第16話 心の垢は落とさずに・その1
給料日前はねずみ色である。
季節は巡り、もうプロ野球のペナントレースも佳境を迎える頃となった。
ハンタマの住む関東地方は、日中はまだ暑い日差しが残っているが、夜になると海からの涼しい風が吹き込み、半袖でいると肌寒さを感じることもある。
そろそろ食欲の秋の到来である。
それなのに、ここ数日のハンタマといったら、まるで美術館に飾ってあっても誰も見向きもしないような、くすんだ色合いの風景画の中で過ごしているかのようだった。
食べることに人生の全てを賭けているハンタマだ。
食費以外のものには極力お金をかけないようにしている。
下着はとうの昔にパンツにも靴下にも穴があき、ワイシャツも素肌が透けて見えるくらいになっているが、新しいものに買いかえることはしない。
靴の底は、アイススケートリンクのようにツルツルである。
羽生結弦選手だったら、そこで四回転ジャンプが飛べるだろう。
家賃だって、昭和30年代だってそこまで安い物件は見当たらないだろう、というようなボロアパートに住んでいるから、ほとんどかからない。
それなのに、給料日前は今日のパンにも事欠くありさまだ。
それもそのはず、他のことには一円だって払うのが惜しいハンタマであるが、食べることに関しては、湯水のようにお金を使う。
そのレベルは、もはや歴史上のどんなお金持ちにも敵わないレベルに達している。
例えば、豊臣秀吉は当時日本一のお金持ちであった。
相当な贅沢をした人だったが、ハンタマに比べればまだ甘い。
もしハンタマが豊臣秀吉だったら、今すぐ大阪城を売り払って、すべて牛丼特盛に費やすところだ。
今日も空きっ腹を抱えながら、ふらふらと東赤スポーツに出社した。
給料日までには、あと三日ある。
この三日間をどう過ごすかということで頭がいっぱいで、仕事にも身が入らない。
もっともハンタマが真面目に仕事をしているところなど、歴史上のどの人物も見たことがないのであるが。
スポーツ新聞の編集部である。
そこかしこに大量の書類がある。
身の回り360度を紙に囲まれているといってもいい。
こんなに大量の紙に囲まれていると、どうして自分はヤギに生まれなかったのだろうと、万物の霊長を自ら明け渡すような妄想にかられる。
でも空腹には勝てぬ。ああ、いっそのこと自分がヤギだったらいいのに。ムシャムシャ。
「バカモン!何をやっておるか!」
聞き馴染みの声が聞こえて、はっと我にかえる。
「大事な原稿を食べるやつがあるか!それより取材だ。明日から三日間、山奥のお寺に行ってもらう」
「へ?お寺、ですか」
そんなところに何の用事があるのだろう。
お坊さんたちの運動会でもあるのだろうか。
「二泊三日で、お寺の修行を体験する取材に行ってもらう。野球も無理、相撲も無理となれば、このくらいしかやることがなかろう。とっとと荷物をまとめて用意しろ!」
スポーツ新聞というのは、スポーツのことばかり書いてあるのではない。
文化や芸能など、実に様々な話題が載っているものである。
東赤スポーツでも、色々なことに記者が挑戦する企画がある。
今回、お寺の体験修行を取り上げることとなり、ハンタマに白羽の矢が立ったのである。
最初聞いたときは、何で僕がと思ったが、よくよく考えてみると、これは渡りに船かもしれない。
それというのも、お寺で修行するのは辛そうだが、食事は三度、食べさせてもらえる。
ハンタマの大好きな肉や魚はないが、このまま飢えて死ぬよりはマシである。
給料日まで、なんとかこれでしのげそうだ。
翌朝早く、電車で栃木県の山奥まで行った。
ハンタマが修行させてもらうのは、
大昔に活躍した、
入り口に立つと、見上げるほどに立派な門がハンタマを出迎えた。
優に10mはあろうかという、きらびやかな装飾が施された朱塗りの門である。
上部には、龍や鳳凰、麒麟といった想像上の生き物などの彫刻が幾多も施され、ハンタマを見下ろしていた。
たかが門にこんなにお金をかけるようなお寺なら、食事も期待できるだろうと、ハンタマ基準の胸算用である。
門とはすなわち見てくれである。
ハンタマに置き換えれば、彼が年中同じものを着ている、激安スーパーで買ったよれよれのスーツみたいなものである。
ハンタマは見てくれの百倍、千倍、いや数万倍のお金を食べ物に費やしている。
さぞかし豪華な料理が出るのだろうと、空っぽの胃袋に期待を詰め込んだ。
しかしハンタマはスポーツのこともよく知らなければ、お寺のことはもっと知らない。
この後、八大地獄も真っ青の厳しい修行が彼を待ち受けているのだが、このときの彼にはまるで知る由もなかった。
一方でその頃、東赤スポーツ編集部である。
ハンタマの頭の上にいつもカミナリを落とす鬼編集長は、悠々とコーヒーを飲みながらオフィスの中を眺めていた。
社内で最も横幅の広い人間がいないせいか、いつもより広々としているように感じる。
新聞は時間との戦いだ。
普段だったら記者が所狭しと走り回り、あたかも戦場のようである。
だが今日に限っては、ゆったりとした時間が流れていた。
まるでお洒落なカフェのテラスで、薄っぺらいパソコンを広げて仕事をしているかのような錯覚に陥った。
店には品のいいクラシック音楽がかかっている。
サイフォンで淹れたコーヒーの香りは、日頃の激務に疲れた心を癒してくれる。
パリで買ったワイシャツは肌なじみがよく、ストレスを感じさせない。
隣のテーブルからは、小鳥がさえずるような、ご婦人方の会話が漏れ聞こえてくる。
普段の彼なら、集中して仕事をしているときに余計な音が聞こえると、イライラしてしまうものだが、今日はそれすらも心地よく感じる。
きっとどこかの旧華族の麗しき御令嬢なのだろうと、興味を持ってふと顔を上げると、目と目が合う。
雪のように白い肌をした、長いまつ毛がかわいらしい娘さんだ。
意外と大きな口をしている。
その口がカパッと大開きになり、カタカタという耳障りな音を立てた。
この令嬢、よく見たら肌の色は灰色にくすんでいる。
と、そこで編集長は現実に戻された。
時代遅れの長いアンテナを立てた薄汚れたファックスが、さも大儀そうに、よっこらよっこらと一枚の紙を排出していた。
この子も編集部に来たばかりのときは、雪のように白い肌だったのが、今ではすっかり日に焼けたドブネズミみたいである。
編集長は一度大きくため息をついてから、そのファックスを読んだ。
やれやれ、これは厄病神に取り憑かれているな。お寺にお祓いも頼むべきだった。
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親愛なる日本の皆さまへ
うちらは怪盗赤ずきんちゃんなのよ
だから新たなお宝をいただいちゃう
そのお宝は、赤光東照寺にある、国宝・スリーモンキーズ
東赤スポーツ編集部のみなさん
いいこと?ハンタマさんがいないからって、ちゃんと一面に載せなきゃ駄目よ
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