第29話 恋のアカナチオ・その8

 ふう、暑い。

 ハンタマは上着を脱いだ。彼のいる記者席はピッチのすぐ側にある。

 そこにも足湯が流れているのだが、暑いのはそのせいばかりではない。

 鼻をつく厚化粧のにおいが、ハンタマのところまでプンプン漂ってきていた。

「行けーっ!オンセンロ!ほら、何やってるのよ、走りなさい!フレーッ、フレーッ、オンセンロ!!」

 普段の試合では絶対に聞こえないはずの、熱い応援がこだまする。

 声の主はオンセンロベンチの中にいた。赤間睦美である。

 何が何でもオンセンロをJ 1に押し上げるのだと、いつもの3倍の厚化粧で、声を張り上げている。

 対照的に、赤間監督は迷惑そうな顔をしていた。

 できればJ1などには上がりたくない。

 いっそのことワザと負けてしまおうぐらいに考えていた。

 ところが睦美がベンチの中にまで入って、選手に気合いを入れるし、スタンドには大勢の赤海市民が詰めかけている。

 そんなことをしたら一発でバレるだろう。

 試合は睦美に檄を飛ばされたせいでもなかろうが、選手たちが躍動した。

 積極的にボールを奪いにいき、パスをつなぐ。ドリブルで仕掛け、相手を抜く。

 普段あまり観客もいないのに、今日はいいプレーをするたびに歓声が起こるものだから、一層気合いが入る。

 相手はJ1からプレーオフにまわった、赤嶋あかしまアンコツバキというチームである。

 茨城県赤嶋市を本拠地とし、オリジナルテンとして、オンセンロとともにJリーグの開幕時に名を連ねた名門である。

 J1優勝経験もあるが、今シーズンは不振で入れ替え戦にまわってきた。

 オンセンロとは、かつてJ1の舞台で何度も対戦があるが、今の黄緑色のユニフォームになってからは初めてである。

 そのことが災いし、彼らは苦戦していた。

 何しろ、相手がどこにいるのかわからない。初顔の相手には、オンセンロのステルス戦法は絶大な威力を発揮する。

 加えて、スピーカーからは力が抜けるような歌が繰り返し流れている。


 おいでませ赤海 恋の街

 疲れを癒す 極上の宿

 くつろぎの時間 あなたと二人

 湯の花さく 常春の楽園

 ゆるりゆるりら ひとやすみ

 ゆるりゆるりら ほねやすめ


 これを聞いていると、サッカーなんてやめて今すぐ温泉で骨休めしたくなる。

 おまけにスタンドでは、水着姿の若い女性たちが多く集まり、温泉饅頭を食べながら熱い視線を送っているものだから、そちらが気になって仕方ない。

 頼みのアンコツバキサポーターも、足湯の気持ちよさに骨抜きにされて、応援に身が入らずにいた。

 中にはこっそりゴール裏を離れて水着に着替え、露天風呂の方に行くものもいた。

 相手の身も心も骨抜きにする、これがオンセンロマジックである。

 試合はオンセンロのブラジル人コンビが爆発。前半だけで3-0とリードした。

 一試合に平均して1点も取れないオンセンロが、今日は違う。

 滅多に見られないゴールラッシュに、スタンドは狂喜乱舞した。

 長いホイッスルが吹かれて、前半45分が終了した。

「いいわよ、その調子、その調子!」

 睦美は大はしゃぎで、引き上げてくる選手たちに声をかけた。

 だが、赤間監督は浮かない顔をしていた。

 オンセンロはこんなふうに自分たちから積極的に仕掛けにいくチームではない。

 しっかり守って、数少ないチャンスをものにするチームだ。

 できれば負けてしまいたいというのが本音だが、そこは歴戦の名監督である。一方では冷静に試合を分析していた。

 睦美はもう勝ったつもりでいるが、アンコツバキは長年J1で生き抜いてきたチーム。そう簡単には勝たせてくれない。

 このままだとまずい。監督は眉をひそめた。


 一方でハンタマは、夜風に吹かれたくなって、スタンドの上方に行くことにした。

 記者席は熱気が逃げるところがなく、真冬だというのに汗でびっしょりである。

 水着姿で露天風呂を楽しむ観客たちを見て、自分も水着を持ってくれば良かったと思った。

 できれば仕事など忘れて、あの女の子と、こういうところで温泉饅頭でも食べながら観戦したら、サッカーにも少しは興味を覚えるだろうか、と思った。

 と、そのとき、例の鈴の鳴るような声が聞こえてきたのである。

「あ、ハンタマさーん」

 まさかと思って振り向くと、そこには夢にまで見たあの子がいた。

 一瞬、夢ではないかと思った。

 ほっぺをぎゅーっとつねってみたが、熱気にのぼせたハンタマは痛みを感じない。

 やはり夢だ。夢に違いない。

 だってあの子が僕の目の前にいる。しかも水着を着て。

 女の子は赤いビキニ姿に、赤い薄手のパーカーを羽織っていた。

「ハンタマさんはお仕事かしら?」

「は、はい。ちょっと夜風に当たろうと」

 と、汗を拭き拭き答えた。どうやら現実らしい。

「私はオンセンロの応援に。やっぱり気になっちゃって。赤海っ子だものね」

 もしかして自分を探しにきてくれたのかと思って、少しガッカリしたハンタマである。

 だが、ここで会ったのも何かの縁。これは一世一代のチャンスだと思った。

「あ、あの、良かったら」

 連絡先を交換しようと言いかけたハンタマを遮って、女の子が口を開いた。

「ねえ、ハンタマさん。温泉饅頭食べない?」

「え、あ、はい。た、食べます」

「じゃあ、私、買ってくるね」

 と言うと、女の子はくるりと向きを変えて、売り子さんの方に行ってしまった。

 あ、と思ったハンタマであったが、ちゃっかり女の子のお尻を凝視していた。

 すると女の子は振り返り、彼を見てニッコリ笑って手を振った。

 顔を真っ赤にして、慌てて目を逸らすハンタマである。

 しばらくして、紙袋いっぱいの温泉饅頭を抱えて女の子は戻ってきた。

「ねえ、ハンタマさん。一番上に行って食べましょうよ。あそこなら座れるし、ここは暑いから」

「そ、そうですね」

 スタンドを露天風呂に改装したビッグスパだが、一番上には立見席が残っている。

 段のところに腰掛けて、二人で饅頭を食べることにした。

 ビッグスパは大正時代に建てられた古いスタジアムを改装したものである。

 南側のメインスタンドの後方には何本ものポールが立っており、ポールの先には旗がなびいていた。

 そのうちの真ん中、一番高いポールには、他と違う、赤い色の旗がはためいていた。

 赤間睦美がどうしても変えさせなかったという、あのチームフラッグである。

 そのすぐわきに、二人は座った。


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