、そのまま腰を九十度前に曲げる。左足を浮かせたらそのまま十秒。姿勢を戻して時計回りに三回、反時計回りに七回転。そして、右足から踏み出す。そして五時間以内に命を絶てば、この場所この世界に生まれ変わることができる』


『スキル一覧もメモ帳に記載がある』


 男は、一つのスキルに目を、心を奪われていた。


 ──


「スキル、オープン」

火炎能力者パイロキネシスト


 溺死した。


 ──


「スキル、オープン」

念動力サイコキネシス


 焼死した。


 ──


「スキル、オープン」

瞬間移動テレポーテーション


 転落死した。


 ……

 …


「スキル、オープン」

僥倖的破廉恥ラッキースケベ

「遂にきたか」


 実に九百弱回の転生を繰り返した結果であった。

 男は幼少の頃より漫画に親しんでいた。特に、暗黒旅行トラベルダークネスやいいちこ百%などといったお色気要素の色が強いものを男は好んでいた。そのような男が、僥倖的破廉恥ラッキースケベに憧れを持っていない訳がなかったのである。

 男は目当てのスキルを胸に、ようやく街へと降り立っていった。期待に胸を膨らませてスキップの一つもしながら向かってもおかしくはないはずではあるのだが、男の足取りは不思議と冷静であった。幾数百の死を乗り越えた男の精神状態は誰にも窺い知れないであった。


「祭りか、これは幸運な事故が起きても不思議ではない」


 飴を片手にはしゃぐ幼女、張りのある柔肌を多く露出した年頃の少女、肉付きがよく額に汗して働く婦人。まさに、よりどりみどりといった有様である。

 であるのに、男の胸は未だにどこか冷たくあった。


「なぜだ? 俺はなぜこんなにも冷めている」

『それは君が昇華したからだよ』


 突如、男の頭には聞き覚えのある声が響いた。生まれて初めての感覚に、男はその場に蹲ってしまった。その際、前を歩く女性の臀部に顔を埋めてしまった。女性は悲鳴をあげて立ち去る。


「なぜだ? なぜ喜びを感じない」

『君はもう人の範疇を超えた、ということさ』

「どういうことだ。そして、お前も何者だ」

『少し前に会ったじゃないか、君も薄情な奴だ』


 男ははっと思い当たる。それは、首を吊った後に奇妙な部屋で寝ていた者の声であった。


「ソファで寝ていた……?」

『思い出してもらえたようだね。しかし君も困った奴だよ、僕のメモ帳を持っていってしまうなんて』

「これはやはりあの部屋にあったものか」

『そうだよ、しかもそんな悪用をするなんて』

「目当てのスキルがあったんだ、許せ。しかし、心が虚無となってしまった」

『八百八十八回』

「なんだその数字は」

『君が転生をやり直した回数』

「だからなんだと聞いている」

『それだけ輪廻を廻せば、魂の次元は昇華するということさ』


 男には、頭に響く声が何を言っているのかがよくわからなかった。


『そして、もはやその世界は君の魂があるべき世界ではない。こっちに来るといい』


 男の意識は朦朧とし、目の前は暗く落ちていった。


 ──


「じゃあ、ここの修正をお願いね? 君が悪用した世界の抜け穴なんだから、きちんと直しておいてね」

「……はい」

「いやあ、やっと後輩ができた。バグ修正は新人の仕事だからしっかりね」


 男を部屋に一人残し、その者は後ろ手に意気揚々と部を立ち去っていくのであった。

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