幕間 ダニエル
私は迷信を信じない。神も信じない。この目で見たものしか信じないとは言わない。この目で見たものも場合によっては信用できない。
第一に、人は騙すものだ。第二に人は勘違い思い違いをする、つまりミスをする。第三に我々が理解できないものを無思慮に奇跡や神の御業だと考えるのは単なる思考停止以外の何物でもない。
我々が見つけられないか理解できないだけで答えはあるはずなのだ。
だが迷信や神様は使い方を間違えなければ役に立つ。
自分を有利にする為に、商売敵を罠にはめる為に迷信を利用できるのなら、そうするまでだ。気に入った女を手に入れる為にもな。
戦場の幽鬼エイリークがその一つだ。彼の伝説は随分と昔から酒場の吟遊詩人や戦場を渡り歩く傭兵たち、そして我々商人の間で語り継がれている。
私の父、マルクは愚かだった。当時の私も負けずに愚かだったが。父は信じてはいけないものを3度も信じてしまったのだ。それはつまり、金以外を信じてしまった。
最初に女を信じてしまった。私の母を信じ、彼女の望むままに我儘をかなえていった。といっても単なる贅沢をかなえたわけではない。女という性を信じ、彼女の言い訳を信じ、自由に行動させてしまった挙句、男を作って家を出た。
ご丁寧に店に置いてあった取引の為の金銭を持てるだけもって、だ。その時まだ13歳だった私は、突然消えた母の裏切りに何もできず、父を満足に支える事すら出来なかった。
次に友人を信じてしまった。取引に足りない金銭を高利貸しから何とか調達し、急場をしのいだ父は2年で何とか商売を立て直し以前以上に店を大きくした。今の私から見ても奇跡的な復活劇だった。
運も良かったのだろうが、父の商才が傑出していた一つの証左だろうと考えている。だが、商才と人を見る目は似ているようで違ったのかもしれない。商売には人を見る目が必要なはずなのだが、父のそれは商売から外れると途端に機能しなくなる。
ある日、父の旧友が父を訪ねてきた。一年前に父と再婚した新しい母が父の友人をもてなした。父の友人はアイルグリスの商人で父に助けを求めに来たらしい。以前、その友人に助けてもらったことがあった父は全面的に彼を支える決断をして、騙された。
気が付いたら商売を乗っ取られて、財産を根こそぎとはいかなかったが、殆ど持っていかれてしまった。その友人は確かに危機的状況であったらしいが、父を生贄にすることで生き残る事が出来たというわけだ。
当面生きていくことはできる程度の財産は残った。新しい母はこういう苦しいときにも父を見捨てずに、側に居て絶望している父を支え続けた。
そんな時に戦場の幽鬼エイリークと父は出会った。出会いの場は日の暮れた酒場だったと聞いている。やけ酒で酔っ払った父と意気投合して一緒に馬鹿呑みしたあげく、泥酔した父を家まで送ってってくれたのがエイリークだったのだ。
やはり父は運がいい。戦場でも商売でも語り継がれている伝説のエイリーク。彼と偶然出会い、殺されもせず酔いつぶれたところを助けられ、酒の肴に聞いた父の事情にどう気まぐれを起こしたのか、父と取引をしてくれた。
それもかなりの好条件で。
彼が戦場の幽鬼エイリークであることは、父も私もついでに新しい母も翌日の朝に気が付いた。伝説の通り彼の顔が何かの折に燐光を放ち二重に見えたし、彼は何処からともなく、不思議な銀色の金属で出来たような筒を虚空から取り出して、迎え酒だと言いながら父に振舞ったのだ。
それは何か空気が漏れるような音をあげて穴をあけた後に中身を飲む物だったらしい。父の話によると中身は苦いエールの様でぱちぱちと刺激が強い酒だったようだが、その後今に至るまで同じようなものを見た事はない。
こんな不思議な話は彼の関連以外の話では聞いたことが無い。
因みにその銀色の筒は商売の守り神として今でも家の庭に父が建てた小さな神殿に祭ってある。父が亡くなる少し前まで、どんなに忙しくても父は最低でも週に一度その小神殿に通っていた。
父はエイリークに3日で金を作ると約束し、その約束を果たした。かなり彼方此方に無理を言って金を借りたらしい。こんな無理が効いたのもそれまで父が誠実に商売をし、人との絆を結んでいたからもかもしれない。
人に恨まれるような商売をする奴は3流、とは父の口癖だった。その父が無理を押して金を作り、必死で支えてくれた新しい母を質に入れるとまで言わせたエイリークの扱う商品は、流石に伝説の名に恥じないものだった。
今までどんな高級な仕立てを行う職人でも触ったことの無い様な手触りの、網目が奇跡の様に整ったシルク。シルク自体が貴重で滅多に手に入れる事などできないのだ。質の良いものなど、父ですら何度か目にしたことがある程度。その父が目にしたこともないと漏らすほどの見事な一品。どのような業で染色したのか色とりどり、複雑な文様が描かれている品もある。
その他にも良質な鉄とそれらで作られた鉄製品。鋼といったか。単に鉄で作られた物よりも固く、切れ味の良い武器。
そして市場に出回っているどの品よりも新鮮な各種の香辛料。それも商人の取引相場の10分の一ほどの捨て値での取引。
人生で得たほとんどすべての財を失って、生きていく気力をなくしていた父に再度命を吹き込むには十分な品だった。
歓喜してエイリークに抱き着こうとする父を軽くいなして、彼は対価である金銭を受け取ってそのまますがたを消してしまった。言い伝えられている通りだ。
いや、言い伝え通りならこの後父からこの町で売っている商品を片っ端から仕入れていただろうけど、今の父にはその力がないのは彼にもわかっていたのだろう。
だが父の才覚とこの商材、私たちがやり直すにはこれで十分すぎるほどだった。
私は迷信を信じない。神も信じない。だがそれらを利用することも、信じているふりをすることも躊躇わない。
父のもとで商売の勉強をしながら商会を立て直す。時にはエイリークの逸話を利用し、時には彼との関係を匂わせて。彼から仕入れた品を父も私も一度に市場に出すようなことはしなかった。幸いにもお情けで格安で売ってくれた香辛料のお陰で、借金は返せたし懐には余裕がある。
ここぞというときに手札を切る。そうして未だに彼とかかわりがあると思わせる。私は彼らをだましてはいない。彼らが勝手にそう思い込むのだ。
そうしていつの間にか私は妻を娶り、父の代わりに店を任される事も増えてくるようになってきた。
父が最後に信じてしまったものは息子である私だった。
父の失敗を糧にした私は、父の薫陶もあり、商売の世界で着々と力を蓄えつつあった。そうして妻を娶り、子が産まれ自分の手でいくつもの商談をまとめた。
それなりに命懸けの修羅場を乗り切ってきた私には、いつの間にかあれ程頼りにしていた父が如何にも危なっかしく見えた。
父は今までの失敗に懲りず、未だに時折人を信じ少なからず損失を出すことがあったのだ。それは損をして得を取るといった類のモノではない。いずれまた同じ失敗を繰り返すかもしれない。だがその時私のもとにエイリークが来てくれるとは思えない。
私は私の妻と子供、そしてまだ幼い弟や妹たちを守らなくてはいけない。
私は父をだまし、商会を、事業を丸ごとのっとった。側近と共に父の事務所に押し入り、父に隠居を迫り、彼の持つ商会における権限を全て奪った。そうすることが結果的に父や母、家族を守ることになると信じて。
父は泣いていた。悲しみと絶望に暮れてではない。笑いながら泣いていたのだ。父の妻、私の新しい母もその一件を聞いて笑っていた。
息子に裏切られたはずの父の心境は未だにわからない。ただ父は一言「そうか、後は任せた。」と言い残してその後は一切商会に関わることはしなくなった。
商売の世界から完全に足を洗ったわけではない。商会とは関係ない小さな店を開き、小さな商いをして弟たちを育てている。
当然、家長を奪った、いや継いだものとしての責任から逃れるつもりは無い。父や母、弟たちの暮らしは十分に見るつもりだったのだが、父は「それは俺が死んだときに頼むよ。」といい、私の援助を受けようとはしなかった。
父とは断絶になることも覚悟したのだが、そうはならず、よく食事を共にし、酒に酔った時には、「俺には自慢の息子が後をみてくれるからな。安心して呑める。」とはしゃぐことが多かった。
まだ商人としてはこれからの父を隠居に追いやったはずの息子にどんな思いがあったのか。何故笑いながら泣いたのか。何故母が笑っていたのか。
俺にはいまだにわからない。わからないまま、必死で働き、恩人であるはずのエイリークの存在を可能な限り利用し、商会を大きくしていった。
ルーフェスを治める公爵家の代官、アモル子爵に取り入り家名を名乗る事を許され、気が付けばルーフェス一の豪商と呼ばれるようにまでなっていた。そうしてその頃に父は病を得て儚くなってしまった。
病床の父は苦しみながら何度も私に言うのだ。
「エイリーク様にもう一度お会いしたかった。もしお前がお会い出来たら、チャンスを逃すな。そして必ず恩を返せ。
お前は強かに育ってきたが本当に大事にしなくてはいけない部分は忘れていないはずだ。私たちが今ここにあるのは彼の慈悲によるものだ。
解っているだろう。彼と私が行った取引は、香辛料の取引を除いても、とてもまともな取引とは言えない。
あの当時私が用意できた金額では、香辛料を除いても精々があの時用意していただいた品の2割でも仕入れる事が出来たら御の字だ。わかるだろう、それだけ素晴らしい品だった。そしてそれだけ高値で売れた。
これは一方的な恩だ。
一族の商会を継いだお前は、彼に対する負債をも継いだ。必ず命懸けで彼に恩を返せ。」
2度や3度じゃない。意識を取り戻し、体力を取り戻すたびに何度も。約束の言葉を返した後、父は安心したかのように逝ってしまった。
私は迷信を信じない。神も信じない。この目で見たものしか信じないとは言わない。この目で見たものも場合によっては信用できない。
だが未だに手元に残してある、彼がもたらしたこのシルクの手触り。武器の切れ味と美しさ。そしてこの商会の歴史は事実であり、私の人生でもある。
彼の逸話には色々と不思議な、迷信やら事実誤認としか思えない奇跡があふれている。
それを踏まえても、私はエイリーク様だけは信じても良いと思っている。
私の残りの人生は父の様に息子にすべてを奪われる事と、父との約束を果たしエイリーク様にご恩をお返しする事。
その二つだけが残っている。
そう妻に語るとあの日の母の様に妻は笑っていた。母と一緒に。
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